感情と脳の癖と評価
私は、絵をまともに描き始めた大学時代から、延々と「感情」と「脳の癖」のようなもので制作しています。「脳の癖」とは、現実に見た光景から引き出される、脳内で見える別の映像を再生して描いています。
それが、全く大学では評価されなかったし、同じ作家志望の同期生からも馬鹿にされていましたし、美術の世界では、基本的に、相手にされないという事を、経験的にも知っています。
誰も口には出しませんし、そういう、感情主導の作品や、少しズレますが、アウトサイダーアートやアールブリュットなども「すごいね」「面白いねー」と冷笑しながら褒めてみたり、キワモノとして見せ物として消費したり、完全に無視するか、です。
「感情」は、個人のものなので、他人がそれをどうこう批評や評価できるものではないので、今の現状、評価対象にすらならないと思います。
他人から見て「フーン、あなたの感情なんかわからないし、他者に関係ないし、知らないよ。」で終了です。
コンセプトのある作品は、感情ベースではなく、何か(主に社会)に対する「問い」や「訴え」であったり、社会や他者との「関係性」の中に、物を作ろうとしているので、そこに批評や評価する余地があるのだと思います。
また美術の文脈から見て、その作品がどういう位置になるのか、文脈の先端を上書きしようとしているか?なども、大事な見所かと思います。
でも私は、「感情」と「脳の癖」主導で制作する以外、自分には出来ません。
私は、自分の作品は、アールブリュットに、属するのではないかと自分では感じています。
「感情」と同じで「脳の癖」(私の勝手な造語です。すみません)も他者が評価するのは、難しいのではないかと思います。
でも、だからといって、コンセプト重視の人が、これを見下している事に疑問を感じます。
「個人の特性」や「感情」への否定や攻撃にならないように、遠回しに、「直感や霊感で描いてる人の作品と、自分のコンセプチュアルな作品は一緒にしないで下さい。別格です。」という旨の説明を聞くと、コンセプトの優位性を語るために、比較対象に持ち出さなくても良いのでは?と思います。
今の社会は、「一定の能力」とても重視している社会だと思います。
でも、実際には、人間の能力や脳の個性(特性)のばらつきには、相当な多様性があり、これを無視して、「一定の脳の能力」を持った人だけの評価が可能な美術の世界に、私は疲れてきています。
私には、制作しても、居場所がないと感じてきています。
「障害者アート」という言葉も巷でよく見ますが、その作品を作っているのが、障害者かどうかを、前面に置いてしまう事にも、さらに批評や評価を難しくしている面があると思います。
私は、美術の学校に行っていましたが、自分がコンセプチュアルな制作の方向に行こうとしても、どうしても、自分の「脳の癖」や特性からくるイメージに引っ張られて、作業が混乱し、戻ってしまっていました。
でも、美術の世界の評価にも、こういう「他者が理解できるコンセプト」を有してない作品を見下して、キワモノ扱いするか、無視するか、以外の評価は無いのか?という疑問を、ずっと持っています。
乱筆、乱文で、読みにくくすみません。
おわり