母親地獄
ああ、ごめんなさいお母さん、僕は望まれた子じゃなかったのです。
【第二手記】
僕の第一の目標は「いい子になる」ことでした。
自我の形成とともに幼い自分に植え付けられたそれは、すくすくと健康に育っていきました。
その当時は、それがいいことのように感じられました。僕がいい子になれば、万物は皆救われると信じていました。
特に母は、僕がいい子でいればいるほど喜びました。僕はそれに味をしめて、より完璧を目指すようになりました。
それでも幼い自分にはできないこともたくさんあって――それは今もなのですが、できないことがあればこっぴどく叱られました。
四歳の頃でしたでしょうか、いい子にできない自分が嫌で、切腹を試みたことがあります。台所から漏れる灯りに、包丁が鈍色に光ったのを今でも覚えています。玄関の闇に潜むその鈍色の光は、救いなようで、そして恐ろしくもありました。
結局、僕は怖くなって包丁を誰にも知られないようにそっと元の場所に戻しました。
その頃から、死神はずっと僕の後ろをついてきています。
誰か、助けてください。
【第三手記】
お母さんは犬をたくさん飼っていました。
なぜかというと、犬をたくさん飼えば子どもが生まれて、売れるからだそうです。
生ませるだけ生ませてろくに手入れもされない犬たちを見て、僕は子どもながらかわいそうに思っていました。
でも僕はその犬たちを助けることができなかった。なぜなら僕も、親の庇護がなければ生きていけなかったからです。
【第四手記】
僕が九歳の時、父親が不倫をしました。
父が母に糾弾されているのを見て、父がいじめられていると感じた僕は、咄嗟に父を庇いました。ショックを受けた母は家を飛び出していきました。
母はその後帰ってきてくれましたが、父が不倫した事実はそれから数年後に知ることになりました。どうやら、幼い僕には父の不貞を教えたくなかったそうなのです。
僕はそれから、男の人が苦手になりました。男なんて生き物は家族を平気で裏切るのだと。
【第五手記】
十八の夏、僕は進路に悩んでいました。
本当は都会の大学に行きたかったのですが、経済的状況がそれを許してくれません。
母のことを考えると、近場の大学に行くのが一番いいでしょう。
なにせ、僕は「いい子」なのですから。
【第六手記】
今まで飼っていた犬たちが次々と息絶えていきました。
この家に生まれてかわいそうに。次はいい家に生まれてくるんだよ。
【第七手記】
ぼくはこわれました。
【第八手記】
僕の精神はどうやら分裂してしまったようです。
頭がうまく回りません。本も読めません。ひどい頭痛がするのです。
このままでは「いい子」になれません。いい子じゃない僕は生きてる価値などないのです。
これからお母さんに楽をさせてあげたかったのに。ちゃんとした職業に就いて、家も買ってあげて、裕福な暮らしをさせてあげたいのに......。
このままじゃいらない子になってしまう。誰か助けてください。
【第九手記】
僕は大切な人に出会いました。
その人は僕と同じ形をしていましたが、男でも女でもなく、「僕」自身を見てくれました。
僕がずっと欲しかった愛を、何気ないそぶりで与えてくれた。
それだけで僕は、今まで生きてきて良かったと、そう思えたのです。
この人と生きていければどんなに幸せだろう。僕はその人と一緒に生きるために、もう一度頑張ることにしました。
僕の唯一の、光でした。
【第一手記】
嗚呼、ごめんなさい、お母さん。
僕は望まれた子じゃなかったのです。
あなたは僕に言いましたね。「あなたが孫を産んでくれないなら私の人生に意味はない」と。
あなたは「僕」を産んだのではなく、「子を産む機械」がほしかっただけなのですね。
僕はあなたを愛していましたが、あなたは「僕」を愛してくれていなかったのですね。「機械」を、愛していたのですね。
嗚呼、ごめんなさい、お母さん。あなたの望む通りにしてあげられない僕を許して。
ごめんなさい。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
命をもって償います。
だって、ほら、すぐそこに、死神が立っているのですから。
ごめんなさい、お母さん。