(未完没稿)月夜見~魔女のいる街

 スモークサーモンにオニオンスライスとサニーレタスをオリーブオイルで和え、塩とコショウで味を整える。程よく焦げ目をつけたライ麦パンにハニーマスタードバターよりも薄く塗り、先のマリネを盛り付けたオープンサンド。
 角切りにしたトマトとアボガド、モッツァレラチーズにブラックオリーブの輪切り、レモン汁と塩コショウ、ピンクペッパー。バルサミコ酢をスプーンにのせて回しかけたフレッシュサラダ。
 ジャガイモをこして生クリームとジューサーにかけ、弱火にかけて味を整えたポタージュスープ。
 デザートはなし。
 食後のお茶はいつも通りのカモミール。ソーサーと一緒にカップをテーブルの彼女の前に置いてから、空になった器をトレイに乗せた。ダイエット中とのことで、なるべく味付けは薄く、量も加減しているがきれいに完食してくれている。オープンサンドの付け合わせのパセリもだ。
「お水が良いから、苦味はないわ」
 器に目をは走らせたのは一秒もないはずなのに、彼女は見逃してはくれない。
「そんなに熱い視線を向けられて、おいそれと残せるほど、わたし傲慢ではないわよ」
「睨んでいるつもりはないけど」そんなに目つきが悪かったか、一応あとで鏡をのぞきこむことにしよう。
「嘘よ。冗談だから真に受けないで。鏡台と睨めっことかは止めてよね。時間の無駄だし、意味ないし」
 カチャリ。中身が半分以上あるカップを左手のソーサーで受けてから、彼女はテーブルに戻す。カップに落としていた視線でまっすぐ私の眼に照準し、人差し指を立て、くちびるにあてがい「言葉のあや」と内緒話でもするように囁いた。
 優雅な様だと感心する。どこかしらの国のお姫様がお忍びで庶民にまぎれる洋画を見たことがあるが、もしかしたら彼女はその類なのかもしれないと、当初は困惑した。店内の洋灯は彼女の髪を明茶色からガーネットに染め上げ、こちらを見据える両の瞳は底知れない強さを孕んでいた。
 無視することを許さない存在感、とでもしておこう。
「最後のは言い過ぎよ。表情をつくるのも仕事のうち。目つきを柔らかくする練習だってしたほうがいいならしないと。カガミには冗談でも、他の人には不快かもしれないし」
「大丈夫よ。あなたはそのままでいいわ。綺麗だもの。自信をもって誇ればいいのよ。自分は世界一の美女くらいに認識していて、ちょうど釣り合うんじゃない」
「無茶を言わないで。私もそこまで傲慢じゃないわ。あなたこそ可愛いんだから芸能事務所でも入ってモデルとかアイドルとかできるでしょ?」
「興味のないことに時間を費やすなんて愚かで浅はかな行為よ」カモミ―ルティーで口内を湿らせてカガミはぴしゃりと言い切った。「容姿に対しては概ね、人並み以上の魅力を宿している自覚はあるけどね」形よく整えられた眉が目の方に近づいた。
「でも中身が伴わないことには、どんなに流麗で美麗で清麗でも、価値は大暴落。そうでしょう、魔女さん?」
 カガミの場合、とびきりの可愛さは最大の意地悪さと同義だった。眉目秀麗、博学多識。理知と教養と美的感覚に優れ、奏でる声音は涼やかな初夏にそよぐ風を彷彿とする。そんなカガミをしても、口と性格の悪さは長所を埋め立てて余りある程のものだった。
「でも、あなたは綺麗よ。冗談抜きで美しいと思えるわ。強くてまっすぐで、脆くて儚い。壊れてしまいそう。水晶をね、限りなく薄く薄く削っていって結晶を創るの。あの雪の結晶よ。力加減を違えればすぐに粉々になってしまう。刃を当てる角度が僅かでもずれれば傷がつく。あなたを見ていると、そんな気分になる。その様はとても美しいと思う」
 天使の容貌(それ)が、平然と悪魔的な本心を、極めて真剣に語る。
 彼女の思考は難解過ぎて、わたしの翻訳では正解なのか心もとないが、果たして、これは褒められているのだろうか。
「ありがとう……と言うべきなのかな?」
「そう、そうね。反論(リアクション)に関してわたしが口にすることは何もない」カップを空にしてカガミはハンドバッグを手に、椅子から立ち上がる。
「この月夜見(ばしょ)を訪れることで、わたしは安らぎを得ることができる。とても調子(リズム)が良くなるの。例えるなら乱数化された暗号文書が解読ソフトで元通りに復元されるみたいな、ね」
「随分と乱れているのね」
「ええ」年相応な少女の表情を浮かべてカガミは声をひそめた。「わたしに、あなたが望むものを差し出すことはできない。だから、あなたはわたしの苦悩を知ることはできないの」
 だから、とカガミは満面の笑みを浮かべて「わたしに悩みはないし救済(すく)いも要らないの」代金を受け取りつつも、わたしはカガミの次の言葉を欲していた。
「強いて挙げるなら、あなたの創るお茶が飲めなくなること。そうなったときが一番の悩みよね」
 カランカラン。真鍮製のドアベルがくぐもった音だけを置き去り、月夜見(おみせ)にはわたしだけが残された。

 カガミを欠いた店の中は、しんとした静寂を取り戻し、空気は秋と間違うほど冷たく清涼さを醸していた。濃く淹れたミントティーを口に含んだときよりは爽快だが、常用している件のタブレットをかみ砕いたような辛苦さはない。
 観測はできないがマイナスイオンの値が高くなっている気がする。東向きの大窓から流布(たき)を一望でき、一歩森へ足を踏み出せば、早朝の木漏れ日が木々の間を縫い夜の終わりを告げる。
 あたかも月夜見(おみせ)が、霧深き雄大な北欧の森林地帯にひっそりと建つログハウスではなかったかと錯覚してしまう。

 カガミと知り合ってからもう一年以上にはなるが、もしかして彼女は人間ではないかもしれないと感じたのは両手の指では足りないくらいあった。見目麗しい姿で現れては、クラシック音楽のような旋律で言葉を紡ぐ。視線の送りかたから指先ひとつの挙動まで、総てが作り物めいていた。

(まるで精霊。この娘は魅の化身ね)

 化身とは、魔女の師匠から教わった概念で物質または個体に与えられた天賦(ギフト)だそうだ。技術ではなく、先天的に備わった素質や才能、雰囲気、閃き。それらをして師匠の流派では「化身」と呼んでいた。

 あの娘が望んで魅力的になったのではなく、「魅」の概念がカガミという少女の姿をしているのだ。幸いなことに害をもたらすようなものではない。口を開けば、こまっしゃくれた屁理屈と常人を斜め上から見下ろしたような穿った論理をほほ笑みながら展開するだけ。歪曲ロジックを振りかざす、精霊すぎる女子大生……というだけのことだ。

 ただ、わたしとカガミの指向性は似ているのか、相性は悪くない。
 何歳(いくつ)も年下の少女を、妹かなにかに錯覚しているのか。
 あるいは――――わたしにないものを持っているあの娘に感心と尊敬を抱きつつも、同時に羨ましかっただけなのかもしれない。

 わたしは、魔女だ。
 念願かなって魔女になれたのは五年前。わたしが、現在のカガミよりも少し年下で、自分の感情を持てあまし、日々をただ無気力に送っていただけの世間知らずの小娘だった。特別な主張もなく、素行不良に生きる度胸もなく、さりとて優等生然ともしない。とりたてて運動ができなくもなく、わざわざ手を抜かなければいけない程度の学力もない。普遍的に普通な、中途半端な路の端で立ち止まっている。

 朝起きて学校に行き、終われば喫茶店でアルバイト。たまに友人っぽいクラスメイトと放課後の数時間を過ごし、家に帰れば母が帰ってくる前に洗濯物をたたんで、夕食の支度を始める。

 たかが原稿用紙の一枚を埋めることもできない、そんなものがわたしの高校生活の総てだった。そして、そんな人生があと六十、七十年は続くのかと考えると絶望した。

 虚脱感と虚無感が積りに積もって、どうしようもなくなって感情を爆発させたあの日、母と大喧嘩をした、夏の終わりの夜に、わたしは可笑しな格好の女性に会った。
 わたしは、魔女と出会った。

 月夜見(つきよみ)は現代に生きる人々の為にある、街外れにある魔女の住処。
 わたしは、まなづるの聖名を名乗っている。
 月夜見(つきよみ)の店主で、第二階梯位に属する魔女だ。

『月夜見(つきよみ)』を任されて三年と五か月と少し、もうじき三年半にもなるというのに、わたしは精彩を欠いていた。退屈なわけではないし、忙しすぎるということもない。立て込むことはあるが、お店の性質上ゆとりをもって求めに応じることを常としている。よって、来店されるまでにほぼ準備は完了している必要があるのだ。

 月夜見(つきよみ)に訪れる人々のほとんどは体内を巡る魔力(マナ)に大小様々な問題を抱えている。魔力(マナ)の不調は瘤を生み、精神を通じて肉体にまで影響を与えてしまうのだ。その元凶部の不調を取り除くことができるのが魔女という人種だと師匠は言っていた。月夜見(つきよみ)は、そのために必要な大切な場所だ。

 お店の掃除も片付けも、洗濯も修繕も、材料の買い出し、予約に向けた仕込みと調理も、家具や調度品の手入れに管理、備品の発注、どれひとつが疎かになっても成立しない。雑多でも神経質でも同じ。行動のひとつひとつが魔力(マナ)に影響を与える。これらを整えることが魔女の仕事だ。師匠から月夜見(つきよみ)を任された、魔女(まなづる)の仕事だった。
 

 
(少しだけ、還(もど)ってる)

 左眼を守護する単眼鏡(モノクル)越しに精霊の動きが活発になっているのが視えた。ここ数日にわたって感じていた頭痛のような違和感も緩和している。わたし自身の魔力(マナ)が詰まって流れを妨げていたようだ。今月だけですでに二回目、椅子とテーブルにニスを塗り直す作業で睡眠不足が続いていたことが響いていそうだ。

 改善には自分で流れを整えるか、誰かに整えてもらうかしか、あるいは同時に整えるかの三つがある。わたしはいつも他者と同時に行う交流法で済ませていた。本来はきっちりと時間をかけて魔力調子(マナリズム)を整えるのが最善だとは理解している。とはいえ、自分に時間を割けるほど余裕はない。

 魔力(マナ)の流れを整えるための拠点としての月夜見(つきよみ)の維持には手間暇がかかるのだ。宿る精霊に住みやすい環境を提供し続けなくては流れが変わってしまい、まともな魔力(マナ)調整など出来なくなってしまうだろう。

 それが嫌だとか面倒とかではない。意味を理解し、必要性の納得もしている。精霊が満ちている空気を感じることで、わたしの活力にもなる。

(正確には、活力になっていた……だけど)

 薄々、気がついていた。自分の体の変調。もちろん疲労はあるが、肝はそれ以前の話だ。
 わたしの魔力(マナ)が消え始めているのだ。

 精霊の存在が希薄になっていた。数年前はありありと視えていたのに、いまでは壊れた街灯のように明滅して感じられるのだ。月夜見(おみせ)の魔力(マナ)に変調したのかとも思っていたが、原因はわたし自身にあったようだ。

 そこにいつも在るという前提でのみ、わたしは魔女としての術技を行使できる。精霊とは魔力(マナ)を整流するためのパートナーでもあり、道具でもあり、資源でもある。それが視えたり視えなかったりを繰り返しているなら、まともな術技はできなくなる。精度がかなり低下してしまう。目隠しをしたままで作業するようなものだ。自分なりに改善策は講じてみたものの進行を遅らせる程度しか役に立っていなさそうだ。

 以前は体内を巡る自分の魔力(マナ)を感じ、月夜見のなかに在る精霊の存在を色濃く認知し、流発(ながれ)を御し、移譲(うつ)し、留め置いて、絆(パス)を繋ぐ。それらの工程のひとつひとつが特別で、楽しかった。新しい知識や術技を教わることに一喜一憂し、何度も失敗を重ねて自分なりの術技を手に入れてきた。

「楽しくないんだ」言葉が漏れた。

 今日の分の片付けを終えて、エプロンを椅子の背もたれに掛け置いた。首元を装飾するネクタイを解き、ワイシャツの第一、第二ボタンを緩めると解放感から深呼吸をしてしまう。緊張ではないが身体を絞めつけられていると気持ちがしゃんとする。仕事中はそれくらいの方がいいが、今日の作業が終わったあとに、少し気を緩めるくらいは許されるはずだ。

 店奥の厨房を横切ると店側とは別の正面玄関があり、そこから階段で二階に上がれるようになっていて、物置くらいの小部屋がふたつと、同じくらいのルーフバルコニーがある。物置のひとつをわたしの寝室として使っていた。

「んー疲れた」ベッドにうつ伏せに倒れ込むと、ぎしりとベッドが軋む。薄目を開けてベッドが鳴いた箇所を見て、なにもないことを確認し、もう一度目を閉じる。疲労感の自覚は魔力(マナ)が正常に働いている証拠でもあった。昨日まではほぼ異常状態にあって、疲れさえ自覚できずにいたのだから。

「いつから、こんな風になったんだろ」枕に顔を押しつけながら、自問するのが日課になっていた。
 いつからではない。
 いつの間にか、こうなってしまっていた。
 師匠、曰(いわ)く。
 知識を得て理解する。
 術技を学び実践する。
 流発を知り整流する。
 結果を視て記録する。

 教わったことは全部こなしてきた。自らも積極的にこの道を歩んできたつもりだ。順風満帆なだけではない。躓いて、壁に突き当たって、何度も諦めようとしたけど、その度に「わたしは魔女だ。魔女に成るんだ」自分に言い聞かせてきた。

