稲村の火の主人公
皆さん、こんにちは。ちょっと久しぶりにノートを公開します。和歌山愛を伝える内容にしていきたいです。皆さん、稲むらの火を知っていますか?もしかしたら道徳で学んだよ!という方もいてはると思います。実は作品と実話は少し違かったり、白浜と違ってスポットライトが当たりにくい場所が舞台やったりします。これから皆さんに稲村の火、そして、濱口梧陵という人がいかに素晴らしいかお伝えしたいと思います。
稲村の火の舞台
稲村の火の舞台となった場所は和歌山県有田郡湯浅町です。有田といえば有田みかん。和歌山は日本屈指のみかんの産地で数年前にベトナムへの輸出もされるようになりました。そして、湯浅はシラスがたくさんとれます。そんな湯浅町ですが、江戸時代、強い揺れと大津波に襲われます…
安政南海地震と稲村の火
1854年、ペリー来航など日本が揺れに揺れた幕末。実は地面も揺れることに…南海地震、東海地震は約1日という間隔をあけて連動しました。東日本大震災は同時に連動しましたが、インターバルがある連動型地震もあります。あらゆる形の連動型地震への対策は政府内でも議論が交わされている最中です。
安政南海地震が発生すると湯浅は大きく大きく揺れます。濱口梧陵という湯浅の有力者は「井戸の水がひいている」「海水が引いて海が浅くなる」ことで大津波が来ることを本で知っていたため、「これはただごとでない」と津波対策のため、村人たちを廣八幡神社に避難させます。その後、湯浅を大津波が襲い、海と陸の境目が分からなくなるくらい浸水しました。逃げ遅れた人々もいました。暗くて自分の居場所がわからないまま、不安と恐怖に震えた村人。そこに一筋の光が!稲村の火が何箇所も放たれ、道のようになっていました。火の通りに進んだ先は皆が避難している廣八幡神社でした。誰が稲村の火を放ったのか。濱口梧陵と数人の若い有志の村人でした。逃げ遅れた人々を救いたい、という思いからこのような判断に至ったようです。
「稲村の火」の昔の道徳教科書、日本昔ばなしでは「非常時であることを知らせるために大事な稲村に火をつけた」と著色されてますが、実際は「逃げ遅れて夜で暗い中、逃げ道が分からない村人を救うために稲村に火をつけた」のです。実話と物語は異なりますが、苦しむ人を救いたいという思い、救うためのアイデアが素晴らしくホンマに濱口梧陵先生には頭があがりません。実際、多くの村人が稲村の火のおかげで生き残ることが出来ました。
濱口梧陵という人物
私が敬愛してやまない濱口梧陵という人物。どのような人物だったのでしょうか。濱口梧陵は1820年に湯浅の醤油商人・濱口分家・七右衛門の長男として生まれます。若い頃は丁稚奉公人と同じ仕事をこなしました。いくら当主の息子とはいえ、勘違いさせやんように、との思いがあったようです。濱口梧陵は読書家でもありました。趣味の読書が村人を救うことにもつながったのです。濱口梧陵は安政南海地震での卓越したリーダーシップで村人を救った他、被災後の仮設住宅の建設、職を失った村人に堤防建設に従事させるなど雇用創出を実現、醤油事業では安政江戸地震で困難がありながらも商売先を開拓して活路を見出したり、コレラなど医学への支援など様々な実績を残します。特に安政南海地震時での活躍により、キリスト教信者が多く、人を神と崇めることが少ない西洋出身であるラフカディオ・ハーンを以て「生ける神」と言わしめ、湯浅町民からは「濱口大明神」と崇められます。濱口梧陵先生は世界旅行中、アメリカで息を引き取ります。葬儀には5000人もの人が参列したそうで、村人は大恩人たる濱口梧陵先生の死に涙したそうです。
現代の湯浅町
現代の湯浅町は濱口梧陵先生の指揮のもと、建設された広村堤防が残されています。実際、昭和南海地震による津波の死者は0人という素晴らしい結果となりました。今でも稲村の火に関連したイベントがなされ、南海トラフ地震の啓発がなされています。また、安政南海地震が発生した11月5日は「世界津波の日」とされ、濱口梧陵先生の功績を語り継ぎ、津波による犠牲者をなくすための取り組みがなされています。
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