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生産性のない自分の命を肯定する難しさ


「安楽死」などが話題になっているので、自分の感じる事を書いてみます。

「生産性がない=役に立たない」という事だと思います。

世間や他人や社会の役に立たない人間が、生き続ける事に対して、「他人の迷惑になる、税金の負担になる」と考え、それを表立って言わなくても、匿名なら主張し、支持する人は多いと思います。

なぜ、そういう結論になる人が多いか?というと、その人達は「自分自身が、他人や社会の役に立ちたい」という気持ちの強い人だからだ…と私は思うのです。

その人達は、自分自身が、他人や社会の役に立たないとわかると「私なら自殺する。他人の迷惑になってまで生きたくない。」と想定しているのだと思います。

それは、今、現実に、寝たきりや病気・障害、引きこもり、無職などになっている人も、同じだと思うのです。その状態の中で「死にたい」と自分から望む人は、多いのではないかと思います。

実際に、寝たきりになったり、病気や無職や引きこもりになっている人達は、想定ではなく、現実に、実際に「社会の役になんとかして立ちたい、他人に迷惑をかけたくない」という気持ちと、真正面から戦っている人だと思うのです。

役に立つ事が、物理的・精神的に難しい時、「自分は何のために生きているのか?生きる資格があるのか?」という社会の中での自分の根源的な立ち位置の疑問に直面していると思います。

役に立たない、それ以上に、大切な周りの人に迷惑をかけるかもしれない事を覚悟した上で、自分の命を、自分自身で肯定する事は、とても難しいと思うのです。
それでも、自分の命を肯定しようともがく人は、自分が生きる事で、そこに何かを創ろうとしている人だと思うのです。

その人たちが創ろうとしている、またはその人が生きる事で、生まれてくる何かは、その人達の戦いや、辿り着く考え方など、またはそこに付随する工夫や対策が、実際の社会の中に活かせる優れた知恵として、隠れているようにも感じます。

「世間の役に立たない自分」を、想定にしろ、現実にしろ、「自分自身で、どんな自分であろうと、その生存を肯定する」という事の難しさと重要性に注目してほしい…と感じます。

「役に立たなければならない、役に立たなければ生きる資格がない」と誰にも、思わないで欲しいです。

今、現実に「社会の役に立っている人」の努力と苦悩に、とても敬意を払いたいです。
そういう人達のキャパシティを超えるような、生産性や役に立つ立たないのジャッジを厳しくしないでほしいです。

そして、役に立たない仕事が出来ない自分はダメな人間なのか?と深い自己否定に陥らないでほしいです。

その考え方が、結果的に、生産性のある人もない人も、全ての人を追い詰めているように、感じるのです。

問題のステージは色々違うとは思うのですが、「役に立たない自分でも、どんな自分でも生きてていい」という、「自分で自分の生存をまず肯定する…」という事を、全てのステージの人に持ってほしい。。と思いました。

私は「生存権」という、全ての人が人間らしく生存する必要条件を、国家に要求する権利がある…という事を知った時、少し気持ちが楽になった気がします。

おわり

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【生まれかわる さようなら】


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