魔法人形は、異世界で少女の夢を視る。/三
【人形と令嬢】
「……っ!」
怖い夢を見て少女は目が覚めた。
胸を撫でおろしながら、呼吸を整える。全身は汗まみれで雨の中を駆け回ったような有様だった。
「はぁはぁ、、、」
怖い夢の内容を思い出せないことは彼女にとっては幸運だ。
大きな声で叫んででもしまえば、隣の部屋で番をしてくれている侍女の誰かを、計らずも呼んでしまうことになる。
領主の一人娘。エリュシオン家の令嬢、マルガリーテス・エリュシオン。
少女の身を案じて色々な人間が骨を折ってくれている。
大事にしてくれている。
貴族という身分の生まれが、その事実を当然のものと裏付けている。
生まれ持った病弱な体はマルガリーテスの責任ではないし、両親が悪いわけでもない。
ようやく落ち着きを取り戻した胸の奥を恨めしく睨みながら、少女はそっとベッドを下りた。
「暑い」
窓を大きく開け放つと、風がやわらかく吹き込んでカーテンを弄んだ。
陽が登る時間が早い所為で、日の出を見る機会は少なくなった。
屋敷の二階角部屋にあるマリーの部屋には窓が四つある。
ベッド際の窓からは庭園を一望できるようになっている。
庭師のゴードンは毎日朝早くから庭木の手入れに余念がない。
侍女のルリが手伝うふりをして何事か談笑していてる。
執事のセバスチャンがそれを見つけて注意する。
そして眺める令嬢に気が付いた三人の使用人たちの礼に手を振って応じた。
(体が元気なら、ルリのように窓から身を乗り出して大声でご挨拶もできるのに)
そんなことをすれば、屋敷中の皆からのお小言箴言注意は免れないだろうと少女は叱られる空想の中で静かに笑っていた。
「わたしの羽は生まれた時からもうボロボロ。きっと羽ばたくことなんて―――」
窓を閉めて、少女は机を前にため息を漏らした。
「……?」
マリーは目を丸くする。
夕べ眠りに入る前にはなかった何かが机上にあった。
見る限り、侍女のメイが持っているハンカチに包まれている。
躊躇はするも、少女は包みを解いた。
「っ!?」
ハンカチから顔を出す見たこともない人形。
白い簡素なワンピースを纏っただけの人形が姿を露わにしたのだ。
その精巧さに驚愕した。
大きさは羽ペンほどなのに、細く締まった体型を有している。大人の女性と発達途中の少女の良いところだけを織り交ぜたような造形美。
慎重に触れてみる。硬いのに丸みを帯びた素材。木でも石でも陶器でもない。
人間を模した少し白い肌の色をして、関節部には丸いものが付いているおかげで自在に動いた。
人間の形に沿いながら人間以上の可動部分は、手首や指にまで及んでいる。
「とても綺麗」
息を飲んだ。
サラサラの髪質。ヴァイオラ花草(かそう)の花色で髪を染めている人形など聞いたこともなければ目にするのも初めてだった。
萎縮を覚える高貴な色を、淡く優しく温かみのある色彩に転じてある。
唇もどこか艶やかで、潤いさえみてとれる。
少女が一番最初に心を奪われたのが、人形の瞳だった。
紫水晶をどのように加工すれば造れるのか窺い知れない。
単体で光を宿して、震えるように少女の瞳を覗き返すしてくる。
「はぁ……」
ため息が漏れた。
発作とは違う息の乱れ。発熱と発汗。
胸の中身を縛られたような息苦しさを覚えつつも、ずっと見ていたい欲求を抑制できずにいた。
「あなたは、、、誰?」
人差し指を使って、人形の頬を撫でる。
「お嬢様。マルガリーテスお嬢様。失礼いたします」
「ふぁ! メメメイ、少しだけ、ままま待ってくださいいっ……ふにゃ!」
ごん。と鳴った音に踏み入った侍女のメイが目にしたのは、突然転んで椅子に額をぶつけて蹲る令嬢の姿だった。
