聖書読んでる時のボクとそうでない時の自分乖離しすぎ問題
ハロー!生きること!
文章書き、ハマってまして一日二回更新です。
完全に趣味になりそうだ。
ところで聖書閉じた瞬間からこの世に放り出された感、ありませんか?
僕です。
働いてる時なんかもう愛することやキリストなんか吹っ飛んで、人間関係やなすべきことにファイティングポーズ取ってます。
大変な時だけ「神様助けてください」ってね。
四六時中神様を覚えていたいのに、愛することを忘れて、あぁ〜神様なんか吹っ飛んでたなあ、もっと近く感じていたいのに意識するのが億劫になるこのやるせなさ、辛さ、わかるでしょうか。
昔好きだった女の子が「バイトしてる時は神様なんか吹っ飛んでるから〜」
って言ってたのをふと思い出したなあ。
神様を知らない世界に飛び出してるから当たり前なのか?
まだまだ働くことの意味を見出していないのか?
これ、読んでみたらいいんだろうなあ。
おばあちゃんが、「私は働けない人、働けるのに働かない人ばかり相手してきた私にとっては、働けることがどんなにか素晴らしいことか!」って言っていて、嬉しかった思い出があります。
そうさ、働けること、働く意思が今現在ボクにあることだけでも本当に感謝なことじゃあないか。
日銭稼ぎレベルだとしても、朝起きて、やることがある生活は素晴らしい。
働きたくないと思う時、働きたくないんじゃなくて、何か、他の理由があるからなんだ。パワハラが嫌だとか人間関係めんどくさいとか
神様は天から見下ろしてるんじゃなくて、僕と共にいてくれる以上に
働いている僕を背負ってくださっているのだと
下には永遠の腕がある(申命記33:27)と
神様忘れるアッパラパーな僕を、担っていてくださっている
とすると、僕は一人じゃないと思い出す、一息つく、そんな時こそ大事なんじゃないか?
それが安息日の意味じゃないか?
スッゲェェェェ!!
自分でこの結論に辿り着いて腑に落ちたのスッゲェェェェ!!ビバ!!文章書くこと!!
みんなも毎日書いたほうがいいよ文章!!
まあ全部聖書に書いてたことだけどね。
でも書いてあることの本当の意味やそれこそ本質を掴むのが大事であって、
それ以外は全部カタカナでしか入ってないんだよね。僕、今日で「アンソクニチ」が「安息日」に変わったよ。今まで「アンソクニチ」って言ってたよ。いや、未だに「アンソクニチ」なのかもしれないけど。
少なくとも、こういった休みに、文章を書いて安息日を聖なる日とすることなら、できそうだ。
ただ、安息日に向かってエネルギーをためていく生活こそが理想だから、安息日に力を受けるんじゃなくて、安息日にこうやって感謝、いわば礼拝ですよね。礼拝して出し尽くすはずがさらに力を与えられてこの世に出ていくというサイクルにしたいものだ。
…次、日曜礼拝から迷い出てる僕、というテーマで次note書いてみっか…
ガンガン自分と向き合うじゃん僕…
偉いわ〜偉すぎるわ〜
って言ってくれてるはずだ〜神様ァ〜
以下余談
・書いてあるよ、とか、前言ったよね?だけで人をコントロールしようとする人嫌い…
これは好き嫌いの話であって、嫌い…
僕も仕事ガチ勢になったら言ってしまうのだろうか…
自分が自分に言うのはいいことにしてるけど…マイルールで。
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