 躓いたわけでもないし、壁に突き当たっている実感もない。わたしは広い場所で呆然と立ち尽くしているのに近い。

 生まれて初めてであったであろう奇跡にすがって、同じ道を往くことを許された幸運をわたしは紙くず同然にしているのだ。どんなに望んでも、誰もが歩める道ではないのに。

 あの日の感情が思い出せない。記憶は鮮明に残っているのに、わたしのココロは、魔力(マナ)とともに抜け落ちてしまったのだろうか。

 枕を濡らすのは酷くみじめな気分だけど、少しは冷静になれる。わたしは他に自分を慰める方法を知らない。

「洗濯物、取り込まないと……」言葉にしても視えない精霊がしてくれるわけではないけど、数年来の癖がぬけるには時間がかかるようだ。

 体を起こして手の甲でまぶたをこすってから、ルーフバルコニーへ出た。

 陽が遠くの街に沈んでいく。強くて暖かく、それでいて柔らかく誇示するような焔を背負った命の原典たる太陽は、夕暮れの顔色で街とそこに生きる人々を見つめて、見送っていた。物干しのテーブルクロスは赤橙に染まり、夕陽の熱の一部をも付与されている。

 数年前のわたしならば、火の精霊力にあふれたテーブルクロスと翌日の来店者への想いを馳せていたことだろう。「シーツも干しておけばよかった」と失念する今のわたしが感じられるのは、視覚がとらえる暖色と指先に伝わる温もりくらいだ。

「でも、綺麗」遠くに沈む夕陽がビルで覆い隠されていく。山の稜線に消えていく姿は幻想的で美しいが、街に消える夕陽も捨てがたい。まるで巨大なエネルギーの塊が街の地下に移り、夜の街を彩る資源となる。または、街の地下でエネルギーを充填された太陽が早朝から空に昇って街を照らす。

 わたしは魔女になった。
 わたしは魔女として、あの太陽のようなことができていないと思う。

「じゃあ、もう仕方ないかな」

 テーブルクロスやタオル類をひとまとめに籠に入れて、単眼鏡(モノクル)を外した。生温い風が、僅かに冷え始めた。もうすぐ夏が終わり秋が訪れることを報せているのだろう。

 ルーフバルコニーの端のウッドフェンス。まるでわたし用に誂えたような高さで、腕を伸ばしてたときに丁度いい高さで身を預けれる。ロッキングチェアーに揺られながらも悪くはないけど、夕陽が沈む瞬間を見るには、やはり身を乗り出す姿勢が一番だった。

 総てが虚(うつ)ろに視えてくる。世界から色が消え、濃紺に塗り替わる。深い青であったり、赤紫だったり、黄橙だったり。色が太陽の周辺に収束し、一気に消失するのだ。静かに、確実に。
 太陽にとって代わるのが、人工的に作られたれた街の灯だ。赤でも橙でもなく、LEDの白い光。街が切り替わった。世界も切り替わっていた。

 いつまでも沈んだ太陽を恋しがるわたしの背には、今度は月が満ちていた。

 魔力(マナ)を高め、女には絶対なる守護者。この店の語源ともなる、天空(そら)に漂う黄金の林檎。

「こんなわたしでも、まだ月の気配を感じることはできるみたいね」一度だけ、月を見上げてから店の中に戻ろうと、わたしは足元の洗濯籠を抱え上げた。

 久しぶりに師匠の声を聞いた。わたしが月夜見(つきよみ)のことを任されてからは連絡を取ることが少なくなっていた。師匠もわたしに気を使ってくれていたようで二か月に一度だけ、業務メールでのやり取りに限定していた。スマホの着信履歴はもう半年以上前のものだった。十秒ほど躊躇ってからリダイヤルすると、数回のコール音の後に明るく弾けた声がスピーカー越しに届く。

 師匠は元気だった。時節の挨拶を皮切りにしたが、十五分近く師匠の近況報告を聞かされる羽目になる。ああ、いつも通りだ、とどこか安堵しながら相づちを打ち苦笑した。

『それでそれで』と師匠がわたしの近況をねだるように甘い声音で問いかけてきた。ほどよく緊張も解けていたし、わたしは思いの丈を師匠に告げた。
「わたしは月夜見を続けることはできません」自分の想定よりも落ち着いて、強く言葉にしてしまった。『……そっか。それじゃあしょうがないね』師匠は静かに応じて、わたしの想いを察してくれた。

『まなちゃん』師匠に呼ばれ慣れた愛称にはっとする。『最後にあたしのお願いを叶えてれる? あたしをまなちゃんの月夜見で最後のお客にしてくれるかな?』

 師匠の最後の願いに応(こた)えるのに迷う必要などなかった。いまのわたしができるのは、スマホの向こう側で必死に泣き出すのを堪えて鼻水をすすっている師匠の言葉に肯定を告げることだけなのだから。

『あたしの娘の力になってあげてほしいの。必要なら救済(たす)けてあげてほしい。まなちゃん、お願いします』
「もちろんです」

『あの子は、あなたのような魔女に成りたがっているの』師匠は電話で娘さんのことを話してくれた。師匠曰く、娘さんは魔力(マナ)の扱いが下手で反抗的、夜遊びも酷い問題児。『全然あたしに似ていないし、困った子なの』

 まさか、子育ての愚痴を聞かされるとは思っていなかった。『頑固で融通が利かない問題児。絶対に父親(ダーリン)の影響(せい)なの』との台詞には返す言葉もなかった。

「……わかりました。では直接、月夜見に来ていただいてから、お嬢さんのご希望に沿うように、で良いでしょうか?」なんとか精神(きもち)を立て直したわたし。
『もう、そんなの甘いんだから! けちょんけちょんにしてあげて! まなちゃんお得意の猛烈正論攻めでコテンパンでお願いします!』

 さりげない、わたしへの過去の恨み的な発言は無視しつつ、師匠の依頼(おねがい)を要約すると『魔女を目指す実の娘さんは、素質がなく不器用な問題児だから、わたしが弟子にしてスパルタな教育を施し、性根を叩き直すこと』で間違いないようだった。

 まったく師匠(あのひと)らしい依頼(おねがい)だった。引き受けるに不足はない。わたしの勝手で月夜見を去る選択を受け入れ、師匠へ恩返しの機会まで頂いたのだ。
 絶対に成功させる、とは言えない。
 でもベストは尽くす。
 わたしにはダメだったけど、師匠の娘さんなら、もしかしたら、たどり着けるかもしれないから。

 肯定の意を返すと、師匠がスピーカー越しに狂喜乱舞しているであろう喧騒と、なにかが壊れる破砕音、次いで呻き声。「痛ったいなぁ、もう」聞きなれた常套句。

「それで、お嬢さんはいつ頃こちらへ?」
『明日! 明日には追い出すから。部屋ひとつ空けといてね』

 ああ、物置になっている部屋を片付ける必要がありそうだ。

『それとうちの娘の人相風体だけどね……こう生意気な顔付きでね』
「師匠、大丈夫ですから。師匠のお嬢さんを間違えるはずはないですから」
『そう? 全然似てないよ? 全然かわいくないよ?』

 魔力(マナ)を読めばわからないことはないだろう。もっとも今のわたしの魔力鑑定(マナサーチ)がどこまで信頼できるのか不安はある。とは言え、師匠の娘さんを見分けることくらいならできる。

「大丈夫です」師匠に念を押して、通話を切った。
 それに、娘さんが本当に救済(すく)いを望んでいないなら月夜見を見つけることもできない。救いを求める人だけが訪れることを許される居場所が月夜見なのだから。

 通話を切ると日が変わっていた。夜も充分に更けた。明日は、いや既に今日か。今日は師匠の娘さんがくるのだから、ゆっくり休むことにしよう。
 その前に今夜は月を浴びて、わたしの魔力(マナ)を整えることにした。時間は掛からない。身を浄化して、今日に備えるだけなのだから。

 深夜二時、散々になるまで飲み歩こうと独りで居酒屋とバールを梯子していて、わたしはは「やはりザルなんだなぁ」と友達に言われたことを反芻しながら次のお店を探し求めていた。

 パターンとしては行きつけのお店を四件ほど巡ったあと、知らないお店を開拓するのがわたしの現在(いま)の趣味だ。駅周辺をうろつけば飲み屋には事欠かない。一杯目はハイボール、二杯目はウィスキーのダブルをロック。それで次の店に移る。どこのお店も突き出しを用意してくれるから空腹はすぐに満たされる。

 しかし、わたしの心というものもザルか底なしのようで、お酒で満たされる類ではないようだ。なんとか心(それ)を満たそうと、多様な取り組みに手を出すものの巧くはいかない。中でも酒が手軽だったから、長く続いているだけのことだ。

 最後はいつも、知り合いのバールで創作カクテルを二杯頂いて家路につくはずなのだけど、帰り道にわたしは不思議な場所に迷い込んでいた。

 いつものようにアルコールの影響はなく意識も鮮明。どの店で何を飲んだかくらいは覚えている。が、どうにも普段使わない路地に入ってしまったようだった。引き返そうにも、お酒以外の記憶はなかった。だったらわたしは酔っぱらっているということになるのだろうか?

 なら、こんなしょうもないことが酩酊の定義ならば、酒(これ)もわたしには必要ないものだった。酔っぱらえば嫌なこと全部忘れて、楽しくなって、いつの間にか眠っている。と友達が言うので試してみたけど、なんのことはない。わたしには、ただのジュースと大差なかったようだ。

 時間とお金を無駄にした……とは思わない。
 この世には、やってみなくても理解(わか)ることなんか、絶対にない。
 もしも、そんなことを本気で言う人がいるなら、そいつはきっと転生者だ。もしくは未来から外車に乗って時間移動してきた映画の主人公だ。

 喜ばしいことに、今世のわたしは普通の人間。口の悪い友達からは色々と言われるけど、残念ながら異世界転生チート生活も悪役令嬢も体験したことがない。フィクションに憧れているわけでもないが、現実に満足もしていなかった。

「ただ、きれいなものを見ていたい」わたしの欲求なんて、その程度だ。それだけが叶えば充分なんだ。生まれてから二十年くらいだけど、まだ見つけたことはない。

 夜風が冷たい。明日で……いや今日で八月も終わる。昼夜の寒暖差が厄介な季節に入る。でも秋は着る物に迷うから楽しい。一年でオシャレの幅が広がるからわたしは気に入っている。

「お酒は今日で最後にするからねっ! 次はおもいっきりオシャレして、可愛いいカフェに行くっ!」拳を掲げて咆哮する。所信表明というやつだ。

 いつもながら近隣住民の安眠妨害にならぬように煙のようにサヨナラするのが常だったが、今夜はやけに静寂(しずか)だった。

 月が遠くの摩天楼に貫かれながら、わたしを見ていた。「お月さんに見つめられても嬉しくないからね!」今度は、ささやいて叫んだ。

 街からは音が閉め出されていた。息をのむほどに空気が冷たく、澄んでいた。霧にでも包まれたように周りがぼやけている。同時にわたしの頭は冴えていく。普段でも良好な視力が二倍三倍に感じる。月のクレーターでウサギが餅をついていれば、すぐにでも動画に撮って、ネットにアップしているところだ。

 でも、わたしの視覚に映ったのは、違った。

 月なんか目じゃなくて、はるかに凛々しいその影はどこかのバルコニーにあった。フェンスにもたれかかって、風を受けている。月明りが幻想を演出するが、逆光で男か女かわからない。それどころか、人間だってあり得ない!

「とてもきれいな、人」

 わたしは何度も縺れそうになる脚に鞭を入れる意気込みで駆けた。スニーカーを履いてきていた自分を褒めるのも忘れて、あの人のところに走っていた。
 
 夢じゃない。夢でもいい。幻覚でも蜃気楼でもプラズマでも、幽霊だって構わない!
 わたしが欲しかったものは、きっとあの人だ。

 

 心臓が口から出そうになったのは、高校のマラソン大会以来だ。息を整えるのに十五分ほどの一時休憩と、ボンベ一本分の酸素は欲しいところだ。望めるのならアイスカフェオレも追加したい。

 が、それらは全部キャンセルして、深呼吸の連続で肺なり横隔膜を強制的に落ち着かせた。こんなみっともない姿を知られたくないし、見られたくない。できれば髪もセットしたいし、ちゃんとしたコートも来てくればよかった。ストールも適当だし、化粧だってもうズタボロ。

「はぁ、はぁ、はぁ」歩きながら息をゆっくりと整える。頭の中は目まぐるしいが一切顔には出さない。ポーカーフェイスは得意なほうだ。

 立ち止まり、月の方を見上げて、息をのんだ。呼吸することさえ忘れていた。
 あの人も、わたしを見てくれている。深夜の全力疾走で現れた不審者(わたし)に無味無臭で淡白なまなざしを向けてくれている。

 わたしを、そのままの状態で見てくれている。

「こんばんは、いい月ですね。あまりにきれいなのでジョギングをしていました。月光浴ですか?」
「調子を整えているの。今日は色々あったから、少し心を鎮めているの」

 染めているのか、ウィッグかの見分けはつかない。銀色が風にあおられて、あの人の頬に悪戯をしていた。あの人は手で髪を抑える、それだけで美しいと思えた。

「あなたは女神さま、なんですか? それとも天使?」
「ありがとう。どちらも不正解よ。わたしは――――」

 あの人のセリフがわたしの全部を粉々にしてくれた。鬱屈して、モヤモヤして、イライラしてたわたしに希望をくれた。

 だから、わたしもあの人の希望になりたい。そう願っていた。

「あなたは女神さま、なんですか? それとも天使?」
 この娘だ。
 ほとんど啓示に近い直感が叫ぶ。
 十八歳の秋に師匠と出会った時と同じ衝撃に目が覚めた。

 ルーフバルコニーから勝手口を見下ろす。月明りだけでの判別は難しいが、二十歳前後の娘がまっすぐに見上げていた。OLか大学生かの区別はつかない。金曜日の深夜(つまり今は土曜日の早朝)に平然と街中を全力疾走している辺り、わたしが知る限りは師匠でさえもしない行動だ。

 問題児、か。単眼鏡(モノクル)越しに視るが、確かに魔力(マナ)を宿す力は弱かった。それは正式に知識と術技と実践を繰り返して覚えていくもので、確固たる技術だとわたしは思っている。

 この娘がどれだけ鍛錬してきたのかは知らないが、あながち素質がないわけでもないように思えた。

 その証拠に、この娘の魔力(マナ)が放つ煌めきは、とても綺麗だったから。

「ありがとう。どちらも不正解よ。わたしは、魔女よ」

 彼女の瞳に輝きが宿った。淡い魔力(マナ)とも精霊の足跡でもなく、希望と好奇心だ。
 

「貯金は五百万あります! ロードバイクと、ブランドのバックに財布、アクセが少し。それにわたしの裁量で自由にできるもの全部が対価です! もちろんわたし自身を含んで! それであなたを、わたしに下さい!」

