「どう在りたいか」のセルフコーチング
どうあるべきか、ではなく、どうありたいか。
前者は息苦しくなり、後者は力が湧いてきそうだ。
前者は、周りにコントロールされている状態であり、後者は主体的に、信仰で生きている姿だと思う。
もちろん、「どうあるべきか?」という、基準を問う姿は大切だと思う。時として基準は、能力以上にこの世からも、もっというと教会からも求められる。
ただ、それが本当に自分の生きたい自分像なのかは、もっというと神様に創られた自分らしい人生か?というと首をかしげる。
なぜなら、誰も自分の人生の幸せを担保してはくれないから。
石を投げられそうだが、もっというと神様でさえ、「あなたがそのように生きたいなら、それでいい」と、悲しみながら見つめておられるお方だから。
ヒトに与えられた自由意思とは、なんて美しく、苛酷なことだろう。
自分で考えなければならない。
大人は、質問には答えない。
常に考えさせるのだ。
その上で、どう在りたいかを決めた後は、そうあることで自分は常に幸せな状態を維持することになっているのかを絶えず確認し続けることだ。
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