※
「お嬢様、大丈夫ですか?」
「いたい」
「そうでしょうとも」
濡れた手拭いで椅子に打ち付けた額部分を冷やしながら、大事がなかったことにメイは安堵の息を漏らした。
「呆れたの?」
「心配したんです。また胸の発作が起こったのかと思いましたので」
「メイ。お母様には言わないでね。心配させてしまうから」
「……たん瘤(こぶ)や痣にならなければ考えてみます。痕ができたら諦めて下さい」
「ふぁい」
ベッドに寝かせなおして、こまめに手拭いを濡らしなおすと少女は気持ちよさそうにしていた。
侍女はちらりと机上の人形に目をやった。
ベッドの少女からは見えない位置のために、人形は僅かに首を振った。
「お嬢様。何をなさっていたんですか?」
「な、なにも、していないわ」問いかけに少女は硬直してしまう。
「なにもないのに転ぶのは変だとお思いにはなりませんか?」
「うー」
こそこそとシーツに潜り込もうとする少女を見て、メイは可笑しくなった。
「そのお人形は森の魔女様のものですよ。大変貴重で見目麗しかったもので、お嬢様にも見て頂きたく一時的にお借りして参りました」
「そうだったの?」
好奇の声音と共に潜り込みが中断される。
「もしかしてお人形さんとお話しされていたのですか? ユリーシャ様のように」
カタン。
机上の人形が動いたことにメイの心臓の鼓動が跳ね上がる。
当初の予定では、折を見て人形がマリーに話しかけることになっていた。
突然に動き出したりしては恐怖感もあるだろうと、人形自身が断言したことを侍女が汲んだのだ。
そして先ほど人形はメイにだけわかるように首を振って合図していた。
つまりはまだ正体が露見していない証。
侍女は少し踏み込んでマリー自身の気持ちを探ろうとしたのだが、
「……ううん」少女は顔を曇らせた。
「メイ。魔女様のお人形さんを棚に飾っておいて」
それだけ言い残して、少女は目を閉じてしまった。
「わかりました。そのように致します」
選択をしくじったことを悔いながら、メイは変わらぬ表情で令嬢の着替えを手伝った。
「おでこは大丈夫そうですね。汗をおかきなので、このまま体も拭いて差し上げましょう」
「ありがとう」
※
会話らしい会話は途切れて、機械的に清拭と着替えを終えた令嬢と侍女は朝食のために部屋を後にした。
人形が居並ぶ棚の一角に残された彼女だけが、令嬢の顔と言葉を幾度も再生する。
『よくわからないな』
以前からの癖で彼女は人形の体であっても器用に脚を組んで、頬杖をついた。
『あっ』球体関節が有用であろうともバランスを保つ筋肉がない。彼女は左側にコロンと倒れて、奇しくも隣の人形の脚部に頭を預ける体勢で安定したのだ。
全身は布地で、中に綿を詰めた女の子のぬいぐるみ。その膝枕に彼女は甘えることにした。
『ねえ。あのマリーお嬢様のこと。あの子は昔から体が弱かったの?』
ぬいぐるみは答える事はできない。
『―――だよね。わかってはいるんだけどさ』
組んだ脚を解いて、ぬいぐるみの顔を見上げながら手を取った。
『あなたたちは皆、マリーお嬢様のこと好き? 好きだよね。ごめん。馬鹿なこと聞いた』
膝枕の堪能を後回しにして、彼女は一メートル近い飾り棚を飛び降りた。
体の弱い、病気がちなお嬢様。
外に出ることもできずに、友達をつくることも難しい。
人形たちだけが令嬢の友人であり、世界のすべてだ。
大事にしていたビスクドールが壊れた。
破損部分の交換を頑なに拒否する。
(あの子は、魔女が言うような我儘娘なんかじゃない―――)
人形はベッド脇にある机に近づき、椅子の上へ上がった。
天板下の引き出しを力いっぱいに開く。
(あの子は諦めかけているんだ!)
