【備前片上駅→伊部駅を歩く】#4
今回の行程
全行程
普段は播磨国、但馬国ばかり歩いている私が今回は備前国を歩きました。
備前片上駅から歩き始め、主に旧西國街道沿いの寺社仏閣や信仰、遺跡に立ち寄りながら伊部駅を目指す行程です。直線距離で3.6kmほど、道の曲がり具合を考えると1里(約3.9km)は超えていそうです。
11時45分ごろに備前片上駅を出発し、伊部駅に到着したのは16時ちょうどごろでした。ほぼ4時間でそこまで長い旅路ではありませんでしたが、播磨や但馬地域とは違った信仰のかたちなどの文化の違いであったり特産品である備前焼についてなど得られるものはかなり多くありました。
それを数回にわけて内容を考察と共に紹介していきます。
今回の行程
今回紹介するのは前回の西國街道片上宿の続き
宇佐八幡宮
片上宿旧跡
です。
第一回
第二回
第三回
⑨宇佐八幡宮
由緒
これから紹介する宇佐八幡宮の由緒は次の通りです。
祭神・社格
ここ宇佐八幡宮では仲哀天皇,応神天皇,神功皇后を祀っています。
神功皇后は仲哀天皇の皇后で、応神天皇はその子です。仲哀天皇は神の託宣を嘘だとして無視したことで急死してしまいます。その後、神の託宣通りに神功皇后が朝鮮半島を攻め、新羅、百済、高句麗を服属させたといいます(三韓征討)。園子応神天皇は中世から誉田別尊・八幡神の名で軍神や鎮守の神として祀られてきました。
仲哀天皇,応神天皇,神功皇后の三人で神仏習合では本地を阿弥陀如来としていました。
旧社格は村社です。氏子の範囲は東片上・西片上です。
鳥居・灯籠
太めの石柱に、丁寧に装飾された木製の神額が特徴的な鳥居です。額束には八幡宮と書かれています。年代などは見られませんでしたが江戸時代のものとみて間違いないでしょう。
灯籠は階段の下に7基(3対と1基)、階段上の本殿周りに1基と拝殿前に2基(1対)、途中の階段横に1基(もしかしたら反対側にもう1基あるかもしれません)がありました。
まずは入り口横の灯籠から見ていきます。「獻燈」と「明和六己丑十一月十五日」とあります。明和六年は1769年です。日付が吉日ではなく具体的に彫られているのは珍しいです。
反対側にある灯籠も同じようになっていました。
入り口側にもう一対あった灯籠です。「文化四卯年」「八月吉日」とあります。文化四年は1807年です
そして階段下両脇の灯籠です
左右合わせて「寶暦十庚辰年」「五月吉日」とあります。宝暦十年は1760年です。入り口横の灯籠と同じぐらいの時期に建てられたようですね。
端に1基だけの「永代常夜燈」がありました。
「永代常夜燈」と「寛政元己酉年八月日中村善左衛門敦則再興」とあります。寛政元年は1789年です。この「永代常夜燈」の字体がかっこよくてお気に入りです。
こちらは本殿横の灯籠です。正面には「奉燈」とあります。
横面には「弘化三年 丙午十一月吉日」とあります。弘化三年は1846年です。
そして、これは階段横の灯籠です。正面に「獻燈」横面に「八月吉良日」とあります。年号が裏側にある、もしくは階段の反対側にあるのかもしれませんが、確認できませんでした。
備前焼狛犬
八幡宮には備前焼の狛犬が4体います。神社前の1対と拝殿前の1対です。
こちらは鳥居前の狛犬です。口を開けている方が阿形で、閉じている方が吽形です。これらは備前市指定文化財になっています。大きさは胴回り約4.5m、高さ約1.4mです。
阿形には「文政九丙戌年九月吉日 備前釜元 森五兵衛尉正統」とあります文政九年は1826年です。
吽形には「伊部細工人 森五兵衛正統 服部章兵尚芳」とあります。
そして台座には天保五年(1834)に前川氏が寄贈した由が刻まれています。
しばらくしっぽが壊れたままだったのを2019年ごろに修復したそうです。