 ネックレスのチェーンを引きちぎり、先端をわたしへと差し出した。ピンクゴールドが揺らすダイヤモンドが、彼女の決意を象徴しているようだった。

「カモミールですね。いい香り」
「熱いから気を付けてね」

 ストーブの準備はまだできていない。例年ならば九月半ばを過ぎてから気温との相談になる。今日は間に合わないから、温かいハーブティーとわたしのストールで我慢してもらうことにする。

 あちち、と舌を出す姿は、どことなくネコじみていた。イヌよりはネコの方がましだ、かまってちゃんは昔から苦手だ。

「きれいな色ね。どこで染めてるの?」
「ありがとうございます。これは東通りのヴィヴィアンってとこです。カフェの二階にあるお店」
 洋灯が映し出すのは娘のつややかな髪色。一言で言うなら赤毛だが、黄、橙から焦げ茶へ撫でるようなグラデーションは目を見張る。
「わたしは小さなお店。店長は知り合いだから、こういう色の相談もしやすくて」
「そのシルバー好きです! 月明りで一瞬プラチナゴールドみたいになってて、胸が熱く高ぶりました……あち!」
「慌てなくていいから。お互いに時間はあるでしょう?」
「それは、わたしのものになって頂けるという意味でしょうか!?」

 赤毛の娘がテーブルに身を乗り出して、接近する。瞳の深い黒にはわたしの顔が投影されていた。可愛らしい娘だと思う。だが顔も中身も師匠には似ていなかった。

「わたしをもらった後は、どうするの?」
「まだ考えてません。とりあえずお話しするとか」
「いましている」
「こまかいことは置いておきましょう!」

 迷いなく口にするが、考えなしと言う印象は受けない。まずはカタチにする系統(タイプ)。わたしは思考と咀嚼する系統(タイプ)なので知識も術技も教え方を考え直さねばならない。

「そうね。まずは聖名(なまえ)を付けないとね。いつまでも、あなたでは失礼よね」

 空になった二揃いのカップとソーサーを下げて、わたしは彼女をお店の中央卓へ誘導し、腰かけやすいように椅子を引いた。「ビリヤードちゃぶ台みたい!」とはしゃぐようなお客はこの娘が初めてだ。「同じ素材で拵えてもらっているわ」ビリヤードの場合ラシャは鮮やかなグリーンだが、これは藍色で白く縁取りがされている。しかも直系およそ一メートルの円状なので、間違ってもビリヤードはできない仕様だ。

「視(み)て」卓の中央に大瓶を置いた。一抱えの重さは中にある『石』の質量によるものだ。卓にアロマキャンドルを立てると、『石』が焔の揺らめきと明かりで、各々の個性を囁きだす。

「これ全部パワーストーンなんですか……こんなに大きいの初めてかも!」
「ブレスレットとかに加工する前段階で研磨してもらったものよ。だから形状も手触りも色味も一定じゃなくてオンリーワンよ。手を入れて」

 大きなコルクを外すと、人の手を飲み込むほどの口が開く。
 わたしは単眼鏡(モノクル)を掛けて、現実の先を紡ぐための詩歌(うた)を謳う。

 時刻は、もう早朝の四時だ。さすがに『精霊石の詩歌』を徹夜で行使するのは骨が折れる。昼間よりも夜間に適した術技ではあるが、魔力(マナ)の喪失が著しいわたしでは荷が重かった。この娘にとっても、詩歌(うた)の術技はこたえたようだ。

「疲れたでしょう。あなたの魔力(マナ)を引き出して行使した術技よ。魔力(マナ)が一時的に喪失するけど、六時間ほど眠れば回復するわ」

 感応性が高い。ほとんどの魔力(マナ)を使い尽くしてしまうほど詩歌(うた)に掛かった。好奇心か、適正なのか。

「マナって、名前みたい」
「まなづる、がわたしの聖名(なまえ)」
「じゃあ、マナちゃんだ。かわいい」
「横になる?」
「ベッドで一緒に、なら」

 赤毛の頭をぽんぽんと撫でる。「ちぇ、ノリ悪いな~」と察してくれた。
 突っ伏したまま、机に頬をこすりつける。学生時代はわたしも机とは仲が良かったから、あの姿勢の居心地はわかる。彼女は手の中の『石』を握ったまま離そうともしない。

 まるで、家の鍵でも握りしめているようだった。

 月夜見(つきよみ)が魔力(マナ)に満たされていた。
 魔力充填(マナチャージ)は高等階梯位の術技だ。精霊秘語の正確な発音と詩読が不可欠。喪失している魔力(マナ)を他から代用できる。濃厚で濃密、だけど純粋な魔力(マナ)の泉に類している。化身には及ばずとも、非凡にして常ならざるもの。

「夜分に失礼いたします」即ち、彼女もまた魔女ということになる。「運命札(アルカナタロー)は、予め私に告げていました。黄金(おうごん)を騙(かた)る贋作(にせ)の鉄塊(かね)が、尊き聖鳥の羽搏(はばた)きに飴雨(あめ)を纏わせる。敬愛する“まなづる”様に不穏な影の訪れを報せるものです」

 まだ少女と呼んで差支えない年頃で、黒いセーラー服を着ていた。女子高生というには大人びた印象を受ける。

「ご挨拶なしに術を行使したこと申し訳ありません。私を知ってもらう上で最も有用だと判断しましたが、やはり突然で驚かせてしまったこと反省しています」

 彼女が膝をついて深々と頭を下げると、長い黒髪が店の床を掃く。髪を気にした風もなく立ち上がって、薄い眼鏡(グラス)を越してに目が合った。「聖名をつぐみと申します。お会いできて光栄です」いちいち固い娘ということはわかったので、赤毛娘の向かいの席を勧めた。

「カモミールでも良い?」「あ、え? はい。お願いします」お茶の勧めに着飾ったような雰囲気は消える。年相応より、やや幼い。緊張が解けたのか小さな欠伸(あくび)をかみ殺していた。

「つぐみとは、どこかで会ったかしら?」カモミールティーを注いだカップを差し出す。
「いいえ。でも、以前の師がまなづる様を知っておいででした。とても聡明で博識で生真面目で責任感強くが高潔なお方だと」ちびちびと舐めるようにお茶を口にした。この娘の師匠には全く覚えがない。他の魔女には何度か見えたことは確かにある。

 聖名の“つぐみ”が鶫(ツグミ)だとすれば、わたしと同じ『鳥(とり)』の流派に属していることになる。そうなると心当たりがない。

「ご馳走様でした」立ち上がり、例のおじぎをしてから「まなづる様、不躾なお願いとは存じますが、どうか私にまなづる様の教えを乞うことをお許しいただけませんか?」
「わたしに、弟子入り、するということ?」つぐみは頷いた。眼鏡(グラス)奥の眼は気力に溢れ、発せられる魔力(マナ)も充実している。

「そうね」厨房のシンクに腰を預けながら、ふたりの闖入者を交互に視た。
 片や、早朝過ぎる時間に現れた堅苦しいセーラー魔女。テーブルで潰れている赤毛娘に厳しい目を向けている。
 片や、丑三つ時に突然全速力で訪れた赤毛の酔っ払い。腰が痛くなりそうな体勢で満足そうな表情を浮かべていた。

「わたしはまだ弟子をとったことはないから、師としての能力も才覚も持ち合わせてはいない」赤毛娘の頭をぽんぽんしながら、つぐみに言い聞かせる。「つぐみは、わたしよりも潜在値が高い。少なくともわたしに魔力充填(マナチャージ)は使えない。今の師匠のところにいたほうが魔女としては完成すると思う」真面目な顔色が見る間に曇ってしまう。今にも泣き出しそうだ。
「それにわたしも師匠との約束があるの。魔女になりたいっていうこの問題児を面倒見なくてはならないし。ふたりの弟子を同時に持てるような器ではないわ」

 ごめんなさい、つぐみの肩に手を置いたことが堰を切るスイッチになった。

「うわわわわわわぁぁぁぁぁぁんんんんんん!!」「ええ!?」泣き出して、跳びつかれ、しがみつかれてしまう。
「なんでなんでそんなイジワル言うんですか! あたしのことキライなんですか!? キライなんですね!! またあの女の嫌がらせなんですね!! もう~や~だ~!!」人格(キャラ)が違いすぎた。五歳の娘が母親に駄々をこねている様が連想されるが、わたしにこんな大きな娘はいない。「よしよし、つぐみ。いい子ね、いい子だからね。よしよし」どこかで見聞きした、簡易なあやし方で頭を撫でてやるくらいが精々だ。

 効果はあったようだ。激情が嗚咽へ変わり始めると、つぐみの腕も締めつけを緩めて床に崩れ落ちていった。座り込むように受け止めて、小一時間よしよしと頭を撫で続けてやることで、つぐみはコドモからオトナに戻ることができた。収穫としては膝枕は脚を痺れさせ、すぐに動くことができなくなると実感できたことだ。

「ずみまぜん、どりみだじましだ」
「随分、取り乱してたわね」
 わたしはへたり込んだまま、ポケットのハンカチでつぐみの涙を拭う。壁に掛けた時計に目をやると、まもなく午前六時になろうかという時間で、わたしは一睡もできずに見ず知らずの娘さん二人とお店の厨房で一夜を過ごしたようだ。

「つぐみはどうして月夜見に……」つぐみ、音にして思い至る。「つぐみ、あなたの師匠は灯孔雀(アカリクジャク)なの?」「うううわぁぁぁん! ぞうでず、ぞうなんでずよ!! あの女が、あの女がっ!!」

 なんてことだ。
 つぐみを、そのまま鶫(つぐみ)と捉えていたが、月を見るでツグミと読み替えるならば、この娘が“灯孔雀(アカリクジャク)”に師事していて、セーラー服で泣きじゃくっているこの娘こそが、師匠の依頼にあった、
「師匠のお嬢さんなの?」
「ぢがいまず! 断じで違いまずから!」前置きしてから大きく鼻をすすり、つぐみは立ち上がった。「あの女との血縁関係は書類だけの事で、決してお母さんなどど思ったことはありませんからっ!!」
「ごめんなさい」
「いやいやいや違うんです違うんですってば! まなづる様はあたしの生涯尊敬対象で絶対不変のセンターですから! お母さんになってほしい魔女ナンバーワンですから!!」
 現状(こちら)がこの娘の地なのかもしれない。シンクに手を掛けてよろよろと体を起こす。脚はまだ痺れていた。
「あなたが師匠の」娘さん、というと泣きそうなので割愛する。ならば問題が生じる。問題児の問題だ。
「そうですそうです、それが問題です! 一体これは誰(なん)ですか!?」
 わたしに答えるだけの情報はなかった。数時間前に出会って、お茶を飲み、術技による選定を施した。
 月夜見は、心に迷いを持つ者しかたどり着くことはできない。彼女はたまたま深夜に迷い込んだお客、という見かたもできる。

 ただの迷い猫だなんて、あるはずがない。
「だって、あのとき」あのとき、わたしは、確かに聞いていたのだから。

「もーう、せっかく気持ちよく寝てるのにうるさいなぁ~」額に袖のあとを残したまま近づいてきたと思えば、セーラー服の襟首を掴んだ。「痛ったい痛ったいって、止めて、放せこの贋金偽造者(にせもの)! ふが!?」そのまま床に引き倒される。

「なんですかマナちゃん、このコスプレJKは? スタッフです?」
「コスプレ言うな! これは魔力(マナ)を高めるための正装だ! お前の低俗思考に則(のっと)った推測で語るな!」
「つまりコスプレですよね。あのですね、ひとつ助言させてもらうと、セーラー服は身長高いとコスプレ感この上ないですからね。わたしはギリギリセーフな部類ですけど、あなたは完全にアウトですからね。痛いですよ。ね、マナちゃん?」
「シャワー浴びてくるから、話がついたら呼びにきて。それから朝食にしましょう」
 時刻は午前六時だ。わたしはふたりを厨房に放置して浴室へと足を向けた。それだけで、つまらない言い争いは終結したようだった。

「なるほどね。それで事情は理解できたわ」
「申し訳ありませんでした。」

「楽しくなくなってたの。なにをやってもつまらないし、面白くなくなってて。そうしたら月の傍できれいな人がいたから、ああこの人に会わなきゃいけない。この人が欲しかったんだって直感が」ひとこと

 つぐみの事は理解できた。彼女こそがわたしの師匠こと、灯孔雀(アカリクジャク)の娘さん――つぐみは否定しているが――に間違いなさそうだ。魔力(マナ)

「」

<別記? 精霊の詩>

 手を入れて、ゆっくりと進む。『石』達はあなたの邪魔をしているわけじゃない。『石』たちはあなたの事を知ろうとしているの。

 目を閉じて、手と指先の感覚し頼りにしてみて。怖い物じゃない、悪い物でもない。でも尊いものでもないし畏れる物でもない。

 あなたは試されているわけじゃないのよ。選ばれているの。だからあなたも選んでいいのよ。

 あなたが手首まで差し込んだのは瓶の中ではない。そこは現実世界のもっと内側にある氷の森林地帯、氷の森が浮かぶ広大な海。海の中には氷樹の本体があって、それは海の下で繋がっている。

 総ての源は同質たるもの。だけど海上の氷は違うもの。ひとつだって同じものなど存在しない。

 だから安堵なさい。安心して掴めばいいの。あなたが求めるものは、あなた以外にはないのだから。

 あなたの掴んだものの中から、あなた自身を選ぶのよ。あなたの手には、あなたの総てが握られている。過去も未来も、希望も理想も。ひとつひとつを思い描いて、ひとつひとつを望む形に組み上げていくの。そうして、最後にひとつだけ手の中に残った『石』はね、純粋なあなたの魂そのものなのよ。


 