引き出しの中には針小道具。物差しや布の切れ端が多数、丁寧に仕分けられていた。
『ごめんね。マリーお嬢様』罪悪感を緩和させようと呟き、人形は上質な布きれをかき分ける。
探しているのは、件の壊れた人形だ。
ビスクドールというからには、こんな薄い引き出しに入っているとも思えないが、彼女の力は知れている。
書物の一冊は運べても箪笥を引き出せるほどの力はない。
さっきまで居並んでいた人形たちの飾り棚にも、足の壊れたビスクドールは居なかったのだ。
絶対にどこかにいるとの確信に突き動かされながら、彼女は体を酷使した。
そして布の下にある薄手の記録帳(ノート)を見つけ出した。
少しの時間を躊躇いに充ててから、彼女は記録帳(ノート)を開いた。
表題は書かれていない。
たとえ書いてあっても、彼女には読めない。
個人情報は秘匿されるはずだと信じて、頁をめくった。
『やっぱり。マリーはそういう子だよね!』
頁をめくる度に、人形たちが描かれている。名前や性格、好きな食べ物。仲の良い人形。そして似合う衣類のラフスケッチ。
ドレスはまだデザインされただけのようだが、部屋の人形たちが身に着けている小物は記録帳(ノート)にデザインされたものであった。
彼女は令嬢の眼差しを反芻する。
見開かれた蒼玉(サファイア)が覗き込んでいて、彼女はただ見入っていた。魅入られていた。
亜麻色の髪は陽光でハニーブロンドに成り替わっていた。白磁の肌。若木のような指先。
背中に翼でも生えていれば天使と呼ばれても遜色はない。
令嬢の少女。マルガリーテスはそれほどに美しく在ったのだ。
彼女が話すために打ってつけの機会を逸するほどに、輝いていた。
そんな令嬢が生きること対して、諦めにも似た感情を抱いている。
(だったら、私は何をすればいい?)
淡々と頁をめくりながら、令嬢の気持ちを追体験する。
想いを形にするための記録帳(ノート)。
半ば以降はひとりの人形だけが描かれる。まだ見ていない人形。
名前はユリーシャと大きくあった。
『これがマリーお嬢様の心の風景なんだね』
記録帳(ノート)が書かれた最後の頁はビスクドールのユリーシャが、まるで人間のようにドレスを着こなして笑顔を向けている。
その上をインクの線が乱雑に塗り潰されていた絵。ところどころ突き刺したような穴や、破れ。くしゃくしゃにされて、頁自体が千切り取られていて、そこで終わっていた。
『私も覚えがあるな。でも。ぐちゃぐちゃにしても捨てられないんだよね』
記録帳(ノート)を静かに閉じて元の場所へ戻そうと布地の下に差し込んでいく。
なにかが記録帳(ノート)と引き出しの端に挟まれる感触が伝わる。
鮮やかな布地を数枚めくり、小さな体を潜り込ませて手に取ったのは、古めかしく錆びついた―――。
『カギ』
材質は真鍮のようなくすんだ金色。
人間の大きさにすれば鍵だが、人形が持てば斧にも等しい。
記録帳(ノート)の下に、
(落ちていたのか。隠してあったのか)
彼女は鍵と記録帳(ノート)を元に戻してから机から離れて、飾り棚の前で横たわる。
その際に偶然目に入る。
机の下に隠された箱のようなものに。
部屋の扉が開いて、気配が近づいてくる。
棚から落下した人形は元の位置に戻されたので、彼女は意識に蓋をしてやり過ごすことにした。
※
「大丈夫!?」マルガリーテスは慌てて駆け寄った。
