頭大仏とモエレ沼

人生初、北海道に行ってきた。

3月の北海道は雪がまだ残っているものの、吹雪くこともなくかなり過ごしやすかった。
道路脇に寄せられた雪が街の音を吸収してくれるから、常にノイズキャンセリングされているような感覚になる。

回転寿司食って、スープカレー食べて、ジンギスカン食べて、海鮮丼食べて、夜パフェして、味噌ラーメン食べて、死ぬほど幸せだった。
楽しい話は書いてもキリがないので、これくらいにしておく。


頭大仏殿を訪れた。

まずはそのスケール感に驚いた。
コンクリートという人工的な素材で作られた、絶対的な建築であるのに、地と緩やかに繋がり、ランドスケープとして視界の中で馴染んでいく感覚があった。
大仏・空・道が図で、建築が地になっているよう。
建築と自然の本質的な図と地の関係を解体し、建築がその土地に存在する意味性を捉え直すような作品だ。

近づいていくにつれて、コンクリートの折板屋根が身体を覆っていく。
プリーツ状に連なっていき、最後には円環とぶつかる。

ここで生じる幾何学のせめぎ合いが臨場感を出し、形で空間に語りかけてくる。この取り合いを実現させてしまう安藤忠雄の繊細さにも感動。

何をするわけでもなく、ただ道を歩き、ぽかりと空いた穴から空を見るだけ。
身体から離れた、超越的なものに囲まれることで、人間の視線は自然と上へと向けられる。


モエレ沼公園を訪れた。

この公園は、「地球を掘りたい」というイサム・ノグチの野望から生まれた、ある種の異世界的な空間。

広大な銀世界の中を歩いていくと、ガラスのピラミッドが現れる。
そこに在るというより、たちはだかっている感じ。

公園内にはイサム・ノグチの巨大彫刻作品が建っている。
風景に対して敢えて手をつけすぎず、地球と彫刻と鑑賞者が想像の領域内で対話する、抽象的で美しい関係をつくっている。

自然のダイナミズムを感じながら、超越的な空間に身を置く。

プログラム指向によって生まれた建築ではないからこそ、光・音・雪によって空間に自然美与えられ、私は地球という生命体の上に身を置いているということを実感する。

地球は、質量を持たないながらも全く異なる特性のレイヤーの積層によってつくられている。

ただ、それを感じるための空間だった。


卒制を通して、建築の超越性とは如何なるものかということを考えるようになった。
近代以降の建築では、技術の革新によって生まれたものに対して超越性が謳われるが、私の感覚では少し違う。
そのものに込められた美が、何十年も何百年も継承され、人の心を震わすものであり続ける。
美しいものであり続ける限り、機能は時代によって付加される。


北海道旅

私が心を打たれる建築に改めて気付かされた。


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