こちらは本殿横の吽形狛犬です。鳥居前のものに比べて細身です。
隋神門
長い階段を上った途中に隋神門はあります。隋神門には天石門別神という神が右大臣左大臣ともよばれる櫛岩窓神、豊岩窓神として剣と弓矢をもっています。
本殿
階段を登り切った先に拝殿があります。その奥が本殿です。
祭礼
ここ宇佐八幡宮では春祭りと秋祭りがあります。それ以外に3月3日にひな祭りを催しています。ひな祭りでは階段を上から下まで埋め尽くすほどの人形を飾るそうです。石灯籠の中に入れられている雛人形もあるそうです。
赤い鳥居を四方に配置し、屋根に桐と菊の紋がつけられています。大きさは小さい方でした。"2で紹介した歴史民俗資料館できれいなものを確認することができます。
その他
拝殿へまっすぐ上がる階段とは別に横に緩やかな参道がありました。そこに土壁があったのですが、そこには石か或いは備前焼を埋め込んだものがありました。瓦を埋め込んでいるものは姫路の廣峯神社で見たことがありますが、埋め込まれた石やレンガがむき出しになっているものは初めて見ました。
こちらは「寶永橋」と書かれた石です。「永代常夜燈」の隣に置かれていました。近くに流れている流川には同じ「宝永橋」があります。そこから持ってきたものでしょうか。宝永は1704年から1711年の間です。詳しいことは⑩西国街道沿いの片上宿旧跡の「前海屋跡」をご覧ください。
また、宝永橋の石碑の隣には石の鞍が置かれていました。またがると願い事が叶うといいます。かなり新しいものでしたが、古い伝承に由来するものだそうです。
玉垣にも、天神宮と同じように擬宝珠がつけられていました。
階段下と鳥居の間にあるこれは何でしょうか?初めて見ました。なかには御幣が供えられており、階段を登れない人のための遥拝所とかでしょうか?
⑩西国街道沿いの片上宿旧跡
ここから先の道標まで片上宿だったころの旧跡を立て看板によりいくつか確認することができます。
津山街道
刀工備州裕高造之宅跡
往還名主跡(木屋岡島氏)
片上湾に流れ込む流川の左岸にありました。
前海屋跡
同じく流川の左岸にありました。河口側からは潮の香りをしっかりと感じることができます。この流川の上にかかっている西国街道の橋を「宝永橋」といいます。
宇佐八幡宮にある「寶永橋」の石碑は1750年に作られたものの可能性が高そうです。
日本売薬・備中売薬の祖(薬祖)万代常閑翁跡
返魂丹は現在では反魂丹という名前で富山の薬売りから売られています。胃腸の薬です。
備前片上本陣跡(旧アルファビゼン)
アルファビゼンがある場所に本陣がありました。本陣は参勤交代の大名や、幕府の役人など、身分の高い用の街道の宿です。
アルファビゼンは大型副業商業施設でしたが、業績悪化や天満屋の撤退などにより2002年に廃業してからは、何度か利用されたものの、今ではすっかり廃墟となっています。
恵美須屋跡
こちらもアルファビゼンの横に案内板が建てられていました。
室町以降見られるようになった恵比須とヒルコの同一視です。これは蛭子の漂着伝説に基づくものです。
案内板にあるように現在は恵比須宮は海沿いをもう少し西に行った場所にあります。
道標
アルファビゼンの西南の花壇の中に北向きで埋もれるように立っていました。「左 大坂 右 恵美須」とあります。草で隠れているのでわかりませんがその下にもう一文字「道」かなにかありそうです。右が恵美須だと刻まれているので、昭和七年以降に建てられてたものでしょう。
次回
片上宿旧跡の説明がかなり雑になってしまいました。申し訳ないです。
#5では
明神社
真光寺
を紹介します!
片上町史を見ることができたのでそこから得られた情報も順次紹介していきたいと考えています!
ここまで読んでいただきありがとうございます!意見や指摘などあればご自由にお書きください!