【兵庫県知事】一木一草と自成蹊
久々にAERAを買ってきた。
1月17日に読むに相応しい記事は、スマホではなく活字で読みたかったからだ。
福知山線脱線事故の遺族の闘いを描いた「軌道」や、大阪維新の会への言及や著書も多いノンフィクションライター松本創さんの「阪神・淡路大震災から30年“知事の責任は県土の一木一草まで”」を読んだ。
詳しい内容は記事を読んでいただくとして、私の感想をつらつらと重ねていく
きっと斎藤擁護論者は「なんだ、批判か」とムダな憤りを露にするだろう。もともと嘘とデマに踊らされた向きがあるゆえ、薄っぺらい軸足の定まらない支持層にはそうとしか映らないのも無理はないが、私はこの記事を斎藤への「願い」や「警告」と感じた。
貝原元知事が任期中や辞任決意で引用された島田叡の言葉「知事の責任は県民の命に対してはもちろん、県土の一木一草にまで及ぶ」同じ言葉を使ったとしても、その言葉の重みや向き合い方が斎藤には感じられないという松本さんの指摘は、これまでの4年足らずの任期中に誰もが感じてきたことと重なる。
自分に都合の悪いことと向き合わず、公益通報者保護制度という公的なルールを無視してまで断罪する。気心の知れた人員で“県政私物化ともいえるブレーキの壊れた県政は、一度は不信任決議案可決という非常ブレーキがかけられたものの、異様な選挙でそれさえ解除されてしまい、震災から30年を迎えて「防災先進県」というアイデンティティーさえ斎藤の手によって崩されかねないような人員配置で「兵庫県、大丈夫か…」という懸念を改めて強く感じずにいられなかった
冒頭に書いた「願い」や「警告」と感じたのは、文末3行の意味を考えていたときだった
熱のない表層的な言葉しか持たない知事が、被災地に積み重ねられた人びとの思いを背負えるだろうか。
この3行にトップとしての責任感に欠け、都合の悪いことから目をそらし、発する言葉や行動からは見て取れない重みや責任をもっと持ってほしいという「願い」と、再選したからといって、これまで通りでやれないことが理解できているのかという「警告」が込められていると私は思った。
細かいことを指摘するなら、表敬を受けた人を両脇に従え、自らが写真の中央に収まるなど、敬意を感じない対応も当然改めることのひとつだ。
かつてJR元町駅の北側にあったそば屋に、貝原元知事の書が大きな額に入れられて掲げられていた。
そこに書かれていたのは「自成蹊」
成蹊大学の建学の精神ともいえる「桃李不言下自成蹊(桃李もの言わざれど自ずから蹊=こみち=を成す)」から取ったものと思われるが、貝原元知事や井戸前知事は、まさにそれを体現する人だった。
「人徳のある人のもとには、その教えを乞いに新たに人が集まり道を作っていく」という意味だが、震災復興や防災強化など、苦難を重ねながらも県全体で成してきた蹊をまるで焦土化するような愚策のオンパレードを続ける斎藤県政には、やはり悲観的な予測しか立てられない。
※参考文献
AERA2025年1月20日号
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