価値観のちがい
ひとにされて嫌なことはしてはいけませんと習って生きてきた。
ここまではわりとよくあるはなしだと思う。
ただわたしの「ひとにされて嫌なこと」はどうやら他のひととズレてるらしい、そして自分主体でしか物事を考えられないので自分がされて嫌なこと以外はそこまで気に留めていない、という最悪の組み合わせにより「なんでそんな嫌なことするの!?」という事案が発生する。
他人への思いやりがないわけではなくてズレているがゆえのからまわり。
大人になると誰も「されて嫌だったこと」をわざわざ教えてくれたりしない。
美容院に行って思ったより切られた!と思っても、もう後戻りできないからクレーム入れないのと同じ。
そこまでの親切を相手にしてあげる必要はない。
わたしが相手を傷つけてしまうこともたぶんかなりあるし、悪気のない相手に傷つけられたこともそこそこある。
でもきっと傷つけた回数の方が多いんだろうな。そうじゃなかったらもっと落ち込んで相手の嫌なことについて真剣に考えてると思うから。
コミュニケーションがとにかく下手くそなので、肝心なときに上手に自分のきもちを伝えられないし、なんて言っていいかわからなくなっちゃうし、余計なことは言っちゃう。
もう黙っておけばいいのにな、、おしゃべりなんだよな、、
伝えたい、わかってほしいと思っていても、どんなに言葉を尽くしても、その方向性がまちがっていたらなんにも伝わらないわけ。
昔は言葉は尽くせば尽くすほどいいと思っていたけどそんなことはない。
短くても響く言葉はあるし、長くてもわかりやすい言葉はある。
そもそもコミュニケーションの下手くそさの前に価値観のちがいがあるのでそれ以前のはなしだった。
恋愛的な意味ですきですと言ってくれたひと、あなたのことひととしてはすきだけど恋愛とかよくわからない、それでもよければお付き合いしましょうと返して、お付き合いしたことがあるけど結局恋愛に対しての価値観がズレすぎているからとても傷つけてお別れすることになった。
わたしがアセクであることも希死念慮がつよいことも黙ってきいてくれて理解しようと努めてくれるひとだったけど、わたしは相手のことを理解してあげられなかったし、わたしも理解されてると感じることができなかった。
会うペースものんびりのわたしに合わせてくれたし、連絡も最低限、お付き合いってこういうものかな?と思っていたけど、それは相手のわたしに対する遠慮や過剰な思いやりであって、わたしはそのきもちを汲んであげることができなかった。
いまになってほんとうにごめんね〜!と思う。
当時も思っていたけど、いまもなお価値観の合うひととしあわせになってくれたらいいなと思う。
わたしがしあわせにしたいと思うひとではなかったの。ごめんね。大切にしてくれてありがとう。
「恋人はアンバー」は1990年代のアイルランドでゲイとビアンの高校生が恋人のふりをして生きづらい世の中乗り換えてこ!てする映画。
この時代、アイルランドは同性愛がすこし前まで違法で、差別や偏見がものすごい時代だった。
わたしは2023年1月にこの映画をみにいったんだけど、みおわったあとすごく傷ついてかなしくなって帰ってきた記憶がある。
当時の感想を引用する。
感想書いたあとに公式ホームページのコメントみてまた涙腺やられたりしてたけど、結局セクマイにもいろんなかたちがあるし、ひとそれぞれまったくの別物だからセクマイの言葉でひとくくりにできないし、してはいけない。
でもこの映画気になったのってわたしがセクマイ当事者だからじゃない?とも思うわけ。
エディとアンバーの求めるものがちがったように、わたしとむかしお付き合いしていたひとは求めるものがちがったし、そうするとどちらかかどちらもか我慢をすることになって長いことうまくはいかない。
そんなことに気づくのに時間がかかってしまった。
めちゃくちゃ反省したのでそれからお付き合いはしないと決めている。
恋愛に限らずいろんなことの価値観がズレてるから揉めることが結構あるし、実際いまも友達と絶縁中だけど、やっぱり自分のこの性格変えられねえや!とも思っていて、、他人をないがしろにしたいわけでは決してないけどそれ以上に自分を大事にしたい。
生きてる限り最大で全力のわがまま。
まわりのひとにずっと恵まれ続けてるから言えることなのかもしれない。
家族も友達もみんなだいすき!いつもありがとう!
いつか記事にしたいと言っていた、むかし付き合ったひとの話と恋人はアンバーの話ができてよかった。
ちなみに最近100回目のスキをいただきました。
読んでくれてありがとうございます!