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武田勝頼が辿りつけなかった岩殿城

1582年3月。武田勝頼は未完成の新府城に火をかけます。

攻め寄せる織田信長の軍勢を前にしてとても守り切れないと判断したからです。

勝頼が目指したのは甲府の東にある岩殿城。

古くからの武田家臣、小山田信茂の城です。

しかし勝頼一行の前に現れたのは笹子峠を封鎖する小山田の兵。

行き場を失った勝頼は天目山を目指す途中で織田の兵に囲まれ、田野の地にて自害。

戦国最強と言われた武田家はここに滅亡します。

本拠を失いボロボロになった勝頼が目指した岩殿城とはいったいどのような城だったのでしょうか。

まずは岩殿山の周りを見学

岩殿城があるのは大月の街の北側、桂川の対岸にある岩山の上です。

現在は山の正面に道がありすぐに麓まで行くことができますが、当時はなかなか簡単には近づくことができなかったようです。

麓から眺める岩殿山


市営駐車場に停めて、山に登っていきましょう。

目の前の坂道を進んでいくとすぐに入口が見えます。

坂道の上に冠木門。この先にあるのが丸山公園です。

ここには岩殿山ふれあいの館というコミュニティ施設があります。

趣のある建物なのですが、その上にはとんでもない迫力で岩殿山が見えます。


円通寺跡 昔このあたりに巨大伽藍が並んでいたのでしょう


ここは岩殿山の東側。その名も岩殿という集落です。

昔このあたりには円通寺(えんつうじ)という大きなお寺がありました。

当時はたくさんの建物が並び、門前には市がたつなどなかなか賑わっていたようです。


戦国時代、お寺は防御地点としても使われていました。円通寺にも岩殿城の砦としての機能があったといわれています。

円通寺は岩殿城の一部のようなもの。こちらの方面の防御の拠点だったのです。


ついに登山開始

畑倉登山口にやってきました。

いよいよここから岩殿山に登っていくわけです。

登山者カウンターを押して出発です。

巨大な岩に空いた穴。当時の方には神秘的な目で見られたのでしょう。




すぐ分岐があって鬼の岩屋に着きます。

巨大な岩の下に空洞が広がっています。

鬼も住んだのでしょうが、円通寺の建物があったそうです。

その姿は懸け造りだったとのこと。さぞかし立派なお寺だったのですね。


坂道はきついです。最初は大丈夫だったのですが、どんどん元気がなくなっていきます。

岩場というわけではないのですが、鎖が設置されているところもあり雨の日なんてツルツル滑るのでしょうね。


何といっても登るだけで体力を奪われます。
40分ほど登るとやっと岩殿山の山頂にでました。

標高は634mでスカイツリーと同じということで覚えやすいですね。

ここは岩殿城の本丸で、いきなり城のゴール地点に到着してしまったということになります。

これでは城攻めの様子がわからないので、何も見なかったことにして足を進め、城の入口である揚城戸まで行ってみようと思います。

岩殿城の遺構を見学


この岩の間に門があったと。


揚城戸というのはこの岩の間にあったと言われる門。

岩殿城の中心部への入口です。

二つの巨大な岩の間の通路は幅約1m。

ここに城門があったということなのですが一体どのようなカタチをしていたのでしょうか。


こんな場所に門があったらとても突破できませんね。

きっと当時の足場はもっと悪く注意が向くのは間違いなし。

ふと上を見上げると巨大な岩。物陰から撃たれたらなすすべがありませんね。

鏡岩の上から大月の街を眺めます。



ゆるい坂道を登ったところに乃木希典(のぎまれすけ)将軍の碑があります。

岩殿山に登ってその景色を愛でたと伝わります。
このあたりからの眺めが素晴らしく、眼下に大月の街を望むことができます。

桂川が大地を深くえぐって流れているのがわかりますね。

富士山が見える方向が都留の街。

小山田氏の本拠があったところです。

下流に目を向けてみると橋が見えます。

岩殿城は二つの川に囲まれた防御に適した山


本曲輪烽火台からは富士山も見えます。


最後の坂道を登っていくと岩殿城の中心本丸があります。

ここが山頂で物見があったと言われています。

ベンチがあって皆さんここで休まれていました。

山頂からの景色を楽しんだ後、元来た(畑倉)登山道を戻ります。


岩殿城最大の謎 小山田信茂の裏切り


大月の街を見下ろす岩殿山の存在感、圧倒されますね。

なぜ小山田信茂は勝頼を裏切ったのでしょうか・・。

主君である勝頼の危機を救わなかった信茂の後年の評価はあまりよろしくありません。

またこの戦いのあと「不忠者」として信長の息子信忠によって処刑されており、信茂の一連の行動は謎だらけです。

小山田信茂


小山田氏にとって一番大事なのは郡内の土地であり民です。

ここを守るために武田家ではなく織田家に従おうと方針転換のであればその行動は十分に理解できます。

その気になれば勝頼を招いて殺害することもできた信茂。

笹子峠を封鎖したのは、郡内を戦火から守るためだったとも考えられます。

そんな信茂の気持ちは、織田信忠にはわからなかったのでしょう。


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