精霊石の詩歌(うた)はわたしの唯一の起源作品(オリジナル)の術技。潜在意識化の自分の姿を救い上げる、交流形式の
 

「い、いまのって、黒魔術とか白魔術とかですか?」
「魔女が行うものは、術技(じゅつぎ)と呼ばれている。技を行う術ではなくて、術を以て技とする」
 赤毛の娘は、確かにわたしの魔力(マナ)を響かせた。偽りなく、

没稿その②)
<月夜見/その1>

 ポテトサラダにはジャガイモと玉ねぎ以外は使わない代わりにアンチョビが加えてあった。周りを飾るスイートバジルとルッコラとパセリの緑に、ミニトマトの赤、イエローパプリカの黄、それらのバルサミコ酢の黒に引きたてられてトレイから来客した少女の前に音も立てずに置かれた。

 すぐ隣にはオープンサンドが並べられる。ライ麦パンにスモークサーモンと季節野菜のマリネが乗せられてある。

 次に用意されるのはデザートで、本来は豆乳を加えた低カロリーのパンケーキが続くのだが少女がダイエット中ということで、いくつかのフルーツにヨーグルト和えたものが添えられる。彼女はゆっくりと時間をかけて味わってくれているので、その間に厨房を片付けながらお茶の準備がなされている。

 月夜見(つきよみ)で自家栽培しているハーブティー。カモミールを主体に数種をブレンドしたもの。顧客ごとに配合はノートに記され、厨房の引き出しにしまわれている。

 ひとしきりの作業を終えてから、真鶴(まなづる)はエプロンを外した。もうひとつのカップとソーサーを手にホールに戻り、躊躇いなく少女の向かいの席に腰を下ろした。

「お嬢さま、満足いただけましたか?」真鶴(まなづる)がテーブルに頬杖をつくと少女はカップをソーサーに戻し「いつも通りよ」と答える。

「なら良かったわ。あれこれ注文をつけられたらどうしようかと怯えていたから」
「残念ね魔女さん。せっかくのお心遣いを無駄にさせてしまって」
「本当よ。カガミも甲斐がなくなったわね。可愛くなってしまって」自分で用意したローズヒップティーに口をつけて、真鶴(まなづる)は少女が次に口にする言葉を想像していた。

「可愛いのはもとからよ。知性と教養にも恵まれているし努力を怠ったこともないわ」
「そのようね、お嬢さま」想像どうりの答えに笑みがもれる。「なに? 今日はすこし絡むのね」少女は憤慨した様子もないが、珍しく探るような視線をまなづるに向けていた。「なんでもない」とカップを傾けても、少女は沈黙のままで真鶴(まなづる)の言葉を待っていた。

 お互いに黙り込み、壁掛け時計の秒針だけがふたりの間(ま)をつなぐように鳴り続けていた。
先に音を挙げるのは真鶴(まなづる)の方で、少女は余裕で意地の悪い笑みを浮かべるのがふたりの日常(いつも)の光景だ。
「月夜見(おみせ)を閉めようと思っているの」銀色の髪がローズヒップの朱(あか)に落ちた。先に口火を切ったのは真鶴(まなづる)だが少女が笑うことはなかった。じっと真鶴(まなづる)の眼を見やったままで黙り込み、カモミールで喉を潤す。
「残念ね」
「カガミは月夜見を初めから知ってくれている。一緒に月夜見を守ってくれていたから、突然で申し訳ないとは思っている」
「ここは良い場所なの。わたしが気を許せる数少ない安息地だから、本当に残念だわ」
「ごめん」

 カチ、カチ。沈黙が気まずさに耐えかねた時計が、再度ふたりの次の会話を促すように主張する。

「言いたいこととか、ないの?」沈黙に耐えかねるのは、いつも真鶴(まなづる)だ。少女の役目は意地悪い台詞を返すこと。

「意味ないもの。あなたが決めたことに異議も異論もないし、お店の事に口をはさむ権利も義務もないわ」
「ひとこと文句を言うくらいの自由はある。月夜見はお客さまあってのことだし、カガミは常客だもの」
「ひとことで済むような文句なんてない。わたしはわたしの自由で月夜見にきている。あなたはあなたの自由で月夜見を終わらせる。それでいいんじゃなくて?」
 空になったカップを置いて、少女は姿勢を正した。
「思い違いをしないでね。助けてもらっているのは、いつもこちらなのよ。あなたの心奥を慮るのは非礼でしょう? わたしは、わたしに必要だからあなたに会いに来ていたのよ。ランチとお茶を頂くために喫茶店に立ち寄っているつもりはない。それだけは明言しておくわ」と少女は初めて、深々と頭を下げた。
「お世話になりました。たった数年間だけど随分と助けて頂きました。感謝しています」
「こちらこそ。ご贔屓にして下さったこと感謝しています。わたしの最初のお客さま」

 真鶴(まなづる)は立ち上がってから少女に倣い深く腰を折った。

「まだ直ぐ、というわけではないのでしょう?」正面のエントランス前で振り返った少女に真鶴(まなづる)が「来月いっぱい。それでお終い」平坦に応えると、少女は安堵したような笑みを浮かべた。

「また伺います。どうかご壮健にて」
「いつでもどうぞ、カガミ」

 わずかな目配せでふたりは同時に振り返ると、カガミは門の外へ、真鶴(まなづる)は木製のドアをくぐった。「敬語、使えたのね」彼女は同時に大きく息をついた。

 都市部を外れた住宅街の奥まった場所に隠れ家然と存在している店がある。生垣で囲まれた庭を季節の草花と多様なハーブが飾る。古くはアトリエがあった土地を改装して建てられた木造二階建ての建物で、小さいながらルーフバルコニーまでを備えていた。近隣住民はこぞって中の様子を窺うも、店にはいつも「CLOSED」の札が掛けられており、開いているところを見たものはいない。

 しかし人が住んでいる形跡はある。正門のから母屋までに敷かれたレンガ道は、雨上がりでもないのに水に濡れ、ブラシで擦られきれいに保持されている。庭の芝生は一定の長さを保ち、雑草ひとつない。晴れた日は朝からルーフバルコニーに洗濯したばかりのシーツやテーブルクロスが風になびいて、夕方には取り込まれる。ときおり店内からパンを焼くいい香りが漂い、通りかかった人々の足を止める。

 暗くなれば火が揺らめくような灯(あかり)が窓ガラス越しに漏れる。母屋の入り口と正門にも洋灯が掛けられて、店全体を柔らかくも近寄りがたい雰囲気で覆い隠してしまう。

 その外観は幻想を纏い、お伽話に登場するかのような、不思議な場所だ。
 店の名を月夜見(つきよみ)。
 知る人しか知らない、現代魔女の住む家でもある。心のに傷を負った人々を癒す手助けをし、もう一度輝かせるための休息所なのだ。
 

 厚いノートの中ほどをめくると、真鶴(まなづる)は使い慣れた万年筆を器用に指で数回転させて本日の接客内容を箇条書きで記録していく。主に行ったサービスとお客の反応、新しい情報や魔力(マナ)流発(るはつ)など、簡潔かつ詳細にインクを刻んでいく。

 表紙は「ヘマタイト NO.5」とあって顧客の聖名と何冊目かを表すものだ。顧客を聖名で呼ぶのは魔女にとってのビジネスマナーだ。本当の名前はお互いに知らないし、知っていても店内では呼び合わないのが月夜見の規則だ。

 ヘマタイトは本日訪れた少女カガミの聖名。現在は大学に通う女子大生で、月夜見が開店した五年前から通ってくれている常客のひとりで、記録ノートの数は最も多い。何度もめくり読み返し、記録しては書き加え、書き損じて修正したり、色付けしたり。ノートの表紙は色あせ、側面から見ると記録紙が湿気や年月の影響で波打ち、嵩を増やしていた。

 見開きで大きく記録していく。二十分ほどで筆は止まった。右下部分に魔力(マナ)流発(るはつ)を書き込む余白がある。顧客の魔力(マナ)に対する私見を記録するスペースにあたるが、万年筆は軽快な動きを鈍らせ、記録者に弄ばれるように指から指へと回転を繰り返した。やがてペン回しも収束し、真鶴(まなづる)はノートとの睨めっこが始まる。唸ることはなく、記す内容に困窮しているわけでもない。結局、見開きの大半をインクで埋めたのと同じ時間だけを費やして、『感知できる魔力(マナ)の気配は微弱。但し、観測者の問題に起因する』最後の一行に筆を走らせた。

 彼女は魔力(マナ)を失いつつあった。
 彼女は魔女としての才能を失った。

<まなづる/その1>

「ご苦労様です」
「ま、毎度ありがとう、ございました!」配送会社の青年は汗だくでリヤカーを繋ぐ自転車をこぎ出した。カラフルな猫のイラストが入ったリヤカーを見送ってから真鶴(まなづる)は正門を背中で閉じ、重い段ボール箱を店内に運ぶために、ゆっくりと歩を進めた。

 厨房の床に荷を下ろす。配達伝票の送り主の欄は、真鶴(まなづる)が良く知る人物だったので、十キログラムはある荷物の中身については見当がついていた。ガムテープをはがして箱を開くと、新聞紙で包まれた大量の野菜が溢れ出した。人参、茄子、冬瓜(トウガン)、ズッキーニ、パプリカにピーマン、唐辛子。インゲン、オクラにトマト。それに玄米。

 まるで独り暮らしの娘への仕送りだと、嬉しくも呆れたため息を漏らした。ちょうど野菜が少なくなっていたから折は良かった。送ってもらうたびに電話で礼の言葉を告げるが、今年――そして今月はこれで三度目になる。さすがに気が引ける。一度師のもとに赴いて、新作のケーキを振舞いたいものだが、機会を逸したまま数年が過ぎていた。

 箱の野菜をテーブルに並べ、玄米を米びつへと納めようとして、もうひとつ隅の小箱の存在に気付いた。緩衝のために小さな段ボールと、気泡緩衝材(エアパッキン)に包まれた化粧箱。蓋をひらくと幾つかの石が重ならないように封入されていた。

「もしもし、真鶴(まなづる)です」スマートフォンのリダイヤルをタッチしてコール音が止むのを待つ。壁掛け時計は午前九時三十分を過ぎている。起きだしている時間で間違いはないはずだ。

『おふぁよ~う』気の抜けた声音がスピーカーから届いた。
「おはようございます。朝早くからすいません師匠。あの……」

 スピーカーから大きな欠伸が届いたことで、真鶴(まなづる)は言葉を切った。そして己の師が完全覚醒する時間い掛け直そうかと思案して入り途中で『ごめんごめんね~。昨夜(ゆうべ)はちょっと遅くまでホニョンデたから』寝惚け台詞が投げられる。

「いえ、こちらこそ。また推理小説ですか?」ホニョンデた、を「本を読んでいた」と訳し直して、まずは師の言い分を聞いてやることに徹する。
『いまねラノベが熱いの! 後宮ものがきてるわ! あとモンスターをザックザック退治するやつとか面白いのよ! 今度送るから読んでみてね』

 数秒前まで意識消失だった師のアクセルの踏み込み具合にペースを乱されるも、どこか安堵し、ラノベとはライトノベルという若い読者向けの小説だという所から、師が嵌って読みふけっている作品の感想とネタバレをひとしきり聞いた真鶴(まなづる)はようやく要件を切り出す。

「さっき荷物が届きました」
『あっ、届いた!? ニジネコ便早っ! お野菜いっぱいもらっちゃってね。梅さん家の畑、今年は大豊作なんだって。全部無農薬よ、オーガニック!』
「お野菜もそうなんですけど、あの……」師は止まらずに野菜談義とお隣に住む梅さんの人柄の良さ、読書趣味、お孫さんの進学の相談を経て「送って頂いた石のことで」と目的地へと着地することができた。

「ありがとうございました」真鶴(まなづる)は深々と頭を下げた。
『いいのよ。でもごめんね。もっと早く手に入ってたら良かったんだけどね。そしたら、マナちゃんがもしかしたら、考えなお……がんがえなおじで、ぐれだがも、じれない、のにぃぃ!』
「師匠、泣かないで下さい。これは全部、わたしの責任ですから」
『ぞんなごどないからっ!!』

 感極まった電話口の師は幼子のようにぐずり、泣き声を上げた。
 先日の電話でも泣いていた師の様子を思い出しながら、真鶴(まなづる)は口を噤み苦笑いを浮かべた。

 魔力(マナ)は目で見えないエネルギーを総称する名称で、魔道に携わる者が用いる秘語の中で最も認知されたものだ。流派や教義により呼び方に違いはあるが、自然物に宿る活力を『精霊力(エレメンティス)』、生命に宿る活力を『魔力(マナ)』と呼び分けられていた。

 真鶴(まなづる)には才能(ギフト)があった。精霊力(エレメンティス)を認知し、こと魔力(マナ)を「視る」ことができたのだ。加えて、彼女は努力と精進を怠ることもない。記録や検証を繰り返し、新たに挑み、また結果を記録して検証することで独自の術技をも創り出してきた。それらが自信となり誇りとなって、真鶴(まなづる)を支える礎になっていたのだ。

 突然、彼女の眼から魔力(マナ)の存在が失われ始めた。
 魔力(マナ)や精霊力(エレメンティス)の認知には差異があって、真鶴(まなづる)の場合は「流発(るはつ)」――――流れのように視認できていた。星々が集まって構築される天の川が人や物、動物、植物から淡く立ちのぼり、周囲を覆い包むように視えていたのだ。

 喜んでいれば流れリズムを刻むように軽快で、怒っているときは強くて早く渦を巻くように捩(よじ)れてうねる。哀しければ流れが滞り易く弱い。楽しいときは強くて噴水のように弾け出でる。

 魔道に携わる者は必ず、この魔力(マナ)なり精霊力(エレメンティス)を五感により認知できる必要がある。それが魔道に携わる最低限の資格だ。

 それが、視えなくなっていったのだ。
 徐々に流発が薄くなり、ある日を境に全く視えなくなっていた。

 疲労や体調不良、悩みや余裕の無さなど原因はあった。可能な限り、それらを取り除く努力もした。

 しかし、失われた才能(ギフト)が戻ることもなかった。

 電話中に師が泣き止むことはなかった。真鶴(まなづる)だからこそ会話として成り立ったといえる。何度も何度も謝られて、何度も何度も慰めた。

『う、う、うわぁぁぁぁんっ、寂しいよ~!!』
「師匠、もう会えなくなるわけじゃないですから。一度、顔を出そうと思っていました。新しいケーキのレシピがあるので是非食べてもらいたいので……」
『食べるから! いっぱいいっぱい食べるからねっ!!』
「また電話します」
 師への礼の言葉で閉めて、真鶴(まなづる)は通話を切った。

