随筆|墓について考えることは、死について考えることではなかろうか。
お盆ということもあり、墓について調べながら考えている。
先日、納骨堂を運営する宗教法人が経営破綻して、千体もの遺骨を収めたまま突然閉鎖されるというニュースが地元であった。原因の一つに、法人の代表者が運営資金を個人の居住費や飲食代に使い込んでいたというのがあるらしい。嫌な話だ。
この納骨堂を利用していた元契約者達は、遺骨を手元に引き取ったり、そのまま閉鎖された納骨堂に置いておいたりと、とにかく、遺骨の置き場所に困っているそうだ。
今朝見たワイドショーでは、六十代の夫婦が納骨堂閉鎖の事態を知り「自分達が入る墓を確保しなくては」と改めて思い、公営墓地の生前購入の抽選結果を待っている、というトピックスを紹介していた。うろ覚えだけど、東京都内の公営墓地は人気のある区画で七十数倍の倍率などと言っていた。自分の、そして縁者の骨の置き場に困っている人は多い。
そういえば火葬した骨ってどのくらいで土に還るのかしらと調べてみると、土に撒いてから五十年ほどとあったり、中には数百年もかかると書いてあるサイトもあり、よく分からなかった。数百年かかります、と書いてあるのはおもに石材店や葬儀会社のサイトだったりするもんだから、あんな事件があった後では「なるべく長い年月、管理費をふんだくろうと企んでやがるな!」などと嫌な見方もしてしまう。けど、それなりに長い時間がかかるのは確かなようだ。
そもそも、関東のお墓では墓の下のスペース(カロートと呼ぶらしい)に骨壷ごと骨を収めるという方法が一般的だそう。骨壷の中だと骨はいつまでも土には還らない(水が入り込んで溶ける場合はあるそうだが)。「骨は自然に還すもの」とばかり思っていたので不思議だった。納骨堂も然り。一方、関西では布の袋に遺骨を入れ替えてカロートに収めるというのが一般的らしい。
こうした骨の収め方の違いは地域差によるものが大きいそうで、北海道にある私の祖父母の墓は底が土になっていて、骨壷から取り出した骨をそのまま土の上に撒いていた。それでも残っていた骨の状態を見る限り、私が生きてる間には土に還りそうもなかった。
個人的には、墓や納骨堂など、遺骨のある場所にあまり思い入れがない。焼かれた骨に故人の霊が宿るのか? という疑問もあるし、そもそも霊やら魂やらオーラやらハンドパワーの類は信じられない質だ。
さらに言えば、自分が死んだ後には「絶対に墓に骨を入れてほしくない」とまで思っている。子供の頃、祖父の納骨でカロートを開けた際に、たくさんの縁者の骨の上にゲジゲジやダンゴムシがうじゃうじゃと集っていたのを見たせいだ。自然に還るというのはそういう事ではあるものの、「よく知らん人の骨や虫と一緒に、自分の一部だったものを入れられるのは嫌だ」と生理的に嫌悪してしまったのだから仕方ない。我が家の犬に喰ってもらった方がまだマシだ、とさえ思っている。なので家族には「海洋散骨してくれ」と頼んである。できればシャチに喰われたい。本当は、昔観た映画「ファミリービジネス」のラストシーンのように、粉状にして街の高い場所から撒いてほしかったのだが、違法らしいので諦めた。
とはいえ、墓や納骨堂にも良いところはある、というのは解っている。形としてそこに残ってれば、死んだ人に思いを巡らせる機会が増えるはずだ。そこで手を合わせ、故人や先祖について考えることこそ、死に形を与える墓や納骨堂の存在意義なんだろう。仏壇を持つ家だってどんどん減ってるんだから、その価値は増しているはずだ。
ただ、その墓や納骨堂を維持していくのが、これからはどんどん難しくなっていくに違いない、というのもなんとなく分かる。少子化のほか信仰心の薄れや金銭的な問題など、理由はたくさんありそうだ。だからこそ「墓、というか骨を守る人間がいなくなった場合、どこぞの誰でも構わないから供養し続けてほしい」となり、骨は最終的に永代供養墓へ、となる場合が増えているのだろうけど、なんだか墓の意義が置き去りにされているような気がしてならない。しかしそういう矛盾だって、死んでしまった人に対する申し訳なさや思いやりから生じるものなんだから、仕方のない話だと思う。なんせ死人は何も語っちゃくれない。答えは出ないが、生きる人間は決断しなきゃいけないのだから。そんでもって、そこにつけ入る悪徳業者は言語道断である。
ダラダラとまとまりなく書いてしまった。まぁ墓について考えるのは死について思うことなんだろうから、お盆なので良しとしておく。