文化を遠くに投げる手段と目的
いろんな経験から少し前から文化を作ることから始めなきゃダメだ!と思いついたけど、どんな手段でどういった目的なんだろうか。
手段:制作に関わることで楽しみを見つける
目的:ホビーの農業でもっとヒマになろう
こんな感じ。さっきググったらイケダハヤトさんがまだ東京で消耗してるの?って言ってから10年くらい経っている。ちょうどぼくが東京から山梨へ移住した頃だ。
最近の米騒動や、円安と戦争による飼料や燃料の高騰などで農産物の価格は上がる。ぼくは値上げ交渉がストレスで、こうも状況が変わると少々うんざりする。鶏卵は消費税8%だが、飼料の消費税は10%だ。だけども出来るだけ安く食糧を手に入れたい顧客と、スーパーマーケット、生協、自然食品店、産直販売アプリ、大量にある供給側の選択肢の中で根本的な解決は無い。
さらには、“仕事”の為にキャンペーン打って絶滅危惧種のうなぎを投げ売っている。ぼくはニシンそばが大好きで、あればニシンそばを食べるのだが、国産のニシンは生まれてから一度も食べたことがない。北前船と京都の食文化はオリジナルでは無くなった。原因は乱獲など、資源管理の意識が昔はなかったこと、海水温の変化など様々だけども、今現在、消費者や供給側に後めたさが無いように見えることは問題だと思う。こんなことじゃ次世代に格好がつかないじゃないか。
次世代を担う若者の集まり、というと地方部では様々な団体があって異業種交流なども参加してみるものの、現役世代は単純に可処分時間がない上、現状に過剰に適応しているようにみえる。過剰に適応。とはぼくの主観。自治会や保護者会なども同じく昭和を再生産しているようにしか見えない。
農場で自然体験のイベントを始めたのは2020から。「いらっしゃいませ」しない、子供から老人まで参加する手作りのイベントを行なっている。ここでアート制作している人は子どもと打ち解けるスピードがはやい傾向にあることに気づいた。当たり前だけど欲求の方向性は一つではない。教育という方向性や仕事という方向性がひとつだと思っている人に子どもは懐かないように見える。単純に感性が鈍っている部分もあるかもしれない。さらに中高学生を場に迎える場合は、その場に居る人間の属性がバラバラになっていると所在を見つけられることが多いと感じた。
作物を育てる方法もひとつではない。今仲間にシェアしている畑では不耕起の自然農が多いけど、リモート制御ができる水耕栽培システムなんて代物も現在仲間と共に作成中。どちらにせよ目に見えない微生物や養分、その他の生物のことを想像して自分なりに理に適うやり方法を試してみれば良い。
結局のところ面白くて安全に食べられれば一応のゴール。それぞれの味に違いがあれば料理も楽しくなるし、振る舞いたくなる。野菜があって、獣が取れたらそれこそお祭りだ。猟期になると突発的にキジ鍋や穴熊のすき焼きも始まったりする。単純にご馳走を食べる。生活のために食べるんじゃない。そのために必要な食材をワイワイ話したりする。それを誰かが育てる。そんな感じでシェア畑には色々な野菜が育っている。友人が初めて作る自然農のネギは極端に辛味が強くて面白かった。
ぼちぼち鹿の繁殖期も中盤。あと少しで猟期に入るので冷凍している獣肉を整理して消費。空にして猟期に備える。つづきます。