「いい人だな」師の泣きじゃくる姿を想像している内に呟いていた。数年間を彼女に師事してきた。寝食をともにし、師とし尊敬もしている。なにより真鶴(まなづる)が魔女に憧れたのは、彼女あってのこと。師である彼女の存在がなければ、現在の真鶴(まなづる)がなかったことは言うまでもない。

 常客のカガミにしてもそうだった。初めて訪れたのはまだ中学生くらいの時分で、当時のひねくれ方は尋常ではなかった。目が笑わない人種を見たのはカガミが初めてだった。今でこそお互いに軽口や皮肉を言いあい、受け流せるほどに成長できた。彼女のことも最初は聖名のヘマタイトと呼んでいたのに、ヘマタイトが鏡のようだとの理屈で、いつの間にかカガミと呼ばせてくれるようになった。昨日に至っては、敬語までを披露してくれたのだ。

 月夜見(おみせ)がなくなっても真鶴(まなづる)がいなくなるわけではないし、師やカガミと会えないこともない。関わる回数は格段に減ることは避けられないが、永遠に別離(わか)れではない。 

 彼女らを見ていると、嫌でも真鶴(まなづる)は考えてしまうのだ。「わたしの冷たさは、情緒的な欠陥があるからだ」と。

 魔女としては、慕い敬う師のようにあらねばと行動してきた。苦などなく、淡々と教えを守り、自分なりに邁進し精進してきた。

 
 だから、なのか。
 しかし、なのか。
 そして、なのか。
 なぜなら、なのか。
 ただし、なのか。
 でも、なのか。

 どれほどの、どんな品詞で繋ごうとも事実は変わらない。
 真鶴(まなづる)は、魔力(マナ)を視ることができなくなっていた。

 彼女の思考を支配しているのは「なぜ」であって、彼女の慟哭の理由は「悲しみ」ではなく「悔しさ」なのだから。

 

 真鶴(まなづる)が師への電話を終えたのころには正午を過ぎていた。送られてきた野菜を整理して、急いでレンガ路のブラシ掛けを終えると、庭でハーブの様子を見て回る。細かい雑草を引き抜いたり、日当たりと風通りをチェックするのだ。日々の事なので感じられる変化は薄くはなるが、新しい芽吹きを目の当たりにすると嬉しくなったりもする。

 店内の埃落としと窓拭き、床掃きと水拭き、テーブルや椅子、調度品の状態確認と手入れ。パントリー内の清掃と在庫確認。掃除用具や消耗品なども見て回るが、すぐに入用になるものはなかった。

 厨房の冷蔵庫から出したレモン水で喉を潤し、ふうと一息つく。今日の予約は入っていない。飛び込みの来店者もいなくはないが、ほとんどは紹介による場合が多いからだ。とはいえ月夜見での真鶴(まなづる)の作業はいくらでもあった。定期的に床にワックスをかけたり、テーブルや椅子、調度品に傷みや緩みがあれば修繕したり、ニスを上塗ることもしばしばあった。物の傷みなどは精霊力(エレメンティス)の乱れ、滞りに一目で気づくことができていたが、現在は適わないことだった。

「さてと」作業に戻る意を声に出し、彼女はレモン水が半分残ったグラスを置いたままで階段を上がり、風が閉めてしまったルーフバルコニーへの扉を開いた。

 八月の終わり。日差しは強く、未だに夏日は健在だった。朝起きて寝癖もそのままに干した掛け布団の向きを返す。二、三時間干していた表面は冬場に湯たんぽを入れたように暖かい。洗濯を終えたシーツとベッドパッドもほとんど乾いていた。適度に風がそよいでくれるのが涼しく気持ちいいが帽子を取ることもできない。庭での作業中から被っている日差しよけの帽子と日焼け止めクリームがなければ、今頃顔が真っ赤になっていることだろう。

 真鶴(まなづる)はバルコニーのフェンスに肘をついて、青い空と漂う雲と、その下にある街を眺めていた。足下の、爪先から前方に広がるのは手入れした緑の庭と住宅地。家屋のひとつひとつは理科で習った細胞のように、規則正しく組み合わされている。細い路地道は毛細血管で、細胞に栄養を運び、不要物を排出する。

 毛細血管はやがて国道と言う大動脈へと合流する。行き交う人々や車両。あらゆる建物に出入りすることで物流を加速させ、活発化させていく。血液が体内を巡り、様々な臓器に栄養を与えるように。

 街はひとつの身体だった。総てが集まって、街という肉体を構成し、維持している。
 だとするのなら――――、

(わたしの役割は、なんだというのだろうか?)

 魔力(マナ)の視えなくなった街を前に、魔女としての聖名を授かってからの数年間を振り返り自問した。果たして、彼女は理想とした魔女として生きることができていたのだろうかと。
 師について学び、寝る間を惜しんで本を読みふけった。師に無断で術技を試験し実験した。魔力(マナ)や精霊力(エレメンティス)の流れがわかった。視えることが嬉しかった。流発を制御できたことが楽しかった。魔女であることが喜ばしかった。

 数年前の感情や感動はすでに過去のもので、真鶴(まなづる)の瞳に映る色彩もセピア色になりつつあったのだ。

「魔女とは目的でも手段でもなく、職業でも称号でもなく、権利でも義務でもない。魔女とは――――である」腐ってはいけない、自棄になってはいけないと彼女は師から教わった箴言(しんげん)を噛みしめるように口ずさんだ。気をしっかり持たなくてはいけないと拳を握りしめる。

「しっかりしなさい真鶴(まなづる)。わたしは魔女だ、魔女になったんだ。投げ出してはいけない、まだ折れてはいけない、諦めるのは早いわ。魔力(マナ)が視えないくらいで弱音を吐くなんて、わたしらしくないじゃない。だって、わたしは」
 震える声が、彼女の硬くて強い意志に亀裂を走らせる。露わになった脆さは全身に伝播して、膝を折らせ、堰き止めていた涙腺を解き放った。

(なんて自分は弱いのだ!)

 せめて声だけは出すまいと口元を抑えつけるも、彼女がため込んだ涙が涸れるには空の青さは、無感情で乾き過ぎていた。
 

 

 入浴前には見られた目元の赤みは肌の上気で見分けがつかなくなっていた。
 夕暮れを過ぎて朱が沈み始めると気温が一気に下がった。風が撫でつけるだけで秋の訪れを実感できた。儀礼用の長衣(ローブ)を羽織っているから寒さは問題ない。

 真鶴(まなづる)は敷地内に洋灯(ランプ)に火を灯して回り、暗いルーフバルコニーに上がった。

 木桶に溜めたハーブ水を流し込んで、桶の底に石を並べ置き、最後に岩塩を沈めた(オリジナル)の術技と呼べるものだ。夜に月光を浴びさせることで、石に深く折り重なった古いエネルギーを、一晩かけて除去していく方法だった。

 彼女は、精霊秘語を流麗に詠う。
 決して人間には聞こえることのない言葉。
 澄みきった音色。
 それぞれの『オト』に意味はあっても、理屈は存在していない。
 術偽を行う者が、月と石の波動を読み取って『オト』に変換することで精霊力(エレメンティス)を整える。

(視えないけど大丈夫。まだ読み取れる)

 水面に波紋が広がっていく。詠う真鶴(まなづる)の揺れが伝わったせいか、石が祈りに応じた証なのかを判別することはできないし、彼女にそれを視る術はない。

 もしも、真鶴(まなづる)が精霊力(エレメンティス)を視認できたのならば、木桶か
ら溢れる煌めきに心を躍らせていたことであろう。石は魔女の詠唱(うた)に呼応し粒子を天に舞い上げた。風ではなく、心地よく奏でられる秘語の旋律になびいて、初めて訪れた土地を確かめるように煌光を伸ばしているのだ。

(ここが、今日からあなたたちの居場所になるの。ここには、あなたたちが必要とする者がいて、あななたちを必要とする者がいる。きっと結いは訪れる。それまでは眠っていてね。安心してお眠りなさい。わたしはただの通過点なのだから)

 魔女の詠唱(うた)が終わりを告げることで、石は粒子の手を休めて安息の夜に落ちていく。彼女が最後に感じていた僅かな残滓こそが術技の行使を証明できる手応えだった。

 傍らに持ち込んでいた魔法瓶を傾けて、薄く淹れたコーヒーをマグカップに注ぎ、口をつけた。久しぶりに精霊秘語を詠った所為か全身の火照りと喉の渇きが疲れを招いている。冷やしたジャスミンティーも捨てがたかったが、彼女は夜のお供にコーヒーを選ぶ。外気はすぐに体を冷やす。彼女にとって冷えはあまり好ましくない。

 淹れたてには及ばないが、術技の疲労感にコーヒーの苦みが染み渡る。石の浄化にはほぼ一晩を月光に晒すことになる。初めての石たちを浄化する場合は、なるべく傍で見守ることにしている。人間同士ではなくても魔力(マナ)や精霊力(エレメンティス)を干渉させることで強く絆(パス)を繋げる、それが真鶴(まなづる)の、魔女としての実力であり美学(こだわり)でもあった。

 夜はまだ長い。ロッキングチェアを揺らさないように腰かけて、ひざ掛けを乗せると魔女は一冊の分厚いノートを開き、目を走らせた。明かりは月と洋灯(ランプ)で充分足りる。自分で書いた字を間違えることはない。そのノートは彼女が真鶴(まなづる)になってからの日々を記録した、魔女の日記なのだから。

 最初のページには、魔女としての箴言が書かれている。魔女は思い出に目を細めて、箴言の空白部分を撫でた。

<アンバー/その1>

 短くした赤毛をいじりながら彼女は部屋に姿見を置くべきかを思案していた。以前の部屋には結局置かず、大きめのスタンドミラーを使っていた。引越ししたばかりでスペースはいくらでもある。新しい部屋に持ち込んだのはお気に入りのベッドとスタンド型のサイクロン掃除機、最低限の衣類、食器くらい。生活用品のほとんどは引越しを機に処分した。読まなくなった雑誌、着なくなった服、使っていない棚類、古くなった食器、見飽きた柄のカーテン、壊れたまま放っておいたテレビ、その他持ち込むのが面倒な家電、友達からもらった悪趣味な外国のお土産など。

 テレビは見ないし自炊もしない。雑誌も音楽もゲームもパソコンも全部スマホが引き受けてくれる。エアコンは備え付けてあるので洗濯機とサーキュレーターと冷蔵庫と電気ケトルがあれば問題なく生活は成り立つと、スマホでショッピングサイトを開くと次々に購入手続きを済ませた。彼女にしては珍しく悩んだが姿見も購入する。

 面倒な手続きを含めてやるべきことは全部終わったのだとベッドに寝転ぶと空腹だったことを思い出した。スマホを確認すると午後十一時を告げられる。冷蔵庫もなく、すぐにお腹に入れられる物はないが、近くにコンビニがあったことは知っていた。ルームウェアの上に薄手のパーカーを羽織って、彼女は新しい部屋に初めて鍵を掛けた。

 新しい街の夜は静かすぎて彼女の好みではなかった。人の気配が失われて街灯だけが存在感を誇示していた新しい住処。新興住宅街で若者が遊ぶ場所がないから、若者は離れた幹線道路沿いに集まるのだろうと、少し前まで自分が住んでいた場所を追想していた。

 コンビニまで徒歩で十分弱の距離。雨でなければいい距離だし運動にもなるから自転車は要らないなと目算しながら、まずは雑誌の列を目で追い始めた。ファッション誌、タウン誌、旅行雑誌、週刊誌を流してから紅茶のペットボトルとアロエ入りのヨーグルトをカゴに入れる。あとはサラダかサンドウィッチかを決めかねていたが結局はサラダをカゴに入れた。会計を済ませて「ありがとございました」従業員の声に追い出されるように店を出る。

 品揃えがいいから利用するには便利そうだと、彼女はペットボトルのキャップを開け口をつけ、トボトボと家路をたどり始めた。何度かは出歩いたが新しい街の夜はネオンひとつもなくて迷いやすい。引越しはいつもながら急に思い立ったので下見もネットで画像を見ただけ。住宅自体は現代風なオシャレなものが多いが、逆に目印になりそうな建物を絞れない有様だった。

 新しい部屋からでも見えた公園を通り、方向を定めようとしたが彼女は行きにはなかった複雑な路地に阻まれる。仕方がないと、タクシーを呼ぼうとスマホを手に取るも圏外が表示される。誰かに道を尋ねようにも時刻は午前一時。苛立つこともなければ落胆することもなく「コンビニまで戻ってタクシー呼んで帰るか」と結論を導いたが、彼女は公園のシーソーに腰かけたままで耳を澄ませていた。

「アリア?」家族行事で連れて行かれたオーケストラで何度も聞かされた声高な人の声帯による音源。それがオペラでもアリアでもないことはすぐに気付いたが、耳に心地よい旋律が彼女をシーソーに縫い付けたまま足を止めようとしていたのだ。

「こんな街中の、しかも夜中に」綺麗で巧い。数百もの曲を知る彼女であってもタイトルが知れない。母親からの曲当てクイズを間違えると叱られた記憶は苦いが、耳にはそれなりの自負がある。その彼女がわからない。

 まず湧き出た感情は好奇心で、次には歌唱者への賞賛だ。
 いつまでも聞いていたい誘惑を退けて、彼女は走り出した。

 思考が透明になる。鬱屈していた思いが解けて、頭に立ち込めた霧が晴れていく。
 コンビニで買ったヨーグルトやサラダが揺れるのもお構いなしに駆けた。
 不思議と詩歌(うた)は強弱や距離に関係なく、耳元で響く。どれだけの路地を曲がろうともイヤホンをしているようにはっきり届いている。

