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徳川家康が眠る久能山は武田信玄の城だった
1616年4月。徳川家康は駿府城にて75年の生涯を閉じます。
家康の亡骸はその日のうちに駿府を発ち、約10キロ離れた久能山に葬られたと伝わります。
「自分が死んだら久能山へ葬れ。江戸の増上寺で葬儀を行い三河の大樹寺に位牌を納める。一周忌が過ぎた後、日光山に勧請せよ。関八州の鎮守になろう」
家康はこのように言い残したと言われています。
家康が眠る地に二代将軍秀忠が建てたのが久能山東照宮です。
久能山東照宮と武田信玄の関係
ところで気になることが。
それは久能山東照宮が建つこの山。以前は城だったと言われています。
久能山城(くのうざんじょう)と呼ばれたこの城を築いたのは武田信玄。
家康を追い詰めたこともある戦国の名将です。
信玄が築いた城の跡地に家康が眠っているなんて考えると不思議ですね。
形は違うとはいえ二人の英雄は何故この地を選んだのでしょうか。
久能山東照宮を歩く
駿河湾沿いを走る国道。
その側にせり出すようにそびえるのが東照宮のある久能の山です。
正面に見えるのが久能山。
あそこまでひたすら階段を登っていくわけです。
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その段数はおよそ1000段。
正確には1159段で「いちいちご苦労さん」と覚えるそうです。
はっきり言って崖。そこに無理やり取り付けられたような石段を登っていきます。
御社殿に着くまでに17回も向きを変えるそう。
それだけ険しい山を登っているということですね。
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長い石段を登り切った先にやっと現れるのが「一ノ門」。
現在は平屋の建物ですが、明治の暴風で倒壊する前は櫓門だったようです。
ここは久能山おすすめのフォトスポット。
一ノ門の先に駿河湾が広がる様子を撮影することができます。
そして門の外からは水平線まで望める絶景が。
きっとここからの景色を、家康もそして信玄も眺めたのだろうと思います。
一ノ門は久能山城の大手門だったということ。
どんなつくりであったにせよ、これだけ高い場所まで登ったあとこの門を突破しなければならないなんて、久能山城を攻撃する兵士の悲鳴が聞こえてきそうですね。
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一ノ門をくぐった先は平坦地がひらけます。
一気に崖を登ってきたということですね。
この場所だけを見せられたら、「どこの城跡?」って聞いてしまいそうな風景。
石垣の間を通る道はまさに城といった感じですが、これはあくまでも東照宮。
武田信玄が築いた城は土塁や切岸が使われていたのでしょう。
神となった徳川家康の世界へ
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拝観料を払っていよいよ東照宮の中心部へ。
まっすぐな階段の先に見えるのが楼門。朱塗りの大型の門で重要文化財に指定されています。
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楼門(ろうもん)をくぐった先、真正面に見えるのが唐門。
これらは重要文化材です。
四方に唐破風をあつらえたつくりとなっています。
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見学ルートは迂回し階段を登るようになっています。
そしてその先に現れるのが国宝の御社殿です。
御社殿は本殿と拝殿を石の間で連結した権現造(ごんげんづくり)という様式。
全国の東照宮の基本となったものです。
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御社殿の側面にまわると逆さ葵があります。
よく見ると一番左の葵の紋だけ逆向きになっているのがわかるでしょうか。これはわざと逆さにして未完成状態にしているとのこと。
完成するとあとは壊れるしかない・・という理由からです。
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その上が神廟。徳川家康が埋葬されたと伝わる場所です。
入ることはできませんが、ここに太平の世を築いた天下人が眠っているかもしれないなんて考えると異様に気持ちが高ぶってしまうのは私だけでしょうか。
久能山城はいったいどのような城だったのか
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現地案内看板に現在の東照宮と久能山城の様子がわかる図がありますので見てみましょう。
下が私たちが登ってきた登城口。一ノ門がかつての大手門でした。
その上には曲輪が並んでおり、ロープウェイ乗り場付近が二の丸、社殿が立ち並ぶあたりが本丸にあたります。
おそらく信玄が築いた城は険しいこの山の上の平坦な場所に城の中心を置き、上の山には北側から城を守る曲輪を配置した造りだったのでしょう。
現在でもかつての城の様子を想像することができ、東照宮は信玄の城跡を利用して作られたことがわかります。
ただでさえ急な崖に囲まれた山。少し整備するだけで十分城として使うことができたのでしょう。
久能山城はその恵まれた地形から鉄壁の防御を誇ります。
また山上からは駿河湾が良く見えます。海が欲しかった信玄は、占領した江尻の港を整備するのですが、この場所からは海上を通る船の様子がよくわかります。
信玄は防御だけでなく監視機能をもこの城にもとめたのでしょう。
家康が神となることを決めた場所?
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1582年武田家が滅亡すると駿河は徳川家康のものに。
久能山城には家康の家臣(榊原清政)が入ります。
この山が城として機能していたときに家康は何度か足を運んだのかもしれませんね。
そしていつしかこの山に身を置き神となって徳川家を守ることを決めたのでしょう。