「怪我はしてない?」
人形を大事に拾い上げてから、人形の全身を見て破損がないかどうかを入念に確かめてから大きく安堵の息をついた。
マリーは魔女から借りたという人形と飾り棚にある人形を意図せずも見比べてしまう。
やはり小さい。部屋にあるどの人形よりも小さいにも関わらず、頭身のバランスがとれている。
体幹や腕、脚に柔らかく掴む。未知の素材が肌の色を再現し強度を持ち合わせている。
人形自体が軽いので硬さも気にならない。
サラサラ肌の触り心地は陶器や木製では実現困難ではないかとさえ思える。
壊れないようにそっと可動させてみた。球体関節が優秀なおかげで色々なポーズをつけたままで固定することもできるようだ。
「本当にすごい」
意識せぬままにマリーは指で人形の掌を撫でながら、吸い込まれるように視線を交錯させていた。
空が夕焼けから黒に変わる瞬間に訪れる、刹那の紫色。蒼くて黒い紫色の世界には星々が煌めき始める幻想の空。
人形の瞳はマリーの大好きな空が閉じ込めてあった。
見るほどに魅入られる紫水晶の瞳。
そして背中にまで届く、長い髪。
淡いヴァイオラ花草(かそう)の色はマリーが知る色彩ではなかった。
ヴァイオラ花草(かそう)は紫色の花びらを咲かせる野草のひとつ。
どこにでも根を張ることができる植物だが、育つ土壌によってその色味を強弱させる性質がある。
エリュシオン家の庭園にも庭師の青年が育てたヴァイオラ花草(かそう)が清楚に居並んでいた。色味は少し濃い紫色だ。
エリュシオン家が治める一体の土壌の性質がヴァイオラ花草(かそう)を高貴で近寄りがたい色にしているのだ。
王都の花屋には薄い紫のヴァイオラ花草(かそう)が売られているとも聞く。
それらをしても人形の髪には及ばないと感じるほどに、マリーは惹きつけられていた。
髪に触れたくて人差し指を伸ばすが、マリーは思いとどまって人形を棚の元の位置に戻した。
※
意識に蓋をすることで、彼女は体の自由を失うことができる。
意識の蓋を外すことで、彼女は体を自由に動かすことができる。
これは彼女が学んだエネルギーの節約方法で、人間での「横になる」ことに相当する。
守護者たる森の魔女曰く。
魔法人形の動力源は大気中に溶け出した魔力(マナ)である。
魔法人形に限らず、生物としての自己保持機能を持たずに意思を体現できる生命体は魔力(マナ)を体内のどこかに取り込んで動作に変換する。
魔力(マナ)の吸気が排出を下回れば、活動ができなくなる。
それを防ぐために、意識の蓋を閉じることが重要になる。
これは仮眠に近いが眠るわけではない。
意識的に目を閉じて動かないことで情報を遮断し消耗を抑える。
眠らずとも、体を横たえ何もしなければ体力消耗はないし、僅かな回復も望める。
彼女は意図的に意識の蓋を開閉して、消耗の抑制と咄嗟に反応することを防いでいた。
さらに意識の蓋にはもうひとつ利点がある。
干渉はできないが視界に映されたもの、その場の音や匂いなどの情報を体感したかのように覚えておくことができる。
人間がただ横になって休んでいても、耳に入る会話や音声、熱気冷感を知ることができることに等しい。
魔法人形に瞬きをする機構が備わっていれば視ることは適わなかっただろう。
一旦意識を戻した彼女は、令嬢と机周辺に視線を固定してから意識の蓋を閉じた。
(録画開始!)