 音源の位置がどこかの確証はないが、彼女には確信があった。
 旋律のもとには、きっと。
「絶対に素敵なことが待ってくれている!」

 
 荒く息を吐きだし、吸い込む。
 足がもつれて転んでしまったし、流麗な詩歌(うた)はたった今終わってしまったが彼女は満足だった。全力疾走の疲労感に脱力感。道の真ん中で、月を仰ぎながら大の字で寝転ぶ姿を両親に見られたら大激怒必至だがここに両親はいない。街の住人も、野良ネコだって寝静まっている。
 呼吸が整うのも待てずに、彼女は笑顔で向けた。

「こんばんは。いい夜ですね」

 銀の髪が風に流される。
 月光を浴び、長衣(ローブ)をはためかせながら、揺れる椅子から立ち上がった。
 顔は見えないが、彼女にはそれで満足だった。
 体のどこかに開いていた穴が、埋まった感覚を噛みしめて、ゆっくりと目を閉じた。
「今夜はぐっすり眠れそう」彼女は数年ぶりの熟睡を味わうことができたのだ。

 バターになってクロワッサンに練り込まれたり、ペパーミントごとバニラの池で凍らされる夢から覚めた。新築特有の冷たく味気ない白い天井はなく、築年数を感じさせる温かみを帯びた木目の板材が視界に飛び込んできた。薄手のタオルケット陽を吸い込んだようにふかふかで、ホテルのように真っ白に洗濯されている。目をこすりながらベッドから起きだし、自分の部屋ではないのかとの疑問を記憶に相談しながら、彼女は焼きあがった小麦の誘惑に呼ばれてふらふらと階段を降りて、最後の二段を転がり落ち「ふぎゃ」と奇声を漏らした。

 熱々のフライパンに生卵を落とした景気の良い加熱音に、ベーコンが焼ける油とほど良い焦げた匂いに胃を刺激され、嗜好は急速に覚醒した。潰れたカエル姿のままベーコンエッグを鼻腔で味わう幸福を中断したのは、ハーブの香りを纏った天使が彼女に手を差し伸べていたからだった。

「怪我とかはなさそう。熱もない」ベーコンエッグの香が移った手を掴んで立ち上がると、エプロンの女性は頬と額を撫でて、表情を柔らかくした。
「朝食はパンにしたけど食べられる?」きっかり二秒固まってから、彼女は首を五回縦に振った。

 ふかふかのバスタオルを渡され案内されたバスルームでシャワーを浴びて昨夜の汗を流すと、きれいに洗濯された彼女の部屋着がたたんで置いてあった。そこで自分が何を着ていたのかを理解する。どうやら借りていたバスローブを脱いで、見よう見まねでたたんでから洗濯カゴに置き、「上がったらいらっしゃい。朝食にしましょう」との声に従う飼い犬のようにキッチンに戻った。

「どうぞ」エプロンの女性は椅子を引いたことに戸惑いつつも慣れた様子で掛けた。ベーコンエッグに添えられた彩サラダ。カップにはコンソメスープ。焼きたてのクロワッサンふたつとイチゴジャムまでついている。

「ここはホテルですか?」との疑問にエプロンの女性は、いいえと短くつぶやいた。
「ここは月夜見(つきよみ)の展望台。ここは魔女の住む家よ」

 言葉の意味をすぐに飲み込むことはできそうにないので、代わりにコンソメスープを流し込んだ。
 しかし、目の前のエプロンの女性が「魔女」と口にしたときに初めて銀の髪が美しくまばゆいたように見えていた。

<まなづる/その2>

 真鶴(まなづる)は内心で発してしまった言葉に棘のようなものを感じながら半熟の黄身をナイフで切り、ちぎったクロワッサン黄身を染み込ませてから口に運んだ。目の前のほんの数十センチ先にいる赤毛の娘も真鶴(まなづる)に倣い、黄身にクロワッサンをつける。

 昨夜、突然現れて笑いながら昏倒した赤毛の娘に月夜見(つきよみ)を明かしたことは間違いなのかと自問するが答えはすぐに出る。ただの人間が運任せに月夜見に至ることなどない。赤毛の娘には、月夜見を訪れる理由と資格があるからたどり着けたといえる。

「すっごく美味しい! コンビニもプリンセスホテルも霞んじゃう! これ有機無農薬栽培(オーガニック)の野菜ですよね?、ベーコンも自家製っぽいし、卵黄も濃い濃い!」
「そう、よかったわ」

 反応は過剰だがナイフやフォークの使い方は上品で、真鶴(まなづる)もその運びを時折見つめていた。グラスの中身が半分を切ったらレモン水を足し、彼女の器が空になればお茶の準備を始める。紅茶とコーヒーの選択に赤毛の娘は迷わず前者を声高に訴えたので、二人分を用意した。

「頂きます」真鶴(まなづる)が席に着くのを待って、赤毛の娘は持ち手を右にしてカップに口をつけた。なにも入れずにダージリンの香りを味わっているのだ。「お砂糖は?」赤毛の娘は首を横に振り、カップに注がれた赤橙色の泉をのぞき込み、芳香を楽しんでいるようだった。
 真鶴(まなづる)も久々に味わうダージリンに砂糖を落とすのを止めることにした。

「あの、魔女のお姉さま」
「真鶴(まなづる)というのがわたしの聖名なの。ここでは本当の名前を口にしないのが制約(きまり)だから」
「まなづるさん、マナヅルさん。じゃあマナお姉さまね」完璧なマナーのお嬢様の様相は崩れ、赤毛の娘は身を乗り出さんばかりに鼻息を荒くする。
「ここで、月夜見で住み込みで働かせていただきたいです!」
 口に含んだ紅茶を飲み込んでから、真鶴(まなづる)は期待に目を輝かせる赤毛の娘の圧力をするりと躱しカップをソーサーに戻した。
「小さい店だから手は足りているし、誰かを雇うようなお店でもない」
「じゃあ住み込みのお手伝いとかはどうですか? パソコンと運動は得意ですよ! むか~し喫茶店のバイトを一週間くらいしたこともありますし」
「似ているけど、月夜見は喫茶店ではないわ」
「ですよね! ふぅ、良かった。なら安心ですね。ささ、早速面接に入りましょ……って履歴書ないし!? うわっ、もう八時前、遅刻の電話入れないと! スマホがない!?」

 ひとりで勝手に右往左往する妹くらいの年齢の、全く知らない赤毛の娘の様子に可笑しくなった。真鶴(まなづる)が言おうとしたが勝手に思い立って二階の部屋に駆け上がりスマホを見つけたと報告されて、目の前で電話を――おそらく会社であろう――掛けた彼女は、焦った風もなく、余裕なやりとりで遅刻する旨を相手に押し通した。残りの紅茶を飲み、一息ついた彼女はゆったりとした様子で席に着いた。

「では面接のつづきをお願いします」
「間に合うなら仕事に行った方がいいわよ」
「間に合わないのでご安心を」ニコニコと笑顔を浮かべるこの娘に口では敵わないことを悟った真鶴(まなづる)はダージリンのお代りを尋ねて、娘は同意した。

「ご厚意はありがたいけれど必要ないわ。月夜見は来月いっぱいで閉店することにしたの」
「ええっ、もったいない! せっかくいい雰囲気なのに。料理もお茶もベッドもバスタオルもアロマも文句ないし、マナお姉さまも綺麗でわたし好みなのにさ」
「褒めて頂いて嬉しいわ」
「本気ですってば。わたし結構軽いからよく冗談っぽく見られるけど、本気で思ったことしか口にしませんよ・一本気なんです」
「そんなこと自分から言い出す人は珍しいわね」
「でしょう? 希少(レア)ですよ、絶滅しちゃいますよ」
「……ほんと、ね」

 表情をころころと変える赤毛の娘のペースに乗せられていると知りつつも、心地よい乗り心地に真鶴(まなづる)は固く結んだ心の紐が緩んでいることに気付いたが結い直そうとはしなかった。自然と頬が緩み、口角は上がり、しばらく耳にしていなかった自分の笑い声を聞く。

「あなた、へんな子ね」
「よく言われます。ヘンでおかしな子って。でも仕方なくないですか? わたしって、このわたし以外にないですもん」
「凄いのね。自分のことをちゃんと理解して認めてあげてるのね」
「他に認めて、許してくれる人なんてきっといないと思ってますから。自分ってのと一緒にいて融通利かないなとか、不器用だなとかありますけどね。こればっかりはどうしようもなかったから、もう諦めてますよ。案外かわいいとこもいっぱいありますしね」

 立ち上がって大きく身振り手振りでのジェスチャーを収めて、彼女は席について冷めた紅茶で喉を潤した。

「で魔女さん、面接はどうなりましたか?」
 ちゃっかりもしている、と内心で苦笑しつつ真鶴(まなづる)の結論は揺らがない。

「あなたが月夜見を見つけたことは納得できた。でも魔女の見習いとしてあなたを月夜見で修業してもらうわけにはいかないし、住み込みのお手伝いも必要ない」
「あ、じゃあ魔女体験講習というのはどうですか!? 月謝も払いますから!」
「そういう問題じゃなくて」真鶴(まなづる)を制した娘はスマホを何度か操作してから堂々とインターネット銀行(バンク)の画面を公開した。
「貯金は五百万円あります! ロードバイクにブランドの鞄(バッグ)と貴金属(アクセサリー)が少々。わたし自身と、その他わたしの裁量で自由にできる物品の全部が対価です! それで、わたしのステディな彼女になってください!!」
「いや、それは」真鶴(まなづる)が二の句を告げずに動揺でカップとソーサーをカチャカチャ鳴らしてしまう。

 告白をした本人は冷静にカップを置いてから神妙な表情を浮かべていた。
「やっぱり気持ち悪いですよね……いまのなしで!」手の平を見せて「待った」の構えを取った。

 数秒掛けて口元に運んだカップを傾けるも中身はなく、飲んだふりだけをして魔女は噛みしめるように言葉を抽出する。

「趣旨が違っているわ。それに、悪いけどそういう趣味もない」
「うわ直球、へこむなぁ」
「ごめんなさい」
「なんで謝るんですか? 謝るくらいなら付き合って欲しいんですけど。って冗談ですから真に受けて沈没しないでください」

 悪びれなく舌を出しておどける娘を見てから、ゆっくりと深呼吸をした。化粧をしなくても充分に魅力的な顔立ちに、運動で引き締まった細い体躯。短く遊びのある猫っ毛は女の子を表現しつつも活発さを失わない。ラフな部屋着に身を包んでいるが、オシャレに着飾ればすぐに恋人くらいはできるだろう。

「わたし、魔女に相応しくないですか?」
「あなたは魔女になる理由がないでしょう?」
「魔女になる理由ありますもん。マナお姉さまと一緒に暮らせるっていう特典狙いですけどね。それだけじゃあダメなんですか? 不純ですか?」
「わたしが納得できないだけ。後悔しそうだから」
「後悔なんてここしばらくしたことないですよ、わたし」
 胸を張り誇る娘を前に、真鶴は後悔するのが自分であることを言い出せずに言葉を失った。たった今目の前の娘に掛けた「魔女になる理由」が空々しく感じられる。

 果たして真鶴(まなづる)は詩を納得させるだけの理由を述べることができたのだろうか。師はどのような理由で真鶴(まなづる)を弟子にすることを決してくれたのか。
 そして、もう魔女としての力を持たない、失いつつある自分に師など務まるのか。

「わたしはあなたを魔女してあげることはできないし、月夜見で働いてもらうこともできないわ」
「そうですか。はぁ~あ、へこんだ~」
「でも、あなたが月夜見を訪ねてくれることは歓迎するわ。あなたを魔女にも同僚にもしてあげることはできないし、その……彼女になってあげることもできない。わたしには月夜見(ここ)であなたを迎えてあげることくらいしかできないわ」
「それでいいです! ってかその手がありました! わたし月夜見の常連になりますからね! だったら居てもいんですよね? 毎日きますし開店(あさ)から閉店(よる)までいますからね! いいんですね!?」
「ありがとう。月夜見(ここ)を気に入ってくれて」

 魔女に赤毛の頭を撫でられながら、迷い込んできた大きな娘(ネコ)は嬉しそうに喉を鳴らした、握った両手を顔に添えながらとっておきの「返事(にゃん)」を返した。

 八月の最後の日は天候と風に恵まれ、日差しに比べて過ごしやすい一日となった。
 赤毛の娘を見送った真鶴(まなづる)は、胸のあたりに渦巻くもやもやに戸惑いを覚えつつも、いつものように月夜見の手入れを行った。不意にこぼれる笑顔を押し隠して、理由のはっきりしない感情を収めるために作業に没頭することにした。

 明日からはもう九月。
 あと一か月。
 最後の一か月が始まる。

 ベッドのシーツを物干しに掛け、流れる雲を無心で見やると気持ちが安らいで癒される自分に気付き休憩を取る。ロッキングチェアに揺られて青を横切る白にだけ意識を向けるが、精霊力(エレメンティス)が視えることはなかった。
 そよぐ風と柔軟剤の香りにお茶が恋しくなったが、ローズヒップティーかダージリンかを迷っているうちに彼女は寝息を立てながら、夢の在処(ありか)を探しに旅立ってしまう。探し物は未だによくわからないが、魔女の寝顔は外見よりも幼く見えた。

<つぐみ/その1>

 つぐみはクローゼットの奥から引っ張り出した冬仕様のセーラー服を広げて虫食いがないことを確認する。学生時代は真っ黒なこの制服の事をあまり好きにはなれなかったけれど流石は制服。高校での三年間を過ごして傷みは少なく、生地も厚いし頑丈だ。防寒性はやや弱いがカバーできる。袖を通すのは一昨年の卒業式以来になるが、体型の変化は皆無。現役の学生に交じっても露見(バレ)ないこと間違いない。クローゼットドアの内側に付属の姿見で上から下までを確認する。リボンを結ぶがこちらも二年弱ぶらんくがあるのでの多少手こずった。スカートの高さを膝より上にするため折り返し、調整し、姿見を前に両手を腰に当ててキメ顔を作った。

「よし」

 大きく頷いたがどこか味気なさを感じて、キャスケットを被り、チェック柄のシャツを腰巻する。普段着と同じようなシルエットにはなったが彼女には充分納得できる完成度といえた。

「完璧だ!」
「つーちゃん、ご飯にするよ~」
「ひゃっ!?」つぐみは危うく腰を抜かす寸前だった。突然開かれた部屋のドアから彼女の母親が覗き込んだため、二十歳を過ぎたセーラー服姿を目撃されてしまう。

