理科大演劇部ラムダの話をしよう。そして、大学での演劇の話を。(3)
【第三部】ラムダの黎明期と、演劇観の変化。
苦難の連続だった2022年度秋公演が終わり、冬部内公演と、春公演の始動に向けて、我々は動き出していた。冬公演は主に、1年生に演出の経験を積ませる、という意味合いが強く、自分が、あまり表に出ないようにすることが重要だった。自分の班はインフルの蔓延で中止になったが、少しずつ演劇に対して自我を持ち始める後輩。その姿を見て、ほんのちょっとだけ安心した。少し前までは、目の前すら暗闇だったラムダの未来が、だんだんと明け始めていることを感じた。
冬公演が終わって、春公演『Re placement』の稽古が始まった。自分以外のラムダの作品では、一番好きな作品だ。自分は役者ではなく、照明で参加した。自分の所属するもう一つの団体、劇団だばし『アイドル探偵江戸川SUN』への出演が決まっていたからであった。この期間、ラムダにおいては、自分は照明などの、裏方のスキルを磨くことに注力していた。この時期の時間経過はとても早くて、何かを整理するとか、劇的な変化があるとか、そういうことは一切なかった。でもそれは、ラムダに対して心配事がないことを意味していて、少し前の秋公演の状況を思えば、ものすごい進歩だった。団体としてまとまり始めていた、黎明期だったのだと、今になって思う。
春公演が終わって、二度目の新歓。初の本格的な対面新歓だ。新歓公演『かぐや姫と桃太郎』は、既成脚本を笑えるものにするために、魔改造した記憶しか残ってない。タイトルを思い出すのに時間がかかった。新入生公演『純情可憐Mathematica』は、タイトルの思い付きだけで書いた。自分なりの哲学はなかったが、それでよかった。だって、新歓ってそういうものだから。
それを終え、事件だらけの2023年度夏公演『Last Night』に出演することになる。この作品は、自分が役者のみで携わる初めての作品だった。役者として、また新たな視点を持つきっかけになった。この公演はとにかく余裕がなかった。自分も然りだが、ラムダ全体として、余裕がなかった。
自分は主役級の役をもらったことで、「できることを全力でやろう」と意気込んでいたが、それが少し空回りする結果になる。演出が自分の演技よりも、他の役に演出をつけること優先し、自分の演技は基本的に自分で見なければならなかった。それに加え、勢いが存在しない芝居の演技経験が少なかった自分は、演技の波のつけ方に非常に苦労していた。
気持ちが入ったとか、入ってないとか、そんなの知らないよ。だって、気持ちって見えないじゃん。目に見えるものだけが大事なんて、そんな合格実績が欲しい自称進学校みたいなことは言いたくない。気持ちが入ってるとか、入ってないとかを見せるのも、結局は役者の技術で、その技術以上の心持ちの域に、遂に到達することはなかった。お客さんに分かるような気持ちの表現はできたけど、自分が役と共鳴することはなかった。
でも、それでいいんだと思う。役って、結局は自分じゃないし、作者や演出が思い描いてる像に、自分がハマると思われてるから、自分が配役されているんだし。だから、演出から指摘された部分だけ直せば、あとは己の好きにやればいいと思うんだ。登場人物って、存在しない。つまりは虚像なんだから、役という決まった形をしたパズルに、自分がその形になって、ハマりにいくんじゃなくて、役を自分の持ってる形に変えて、ハメてあげればいい。自分がハマったと思っていても、演出が違うと言えば違うわけで。気楽に役の形を変えていけばいいんだ。そんなことを学んだ公演だった。
それに、自分の演技も大切だけど、最も大切なのは全体の質だろう。だから、自分の演技を向上させるのもとても大事。その一方、例えば掛け合いならば、役者の息が合っていることの方が、何倍も重要なんだろう。自分が上にいくだけに期待するんじゃなくて、相手を持ち上げる、引っ張ってあげるという選択肢もあるんだ。劇団だばしの先輩、塩澤さんに言われて納得した言葉だった。
こうして夏公演が終わり、ボケっとしてるうちに理大祭公演『第n次おやつ大戦 -extreme-』という、よく分からない公演で照明をやり、気づいたら肌寒くなっていた。空との距離が遠くなる季節になっていた。
空との距離は遠いのに、自分のラムダでの残り時間は、刻一刻と近づいてくる。4年生になると研究室生活が始まり、平日が主な練習日であるラムダに、積極的に参加することは、難しくなることが目に見えていた。だから、2023年度の春公演。自分の中で、ラムダでの集大成となる作品を、作・演出でやりたかった。
自分が大学でどのような演劇をやりたいのか。何を目指したいのか。それを見つけられたことが、大きな転機だった。それが次のお話。
(続く)
2024年3月9日 髙橋開成