少女はベッドに腰掛けて厚い本を読んでいた。
体勢はちょうど飾り棚と向い合せになっている。
頁をめくる動作は緩慢だった。
集中力を欠いていて、どこか機械的。
ちらり、ちらりと人形の方に視線を送ってくる。
見られているのが彼女である確証はないが、
(気になってるのね)
ペラペラとめくっていた本をベッドに置いたまま、少女は飾り棚の隣にある書架から厚い本を抜き出してからベッドまで戻った。
その際にも視線は合わせることを忘れない。
ベッドに戻ると、また読んでいるのかわからない読書動作とチラ見が始った。
都合三回ほど繰り返した少女は疲れたように項垂れてから、厚い本を元に戻す。
そして今度はベッドの転がった。
枕の方に足を向けて転がったのは距離が少しでも近くなるようにであろう。
棚に飾った人形やぬいぐるみの名前を呼ぶが、目線は新参人形をじっと見つめている。
(マリーお嬢。いちいち可愛いな)
ドアがノックの後に開かれる。
侍女のメイが一礼してから入室する。
侍女が小脇に抱えた本を見るなり少女は顔を曇らせた。
渋々といった仕草で着席させられる。
草木紙(そうぼくし)とインク、羽ペンを用意される。
侍女は家庭教師も兼ねているようだった。
格好から入るのが好きなのか、侍女は眼鏡をかけて教鞭を手にしている。
文学・外国語・歴史・算術・風土・民俗などなど。
少女は窮屈にしながらも卒なくこなしているようだった。
数を時間経過し、侍女は小休止のお茶を入れるために一度退室した。
「ふにゃ~」少女は今度こそベッドにうつ伏せで倒れこむ。
「ダンス。苦手だな、、、」
ころころと広いベッドを転がる。
「ダンスなんか覚えたって、わたしには意味ないのに」
枕をぎゅっと抱きしめて、少女は顔を埋めた。
部屋の中央の丸いテーブルに席を移して、メイはティーポットから紅茶をカップへと注いだ。
お茶請は焼き立てのパウンドケーキ。具材にはフルーツも入っている。
紅茶を一口すすっては、少女はフォークで切ったケーキを口に運んだ。
「ねえメイ。わたし、ダンスはもうやりたくない」
「マリー様」
「激しい運動はできない。ぶつかった弾みでも発作が起きるかもしれない。お友達と遊んでいても、いつ苦しくなるかわからない。
体の弱いわたしが誰かと踊るなんて、できるわけないじゃない」
あの事故が過ぎてからマリーの様子の変化は顕著になっていく。
大人しくて優しくて、綺麗なものを素直に綺麗だと憚ることなく口にできる。
純粋な感性に恵まれた少女が背負わされたものは大きかった。
押しつぶされていたものが感情として発露し、鬱屈した負の思い覆いかぶさっていた。
「お嬢様。激しく踊るだけがダンスではありません。お互いを気遣い、息を合わせる即興の共同芸術です」
「わたしと踊って下さる人なんていないわ」
「そんなことはありません!」
いつになく語気を強めた侍女は、驚かせたことに謝意を示す。
「お嬢様。どうかご自身を卑下なさることはお止め下さい。マルガリーテス様はエリュシオン家のご令嬢なのです」
「長子であっても男子ではないから家督を継ぐことはできないわ。縁談にしても病の身では貰い手もない」
少女の手から落ちたパウンドケーキが紅茶の紅に蝕まれた。
「わたしは死の世界に魅入られている。緩やかに命が尽きるのを待つだけの虜囚なの。みんなに迷惑をかけてばかりで、誰かの役に立つこともできない」
メイは唇を強く噛みしめて耐えた。
溢れそうになる自らのエゴを抑え込んで、掛けるべき言葉を絞り出そうと思索する。
「壊れてしまう。わたしもユリーみたいに壊れるの」
「止めて下さい」
「聞いて、メイ。わたしねユリーシャのこと大好きだったの。いつもいつでも一緒にいた」
「存じております」
「でも、あの日ユリーは壊れちゃった。わたしも胸が凄く苦しくなったの。もう一緒に逝けるのかなって考えたけど、違ってたみたい」
「魔女様のお薬のおかげで、わたしは助かった」感情の宿らない声色で少女は笑顔を浮かべていた。
愛用の赤塗の机の下に膝をついて、少女は箱を取り出した。
引き出しに仕舞った記録帳の下に隠した真鍮の鍵。
錠を外してから、箱を開いた。
「ユリーシャ様。こんなところに……」
村の子供が訪れた日に、右脚が壊れてしまったビスクドールのユリーシャ。