「あ、つーちゃん似合う~、かわい~」

 勝手にドアを開けられたことへの憤慨に顔を赤くし、プライベート過ぎるお色直し中の格好を無遠慮に賞賛することで傷つけるデリカシーのなさに目を丸くし激怒した。
「勝手にドア開けるな!」何度ドアをノックするように言っても聞き入れない無神経さと軽率さを不言実行し続ける母親への怒りは限界を超えていた。加えて「つーちゃん」とか保育園のころからの呼び方を継続されることにも腹が立つ。

「は~い、ごめんごめん。ご飯出来たからからね~、着替えといてね。制服汚れちゃうよ」
「きぃー!」懲りた様子もなく普段と変わらぬ笑顔で手をひらひら振り夕食を促すゆるい母親に対して、彼女はスカートの裾を握り締め、キャスケットを床にたたきつけた。
 しかし、すぐにキャスケットを拾って謝りながら撫でて、物に八つ当たりしたことに後悔する。

「もうイヤだ、もう限界!」どかどかとクローゼットから下着を含んだ衣類を取り出して、キャリーバッグに乱暴に詰めていった。その上から細々としたものを多数を押し込み、オーバーした許容量を無視してキャリーバッグを閉じて、ベルトで固定した。
 財布と携帯電話(スマートフォン)と眼鏡入りのケースをポーチに入れて、部屋の電気を消した。階段を降りて、玄関で靴を履き、「行ってきます」と言おうかどうかを数秒だけ迷って、小さい声で「もう、帰らないから!」と囁いてつぐみは二十年を過ごした家屋に別れを告げ、夕暮れの街に紛れていった。

 ぐぅ、と鳴くお腹が欲していたつぐみの好物が夕食のおかずだったことに後悔しながら、彼女は電車の切符を購入し、改札をくぐった。
「あたしは魔女になる! すごい魔女になって、あの女を見返してやる!」

<まなづる/その3>

 九月一日。最後の一か月は早朝のひんやりする空気による洗礼と、体温と同化した掛布団の温情との板挟みから始まった。視線だけで時計をのぞき見ると、いつもの起床時間よりも十分早い、六時少し前。僅かな眠気と、温もりを手放したくない未練と、冷気からの逃避本能が真鶴(まなづる)の身体をベッドに縛り付けていたが彼女は目覚まし音が鳴りだす前に身を起こして、思考を働かせることにした。

 階下の洗面台で鏡を見る。銀色の髪が左側だけ跳ね上がっている激しい寝癖を櫛で解き、ミストを浴びせて整え、顔を洗った。シトラス風味の歯磨き粉がなくなりかけているので購入しなければいけないなと歯ブラシをくわえたまま、器用にパジャマを脱いで洗濯機に入れる。次に厨房で電気ケトルでお湯を沸かし、マグカップに参画のティーバッグを用意しておく。それを待つ間にお店用のタブレットのメッセージ画面を見ながら、歯ブラシを動かした。

 予約は三件、差出人は顧客を表す石の名前が入っていた。どれもが常連顧客への予約確認メッセージに対する返信で、配達一件、訪問一件、そして月夜見で一件と綴られてある。一通り確認してから、真鶴(まなづる)は口をゆすぐために洗面台に戻ったが、タッチの差で鳴りだしたケトルのメロディが彼女を呼び戻された。

「おっはよーございまーす」
「おはよう」元気な敬礼での挨拶に真鶴は目を丸くしたが、この娘なら仕方がないことだと納得したうえでマイペースな返した。「早いのね。まだ六時よ」
 空はようやく明るさを取り戻し、月は存在を覆い隠された秋の早朝。ハーブティーを朝食代わりに終えて、正門前の掃除をしていた真鶴(まなづる)の前に姿を現した赤毛の娘はロードバイク降りて、リュックサックを下した。

「マナお姉さまこそ、お掃除ご苦労様です! 甲斐甲斐しく働く姿はまるでわたしの帰りを待っていてくれるメイドさんみたいですね。わたし色々用にメイド服とバニー服だけ持っているんですよ。良かったらマナお姉さまのお掃除用ユニフォームとして献上しますよ?」
「あなたは、いつでもあなたなのね」
「はい、もちろん、オフコースです!」
「衣装の事は気持ちだけ頂いておくわ。それよりも、どこかへ出かけるの?」

 真鶴(まなづる)はヘルメットにサングラス。蛍光イエローと白黒が重なるサイクルウェア姿を初めて至近距離で目の当たりにした珍しさで、視線を上下させていた。

「ええ、ちょっとしたお出かけです。本当ならずぅーっと月夜見でマナお姉さまに膝枕してもらってゴロゴロ飼い猫ごっこをしていたいところなんですけどね。しょうがなくお出かけの用事を済ませてきます。全力で飛ばせば夕方前には戻れるはずですから、その後で寄らせてもらってもいいですか?」
「構わないわ。でも、今日はお昼過ぎから予約が入っているの。夕方の七時なら大丈夫だと思うわ」
「へぇ予約制なんですね。しかも結構時間長いですか?」
「お客様のオーダーにもよるけど、三、四時間は一緒に過ごすわね。あなたの場合は一晩一緒にいたから最高記録よ。眠っていたけど」
「うわ、やったー! 寝てましたけどね」ジャンプして喜んで見せたり、ガクリと膝をついてがっかりして見せたり、次の瞬間には笑顔で親指を立てたり、ロードバイクのペダルにスネをぶつけたり。

 いつの間にか凍り付いた魔女の顔から笑みがこぼれていた。

「あー、マナお姉さま笑ってる! 超カワイイ! 写メ写メ、スマホスマホ……ないっ!?」
「時間は大丈夫なの?」
「はぅあ、そうでした!」漁っていたリュックポケットのファスナーを乱暴に閉じ、ロードバイクに跨りなおして、ヘルメット娘は敬礼ポーズをとる。

「ではでは、今晩七時からの予約しっかとお願いいたしまするね。お泊りコースで。ハート」
「気を付けていってらっしゃい。また夜に」
「はいな! いーってきまーす!」重そうにペダルをこぐ見送ってから、魔女は箒で集めた落ち葉を塵取りにまとめて、庭に戻った。
「不思議な娘(こ)。それと面白い娘(こ)」普段は淡々とだけこなしていた月夜見の手入れ、魔女としての拠点を維持するライフワークは楽でも苦でもない、権利であり義務でもある当然の行い。
「……なのに」今朝はなんとも、清々しさが主張する。澄んだ空がますます蒼く透き通るような予感が真鶴(まなづる)の胸を内からノックして止まない。
「本当におかしな娘(こ)ね」
 幾ばくかの時間を空を見上げながら、その下に続く路を思いやる。
 どうか、今日は雨の恵みはお休みであるようにと。

 配達と訪問の予約は出かけた際に一度で済ませるように準備をしていた甲斐あってスムーズに済ませることができた。最初は、昼休みに入ったとある高校の裏門で待っていた女子高生に手直しのために預かっていたの精霊石のブレスレットを手渡す。常連客の一人で、魔女お手製のブレスレットを大事に使い続けており、時折石の配列や種類を交換してやっていたのだ。

「魔女さん、早弁はもうしないからお店辞めないでください! もう石を調整してもらえなくなります! 困ります! 寂しいです!」泣き出しそうな顔で服の裾を掴まれる。説得も弁解もせず、ただ頭を撫でてやると気分が落ち着いたようで、女子高生は手を離した。
 多めに作ってきた焼き菓子の小袋をおまけで渡して、真鶴(まなづる)は女子高生への配達を終えた。

 市内循環バスを降り商店街を抜けると青と白の建物を目指す。インターホンで訪問の用向きを伝え、通用口から入り依頼人のいる三階の部屋まで階段で向った。室内には白衣の女性がパソコンに向かい、三歳くらいの子どもがひとり車のおもちゃで遊んでいた。彼女も常連客だったが子どもが生まれて忙しく、仕事も順調なことから魔女が会社に出向く提案をして以来、訪問を行っていた。

 女性の手が止まるまでの間に真鶴(まなづる)も自分の作業に入る。
 壁の額縁に飾ってある精霊石のオブジェの浄化を行う。五種類のハーブ水で精霊石をひとつひとつ湿らせてきれいな布で拭った後に天然石のクラスターの上に乗せていく。オブジェを構成する精霊石は四十近くあり、どれもが小さい。石によって使うハーブ水を変えながら丁寧に根気よく続けていく。

 一時間ほどで全部の石をクラスターに並べ終え、最後に硝子の封蓋(クロッシュ)を被せる。ちょうど女性の方も一区切りついたようなので、トランクからティーセットを出して魔女のお茶会が始まる。

 女性は娘を抱き上げて頬摺りしながら、封蓋(クロッシュ)越しの精霊石と一緒にスマホで画像に収めた。それをスマホの待ち受け画面に設定していると運気が上がるのだと嬉しそうに話して、魔女の淹れているハーブティーの香りを楽しんでいた。

 チョコレートブラウニーをお茶請けにし、ペパーミント主体のブレンドティーをトレイに乗せて女性に渡した。女性はお茶の香りを満喫しつつ、お菓子を小さく切って子どもの口に入れてやる。いつも通り多めに焼いてきたお茶請け菓子は女性の部下たちのおやつになるので、室内の冷蔵庫に入れておいた。

「いつもありがとね。お店のほうも落ち着けるから好きなんだけどさ、なんか性分っていうの? 仕事しながらもてなしてもらいたい的な?」鮮やかなバンダナで髪をかき上げてころころと笑う様に魔女も微笑み返す。

 封蓋(クロッシュ)をして一時間は経過していたので、魔女は石をオブジェに戻していく。中学校のブレスレットのように定型はなく、感性と感覚による即興的な一点もの。浄化前は三日月じみた形状で、今度は鳥が羽を広げたような形に落ち着く。

「これもいい感じ!」女性はチョコレートを口紅代わりにする娘を抱き上げオブジェの前でシャッターを切った。
「ねえ、また占ってもらってもいいかな?」ティーセットを片付けながら魔女は頷いた。
 差し出された写真に映るのは小学生くらいの依頼人と、彼女に肩を組まれている友人。何度もこの友人の居場所についての占いを終えて、魔女は依頼人のもとを後にした。
「ほんとにさ、会社の若い子たち連れて行くからね! 今月で最後なんでしょ? 絶対に行くからね!」忙しいはずの依頼人に大手を振って見送くる姿に一礼し、魔女はバス停に爪先を向けた。

 シトラス風味の歯磨き粉を購入し、新しいコーヒー豆を買う為に入った行きつけの喫茶店で昼食を済ませた。元和食料理人の店主自慢のオムライスは絶品で真鶴(まなづる)のお気に入り。自家製のデミグラスソースを混ぜたチキンライスを半熟のふわとろ卵が包み、ホワイトソースで装飾された逸品。付け合わせには半分に切って炙ったパプリカを器として、色とりどりの日替わり温菜が添えられているのも人気のひとつ。昼食時間の混雑を逸した静かな店内のカウンター席に腰かけ、店主の男性の「いつものでいいかい?」との問いかけに頷いて応じ、トランクを足下に置いた。

 木製のコースターと一緒に出された冷水を一口呷り、息をつく。荷物は最低限しかないのに、陽気のせいか持ち歩くとじんわりと汗ばむのは九月に入っても変わらない。天然木を組み合わせ、木目を活かしたナチュラルな店内を冷房の微風が撫でるように冷やされているのが心地よくて、もう一度グラスを呷る。

 耳を澄ませばちょうど聞こえるように音量調整されたスピーカーは密やかにジャズを歌う。もとより漂う深煎りコーヒーの芳香はバターと玉ねぎを炒める匂いに上書きされ、胃を触発し、唾液を誘発させる。

「はいお嬢さん。お待たせしました」カウンター越しの店主はオムライスと付け合わせを真鶴(まなづる)の前に置いてから「サービスだよ」とスープカップを隣に添えて、持ち帰り用のコーヒー豆を煎る準備を始めていた。

「頂きます」小さくつぶやいてスプーンを卵に突き入れ、口に運ぶ。半熟卵はとろけて濃厚なチキンライスに絡みながらマイルドな味を演出してとけていくようだと噛みしめ、味わい食べ進める。最初は卵とご飯、次にホワイトソースを絡めて、または敢えてふわとろ卵を除外してソースとご飯だけで、最後に三種を混ぜてスプーンですくい上げる。

 得物をフォークに持ち替えて付け合わせに向かう。イエローパプリカの炙り器にブロッコリー、カリフラワー、薄切りの玉ねぎ、それにエビがマリネされて盛られている。いつもこの店のマリネの味を月夜見でも再現できないかと舌と頭をフル回転させるが未だに至ってはいない。

 そして木製のスープスプーンをミネストローネに浸けて野菜と烏賊(いか)をすくい上げる。マリネの酸味が抑えられていた分、スープはトマトを丸ごと潰したのではないかと思うほどに濃く仕上がっている。スパイスで辛みを内包しているのでシーフードとの相性もいい。

 一通り味を確かめて頭の隅にレシピを認(したた)めたので、残りは美味しい食事として空腹を満たしていった。

「ほいコーヒー」真鶴(まなづる)が食べ終えた食器と交換に、店主はサイフォンから抽出したばかりのコーヒーを差し出した。そして隣に紙袋に入った持ち帰り用のコーヒー豆をそっと置く。
「ありがとう」
「こちらこそ。お嬢さんは常連様だからね、贔屓するに越したことはないよ」拘っていないような口ぶりで店主は食器を洗い出す。彼なりの冗談だというのは周知の事実なのだろうと、真鶴(まなづる)も気には留めなかった。
「お嬢さんも、確かお店を持ってるんだったね?」
「はい。小さな店ですが」
「カフェだったっけ? 雑貨屋とか聞いたような気もしたかな?」
「パンは毎日焼いています。お料理もお菓子も作ります。主にお客さまへは自家栽培のハーブティーを。紅茶や、こちらで煎って頂いたコーヒーをお出しすることも」
「手広いね。僕は道楽でやってるからいいんだけど、ひとりじゃ大変だろう?」
「いいえ。もう慣れましたから」
「慣れは大事だけど、慣れでしかないよ。できるようになっただけのことだ。成れないことに慣れたから大変じゃない、というのはただの錯覚。結びつかないものだよ」
「……そうでしょうね」
「いやはや、口が過ぎてしまったね。すまない。コーヒーは僕のおごりだ」
「大丈夫です。スープもご馳走になりましたし、来づらくなります」

