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2022年5月

読んだ本の数:7冊

骨を撫でる 
三国美千子/新潮社

表題作と『青いポポの果実』の二編。
秘密が秘密でないような地縁と一番の敵は身内みたいな血縁のなかに暮らす人達を描いた表題作。書きぶりがあまり好きでない。特に、まるで既知のことのように突然織り込まれる人物名やエピソード。確かにそれは、地縁血縁の中で交わされる会話にありがちだけれど、読者は作品世界の地縁血縁ではないし……。端的にわかりにくく、もっとうまい書きようがあるのではないかと思ってしまった。
一方の『青いポポの果実』は好印象。よその家ってへんなのと思っていたら、へんなのは自分の家だったとある時気づくこととか。閉じた世界のいびつな存在を窃視するような気持になった。作品全体に施された仕掛けもうまい。いやでもいるんだかいないんだかわからない、とってつけたように出てくる、犬と祖父には全く納得いかない。
両作品には共通するモチーフがあると思うのだが、わたしがとくに嗅ぎつけたものに名付けるとしたら【長女という病】。周囲の期待を察知して拡大解釈して、知らぬうちに自分で自分にかけてしまう呪いみたいなもの。家族のピースとしてこうあらねばならないと自分を規定する呪い。これには共感できたしヒリヒリした。
5月1日

そのまま食べてもおいしい! ふわふわスポンジ生地のお菓子 加藤里名/主婦と生活社

大きくわけて4種類のスポンジケーキ。
焼きっぱなしお菓子のレシピは数あれど、スポンジケーキに特化しているのは唯一無二なのでは。パンがなかったらお菓子を食べます!と言いたくなる。
失敗例を載せたり、ごく細かいひと手間を手順として書いてある辺り、研究者ぽいというかオタクぽいというか。古き良きレシピ本のようなキャプションも、なんだかとってもよかった。
5月2日

穴あきエフの初恋祭り 
多和田葉子/文藝春秋

再読。
なんとはなしに本棚を眺めていて、タイトルに溜息。きエフ。
わたしはどの本も、読み終えるとびっくりするくらいその内容を忘れてしまうのだけど(どんな本?と聞かれてすらすらこたえられるのは稀)、脳内から全く消去されているわけではないみたい。文字の中の風景が既知のものとして立ち上がってきたのだ。
5月9日

昭和期デカダン短篇集 
道籏泰三編/講談社文芸文庫

盛大に噴き出す鼻からのため息。なにがデカダンでい、甘ったれるない!なにが無頼でい、人のせいにすんじゃねえや。悪態つきつき。
いまのところ衣食足り心身安全なわたしの傲慢のせいで理解できないのだろうか。いっそ感心するほど女がモノなのも胸が悪い。うへえうへえとよろよろ読み終えたところへ、謎の陶酔と全肯定の解説がのしかかりげっぷが出るのであった。そもそもさ、「デカダン」というのは男性作家の専売特許なのかね?これ入れるならあの女性作家だって十分デカダンでは??昭和期の人だよ?と幾人か作品を思い浮かべてみたり。
坂口安吾のもつ諦念、織田作之助の描く光、野坂昭如の執拗さは読みでがあった。三島由紀夫のはよく練られたグロテスクな大嘘だとおもうのに、都合よくうつくしくてなるほど危ない。
5月20日

マナーはいらない 小説の書きかた講座 
三浦しをん/集英社

りっぱな人気作家による創作指南。
すこぶるつきで読みやすいしおもしろいし、そして真面目で素敵なアドバイスがたくさん。簡潔で具体的なので、つぎはこれ気を付けてみようと思える。書くための読み方指南もなるほどな~と思ったし、書く人は読むときもただ読んでないんだなあとはっとした。
アドバイス目的じゃなくても本当におもしろいのよ!全体的に元気がでるの。小説を取り巻く世界にたいする愛があるからだと思う。それって世界全部への愛じゃん?
それからそれから、オタク要素の暴走にジャンルは違えど心で握手を求めてしまう。おお!仲間よ!
5月25日

天然知能 
郡司ペギオ幸夫/講談社選書メチエ

人間よ、人工知能的な知能に安住しすぎではないかね?という問いかけからはじまる考察、のような気がした。「うわあすごいわかった!」と思った次の瞬間、また迷子になる。そんな読書。
科学と哲学は分かちがたくもつれている。これは机の上のはなし?頭の中のはなし?
著者のあるいは本書の目指す地平を理解しないで歩き出したから迷子になってしまったのかもしれない。つながった感覚を頻繁に得ながらも、掴めたものが何なのかそもそも掴めたのかどうか、大変心許ない。しかしまさにこの感覚こそ天然知能っぽい、かも?キーワードは「ギャップ」「際限のなさ」。
5月28日

雲をつかむ話 
多和田葉子/講談社文芸文庫

『犯人』を鍵にして紡がれていくとりとめのない記憶、事件。とおもっていると、それぞれの根っこが現実にあることがやがてわかり、そうとわかればとりとめがないなどと暢気なことを言っていていいのかとぞっとするような記述に出会う。
とはいえ雲だからねと油断していると、震災文学としての一面を急に突き付けられて身が縮む。こんな恐怖が実際にあったか、あるいは容易に想像できる状況があったのかもしれない。外だからこそ。中にいたわたしには実感しえなかった震災の姿。
他作品で気づいて以来、作者の描くシスターフッドやブラザーフッド的なモチーフに目がいくようになった。よく言う「BL/GLはファンタジー」の、そのファンタジー性を定義するならばどう定義できるだろう。お約束として固定された上下関係(主従/教える教えられる/与える与えられる)あたりかなあ。ファンタジーでない人間関係にはそのようなお約束はない、とは言わないけれど。
5月29日