マリーの一番のお気に入りの人形。破損する前は片時も離れたことがない程に思い出を共にしていた少女の親友だ。
ビスクドールは箱の中に横たえられたままだった。
壊れた時に散らばった陶器の破片はメイが拾い集めて革袋に収めていて、それを後に少女に手渡したものだ。
一か月前のことだ。
メイは少女にとってビスクドールの価値と必要性を知っている。
すぐに人形職人を探して、修理を相談した。
とり得る修理方法は、破損個所の交換。
メイは少女の目覚めを待ってから、事の次第を切り出したが、
マルガリーテス。少女は首を縦に振ることはなかった。
「ユリー。ごめんね。直してあげられなくて、ごめんね」
「お嬢様。壊れた部分を取り換えれば、またユリーシャ様と」
「取り換えるって。新しい脚をつけてどうするの? このユリーの壊れた脚はどうするの? 捨てるの? 捨ててお終い? なにもなかったことにして、全部お終い」
「そんなのユリーじゃない!」マルガリーテスは眉間にしわを寄せて激高した。
胸を擦りながら。呼吸を乱しながら。顔を赤くして。
机を支えにして、尚もふらつきながら声を荒げた。
「メイも皆も、わたしが居なくなっても、新しいマリーが居ればそれでお終いなんでしょう!?」
呼びかけに少女は答える力を残していなかった。
メイは少女をベッドに寝かせる。魔女の薬を溶かした水を、水差しで口元にあてがった。
「……ら、ない」
「お飲み下さい、お嬢様!」
「も……いい、よ」
「だめです!」
強引に傾けた水差しは口内に至り、効能を染み入らせる。
咳き込みはするが、誤嚥させない角度と速度で流し込ませる。
メイは震えそうになる腕を懸命に静止していた。
※
「マリー様。マリーお嬢様!」
侍女のメイが何度も呼びかける。
呼吸の鎮静化し、規則正しい寝息に変わったことで、侍女も大きな息を漏らし、ベッド脇にへたり込んでしまった。
意識を戻して、人形の彼女は棚から飛び降りる。侍女の傍まで近寄ってから、スカートの裾をちょんちょんと引っ張って合図を送る。
『お疲れ。なんか大変だったね』
人形の囁きに侍女は頷くことで意思を伝えた。声を上げたくないというよりは、今は話す気力がない様子だ。
『ごめんね。でも、今は』
半ばは好奇心。
しかし、マリーという少女を象徴するものが箱に入っている。
少女の支えであり傷でもあるビスクドール。
名前はユリーシャ。
覗き込むと、その子は横たわっていた。
頭部から首までをひとつの部品として。両手と両脚の四つ。これらを陶器で作って着色したものを用いる。体幹は綿を包んだ布で形を整えて、陶器の部品を縫い付けて作る人形だ。
ユリーシャは幼女型の人形として、それぞれの部品は幼く作られている。
眼球は埋め込みではなく、着色で表現されていた。
仕立ての良い人形用のドレスを纏い、毛髪も本物が丁寧に植え込まれてある。
この時代背景を鑑みても、かなりの高級品だあることは明白だった。
人形の彼女が、ビスクドールを主観的に見たとしても可愛らしい人形と言える。
『初めまして、、、ユリーシャちゃん。いきなりだけど、ごめん!』
ドレスのスカートを遠慮気味にめくる。ドレスに膨らみがないことは見て取れていた。
右脚は大腿部(ふともも)と体幹の接合部分を僅かに残して、大小の陶器の欠片に成り替わっていた。膝から下は辛うじて形を残している。
左脚も形こそ保っていたが、うっすらと罅が走っている。
彼女は特技の審美眼で全体をつぶさに観察していく。
『この子は、もう動かせない』
「どうかしましたか?」
侍女のメイが小声での問いかけに、人形は幾ばくかの沈黙を挟んでからビスクドールの傷の箇所を言語化した。
『外見上は、右太ももから膝までの損壊。左脚の裏側に薄く伸びた傷……』
「そんな、左脚に傷なんて」
『かなり注意しないとわからないほど細かいものだから。ビスクドールならこれだけでも命取りになりかねない』
精神的に消耗した侍女に、人形は続きを話す。
『左手の薬指から肘までにも同じ罅が走っていて。それに、ここにも』
彼女の小さな指先を、侍女の目線が追尾する。
人差し指がなぞる。首の根本を中心から喉元に。右の顎のラインをなぞって右耳の裏側へと。そのまま頭頂の髪に埋もれていた。
『ユリーシャちゃんは、もう以前のように動かすことはできないわ』