「いまどき、正直で真面目なお嬢さんだ」店主は笑いながらカップにコーヒーを注ぎ、店のテーブルに配り始めた。居合わせた幸運に喜ぶ者、「商売にならないよ?」と軽口を叩く者、先に飲んだ一杯目を悔やむ者、ブラックは苦手だとミルクと砂糖を欲する者、カップをふたつ置かれて困惑する者、注がれたコーヒーの量がカップの半分にも足りなくてがっかりする者。皆、一様に店主が生み出す空気に呑まれて、笑い、楽しみ、喜んでいた。

 最後の予約まではまだ二時間はある。帰路の時間を考慮してもあと三十分は寛いでいられると彼女は、魔女であることを頭の片隅に追いやることにした。

「しばらくね、この街から離れることになったんだ」本日最後に予約したベレー帽の常連客は別れの挨拶をするために月夜見(つきよみ)に寄ってくれたと告げ、おそらく今後会えることはないと口にした。時間を予め確保しておいてあったはずが、仕事の都合で急遽発たねばならなくなったと女性は暗い顔で微笑んで見せた。

「最後にゆっくり話したかったけど、たぶんもう無理かな」
「もう会うことがない、とは早計ですよ」真鶴(まなづる)はほとんど同年代の女性に言い聞かせるように優しい言葉を選んで慰める。
「そだね。どこかの喫茶店とかでばったりってこともあるだろうし。ホテルとか温泉とかで見かけるかもしれない。そうしたら以前(まえ)みたいにヤッホーって声かけるね。約束」女性が差し出した小指に、魔女も小指を絡めた。
「なんかアレだね。魔女さんが指切りって可笑しいかも」
「そんなことないですよ。これは簡易的な契約の儀式です。お互いに見かけたら必ず声を掛けましょうね」
「うん、絶対!」

 女性の後ろ姿が見えなくなるまで見送っても、真鶴(まなづる)は月夜見の正門前を動こうとはせずに、誰もいなくなった路地の方向を見やって、立ち尽くしていた。
 別れることは寂しいことなのだと感情がざわめき始めていたのだ。
 二度と会えなくなるわけではない。さっきの女性と約束したように、偶然街中で、喫茶店や美術館や公園やコンビニで出くわすこともある。確率はそう高くないが永遠の別れではない。

「そんなふうに考えてしまうわたしは、きっと冷たい女なのね」
 日が暮れいく様を見ていた。午後の陽が夕焼けに移り変わる姿を。汗ばむ陽気が徐々に失せて、風の冷たさに気が付く。
 別れに対して感情の起伏が生じない自分と、どちらが<冷たいのだろうか?
 言葉ならぬ問いかけに返答はない。
 しかし、燃えるような琥珀色の夕日を眺めていると、大きなリュックを背に自転車で走り出した、出会って間もない赤毛の娘を思い出していた。

「ルーフバルコニーに干したままの洗濯物を取り入れないと」
 頭はいつもの反復作業(ルーティンワーク)を想起させたが、魔女は路の先を見据えたまま瞬きすら堪えている。
 彼女が立っている路は、彼女が大切に思うもの達に繋がっている。
 皆の顔を思い浮かべながら魔女はただ夕陽を浴びていたかったのだ。

「しぃ、しっれ。まぁ、まにゃづる、しゃまで、ま、ちが、ありま、んね?」

 つっかえつっかえかけられた声に振り返ると、年若い娘が険しい表情を顔に張り付けたまま直立不動の姿勢をとっていた。キャリーバッグを地面に立てかけ、被っていたキャスケットをくしゃりと握りこんでしまっている。近所の中学生が声をかけてくれたのかと思いあぐねるが、魔女の聖名を知る者は限られている。セーラー服を着た黒髪の娘に見覚えはないが、どうやらお客さまでも一般人でもなさそうだと判断し、真鶴(まなづる)は少女に正対してから言葉をかけた。

「ええ。わたしは真鶴(まなづる)。失礼だけどあなたに覚えがないわ。どこかで会ったかしら?」

 セーラー服娘はぶんぶんと首を振ると「おめぇに、か、るのは、はじぃ、です!」両手を太ももに付けた直立不動の「気を付け」状態から警官か軍隊のような敬礼とともに固い口調を聞かせてくれる。

 緊張気味の直立姿勢をとり続けるセーラー服娘に覚えがないことを再認識した真鶴(まなづる)は、「気になるの」と娘の胸元に手を伸ばす。

「リボンの形が乱れてる。じっとしていてね。それに大事な帽子も型崩れするわ」
「…………っ!?」

 リボンを整え、手も握られ、キャスケットを被せられた瞬間にセーラー服娘は微弱に震えだし、なにかを堪えるように顔を真っ赤にした。魔女はセーラー服娘の無意識の圧迫感に気付かない素振りで「いいわ。できた」と、ついでに肩口についた糸くずやスカートの端の汚れを払ってやる。

 セーラー服娘の膝が目に見えて笑いだす。娘自身はすぐにでも怒るか泣くかしそうな状態に仕上がっていた。

「…………」
「あなた、わたしのこと怒っているの?」
「あっ、ちが……です!」
 消え入る声をなんとか拾い上げる。「失礼。真鶴(まなづる)さまで間違いありませんね?」「お目にかかるのは初めてです」「違いますです」と発音したことで真鶴(まなづる)は安堵するが、少女の態度の奇妙なのが納得できない。なにに緊張しているのか? もしかすると言葉を話せないのか? 病気なのか? トイレでも我慢しているのかとあれこれ黙考しながら様子を窺う。
 質問には首を振ったりして応じてくれるが、どうも言葉がでないようだ。

「今日は豆を買ってきたばかりなの。よかったらコーヒーを淹れましょうか? 飲める?」
「……っ!!」
 大きく首を前後させて真鶴(まなづる)はセーラー服娘を月夜見に迎え入れた。

<つぐみ/その1>

 接客用ホールは八畳ほどの大きさがある。天井も壁も床も欧州の樹林から切り出した木材で拵えてある。広めの一人席五つと、道具を並べる木棚(シェルフ)。

 頭上のランプ型の電灯が白熱色を放つことで木造の温もり際立たせる。梁、窓枠、各テーブルに椅子、木棚(シェルフ)とそこに飾られた道具、電灯に至るまで、目につく箇所には埃ひとつなく、土足で上がるホール内の床も土くれも砂利も落ちていなかった。

(精霊が、すごく喜んでる!?)

 セーラー服娘は勧められた真ん中の席にポツリと座り、スマホで通話しながら奥へ向かった真鶴(まなづる)を見送って、店中の不可視の煌めきの軌跡を目で追っていた。

 都会から離れた内海の島で生まれ育ち、物心ついてからは「煌めき」が視えることが当たり前だった。皆も当然、視えていると思っていたのに、違っていた。視ることができる者は特別なのだと。なけなしのお小遣いと実家の手伝いで得たアルバイト代で、それらしい本を買い漁り独学で猛勉強した。「煌めき」が精霊と呼ばれる現象だと知り、彼らの姿形や住まいを求めて走り回っていた。

 父親の再婚相手は最初から気に入らなかったが、中学生にもなってファザコンだと思われたくないので反対はせず、ますます神秘の世界に没入していく。友達も要らないし、母親も不要だった。彼女には本来ありえない、天賦の才が備わっていたのだから。

 高校生に進級してすぐに、父親の再婚相手の正体が、神秘に携わる者だと知り、世界が暗くなった。あんな、あっけらかんとしたドジの申し子のような女が、会いたくて焦がれた魔女の正体だったなんて……と失望し、父親の再婚相手との溝がさらに深まる。

 しかし、本物の魔女だけあって、蓄えた蔵書や魔道具、研究ノート、独自のレシピは彼女にとっての宝の山だった。父親の再婚相手がるすの間を狙って部屋に忍び込み、スマホの機能でデータ化したものを何日も徹夜で眺めていた。

 魔力(マナ)の初歩的な使い方を学び、独自に術技を編み、実験を繰り返す。何も起こらないことが多く、失敗することも少なくない。

 でも彼女は楽しかった。クラスの友人や、学校の先生、ご近所さん、実の父親、父親の再婚相手の魔女。人間と接するよりも、神秘と接する方が彼女には向いていたのだ。

 以来、人前では緊張で言葉がでなくなり、赤面し、体が震えるようになった。
 高校を卒業してから三年。友達は内海の島を出て都会で働いていると聞く。島の知り合いは結婚したり、お店を開いたり、子どもを生んだり、新しい産業興しに加わったり、島を出て都会で大恋愛の末に子供連れで帰って来てたり。

 彼女は惰性で実家の手伝いを続け、それ以外の時間を独りぼっちのまま神秘の探求に割いていた。
 忍び込みなれた実家にある魔女の部屋で、あるものを見つけた。
 魔女の弟子の記録を綴った日誌。
 なにもかもが独学で進めていても、父親の再婚相手だけには教わらないと彼女は決めていた。
 でも、魔女の教えには興味があり、中身を覗いた。

 彼女は、都会で店を営んでいる「魔女の弟子だった、魔女」のことを知った。
 挟んであった当時の写真に写る、銀色の髪の魔女を知った。
 真鶴(まなづる)という聖名と、店のある場所も知った。
 
 そして彼女は、銀髪の魔女にようやく会うことができたのだ。

「師匠、お尋ねしたいことがあります。お嬢さんのことです」 
『あー、やっぱりマナちゃんの所に行っちゃってたか~。ゴメン!』
「なんで謝るんですか?」
『継母(ままはは)として!』

 師の潔すぎる発言に、当時の浮かれた師の様子を思い出した。それから徐々に元気がなくなり、いつの間にか連れ子のことを話さなくなったことにも真鶴(まなづる)は得心してしまう。

「仲が良くないんですか?」
『ううん、そんなことない。仲が良くないんじゃなくて、相性が良くないの。天然水と重油くらい険悪なんじゃないかな』スピーカーの向こうから深刻なため息が漏れだす。

『もう出会った時からずっと戦争状態。口は聞いてくれないし、お料理は残すし、こわい目で睨むし、あたしの悪口を日記に書いてわざわざ見れるところに置いておくし、すっごい陰険なんだからっ!』

 師が誰かを悪く言うのを初めて聞いた。その様子は友達とケンカした幼子水準だったことに真鶴(まなづる)は苦笑いで応じていた。
 そして母親と折の悪いという師の義理の娘に、少しだけ自分を重ねて学生時分を反芻していた。

 何度か「ええ」「そうですね」「そうなんですか」「わかりますよ」と師を慰めたあとにセーラー服娘のことをやんわりと尋ねる。

「では師匠はあの娘(こ)に魔道を教えたことは一切ないんですね?」
『あたりまえよー! ぞっとする!』
「そうですか」
 今度は真鶴(まなづる)がため息を漏らした。
『……魔力(マナ)の質とか量とかはすごい、と思うの。戦争中もこそこそっとあたしの部屋に入ってたみたいだし、文献とかレポートとか読んでいたっぽいし』
「師匠、そういう重要な蔵書はちゃんと封印して隠匿しないとダメだって言いましたよね? 月夜見で一緒の時ならともかく、魔道に携わらない人と暮らすんですよ。魔女だってことが知られたら、もしも旦那さんとかに見られでもしたら」
『ああーん! ごめんなさい、ごめんなさい、許してください! 離婚は勘弁してください! バツはひとつだけで充分なんです!』

 騒がしくなった師は少し放置しておくことにする。
「連れ子か……」真鶴(まなづる)の師匠。
 師の再婚相手の男性。
 再婚相手の男性の連れ子。
 魔力(マナ)を感じることがやっとの真鶴(まなづる)でさえ圧迫感を覚える、セーラー服の娘。
 師の術技には、ほとんど媒体が用いられない。自身の魔力(マナ)と周囲の精霊力(エレメンティス)を秘文字として定着させる形式の術技で、蔵書や記録日誌は最終的に秘文字で封印されていたことを真鶴(まなづる)はよく知っていた。
 秘文字や秘語は独自の解釈による魔力(マナ)の転用法の基礎。他人が理解できる類のものではなく、本人しかわからない崩し字を更に暗号化したようなものだ。
 状況的に師の部屋の蔵書を視て、勝手に学んだという。
 なんの素養もない娘が、師の保有蔵書を読んだ。それだけで驚くべき出来事だ。

「まさか、封印と隠匿が、解かれちゃったんですか? あの娘(こ)に?」
『うわーん、それだけは言わないでー! なんでもするからー!』

 師の嘆きは肯定だと断じて、真鶴(まなづる)は店内をキョロキョロ見回すセーラー服娘に目をやった。
 初めは月夜見が珍しくて見渡していると思っていたけど、あの娘(こ)が視ているのは精霊かもしれない。

「ならあの娘(こ)は本物の天才みたいですね」

『ごめんね、マナちゃんに迷惑かけてばっかりで。明日すぐに引き取りに行くから、今晩だけ泊めてあげてくれるかな?』師のお願いに了承の意を返して、真鶴(まなづる)は通話を切り、沸騰を主張して止まないケトルを手に取り、ティーポットに湯を注いだ。

 喫茶店で店主が煎ってくれた豆を電動ミルで挽いていく。ガリガリと手応えを感じながらゆっくり挽いていくことは苦ではないので手動ミルも棚の奥にあるが、しばらく使っていないことに思い至る。

 結局、師に詳しい話を聞くことはなかった。
 師の家庭事情に面食らったこともある。娘が秘めている素質に驚いたことも事実。
 たった一人で、家出同然に訪れた見知らぬ街で、見ず知らずの他人を尋ねるというのは、

「簡単なわけないわよね」

 母娘の関係は、真鶴(まなづる)にも覚えはある。
 家出同然に師のもとに、月夜見に転がり込んだのも、ちょうど高校を卒業した頃で、あの娘と変わらない。

 そして、きっと、あの娘(こ)は魔女になりたいんだ。

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