見出し画像

『喜劇の手法』をひらいてみよう

今回は、喜志哲雄先生の『喜劇の手法 笑いのしくみを探る』を読みます。

「読む」といっても、ニシワキが解説できるわけもないので、「ひらく」くらいになりますが。気になったところに付箋を貼ったり赤線を引く作業を、note上でやってみるといった程度です。

まず、取上げられている作品と、ヒントになりそうなカ所を少し抜き出してみましょうか。

Ⅰ だます―喜劇と意識
1【変装】 「十二夜」「ヴェローナの二人の紳士」「じゃじゃ馬ならし」

《観客はこうした混乱を前にしても自らは混乱に巻き込まれることなく、混乱に巻き込まれている人物たちを距離をおいて眺め、笑うことができるが、それは観客にはすべての状況が把握できるているからである。》P24

《変装は当然アイデンティティの混乱を引き起こすが、これまでの例では変装する当人は混乱の原因を知っていた。だが、スライは他人によって変装させられるのだがから、混乱の原因がわかからない。ここで観客は愕然とする。これまでの場合、観客は変装する人物の側に立って笑っていたのだが、自分もまた笑われる側になりうることが明らかになるからだ。》P24

2【一人二役】 『主人二人の召使アルレキーノ』『ラン・フォー・ユア・ライフ』

《こういう劇の場合、観客の心理には矛盾したところがある。一方では主人公がこんな状況に追い込まれてほしいと思いながら、他方では主人公が何とかして窮地を脱してほしいと願うのだ。別の言い方をするなら、劇が早く破局に達してほしい、早く終わってほしいと思いながら、少しでも長く続いてほしいと願うのである。》P31

3【嘘】 『真面目が大事』『恋敵』『田舎女房』『嘘つき男』

《登場人物が嘘をつくという状況を扱った喜劇は無数にある。たいていの場合、嘘が嘘であったことが明らかなになるというかたちで劇は終わる。しかし、本当に面白いのは、『真面目が大事』のように嘘がただの嘘ではなくなるという状況を扱った喜劇である。なぜなら、嘘が嘘であることがばれることによって終わる劇においては、嘘をついていた人物が劇の状況を支配しているというあり方そのものは崩壊せずにすむからだ。嘘がばれるのはみっともないことではあるかもしれないが、それは当人がまったく予想してもいなかった事態ではない。ばれる危険を恐れていたら、嘘などつけないのだ。ところが嘘が単なる嘘ではなくなる、当人が考えてもいなかった事態が生ずるということは、言い換えれば、状況が嘘をついていた人物の手にあまるものになるということだ。それは間違いなく滑稽ではあるが、同時に観客はこういう状況を前にすると、ある種の不安感ないし恐怖感をも味わうのではないだろうか。》P36

4【変身】 『じゃじゃ馬ならし』『ピグマリオン』

《しかし、特定のアイデンティティをそなえていた人物が、ある時間が経過した後、別のアイデンティティを獲得するという物語を扱った喜劇もある。その人物は、劇が終わるときには、少なくとも見かけにおいては、劇が始まったときとは別の人物になっているのである。端的に言うと、当の人物は変身を遂げるのだ。それが自らの意思に基づくにせよ、他者の働きかけによるにせよ、変身を遂げる当人は、もちろん自分の身の上に起こったことに気づいている。だから、そういう人物は、これまでにあつかった喜劇の中心人物と同じように、状況を自分の意識によって統御していると言えよう。》P44

喜劇は、《観客にはすべての状況が把握できるている》から笑うことができる。この優位性が、喜劇の基本構造ということですね。逆にそれは、「観客にすべての状況が把握できていると思わせておく」ことができれば、そこから世界をひっくり返して見せることも可能かもしれない。

前回、演劇的仕掛けについて「主題と渾然一体となって全編にみなぎり渡る舞台上の知恵ある仕掛け。そのことによって観客に新しい体験をさせる手段」といった井上先生も喜劇の人でした。(もちろん喜劇だけじゃないけど)

井上作品も、世界をひっくり返す、笑いが驚きや恐怖に変わる、すごさがある。またそれは、感情をゆさぶるだけではなく、観察や思考を促すことにもなるだろう。

続く章も、小見出しと作品だけ拾っておきます。
ただただ自分が検索しやすくする為ですが。
巻末に50音順の索引があるのですが、「仕掛け」ごとに作品を上げておくとあとあと便利なので。

Ⅱ 迷う―喜劇と無意識
5【双生児】 『十二夜』『間違いの喜劇』『メナエクムス兄弟』
6【偶然の一致】 『守銭奴』
7【反復】 『自由交換ホテル』『花粉熱』『私生活』
8【循環】 『おかしな二人』『ゴドーを待ちながら』
9【逆転】 『田舎女房』『シルヴィアとは誰か』『慇懃な恋人』

Ⅲ 間違える―喜劇の状況
10【誤解】 『検察官』『間違いの喜劇』『警部来訪』
11【身代わり】 『シラノ・ド・ベルジュラック』『尺には尺を』
12【自縄自縛】 『壊れ甕』『オイディプス王』
13【誤算】 『一生にただ一度』

Ⅳ 語る―喜劇の言葉
14【傍白】 『守銭奴』
15【アイロニー】 『悪口学校』『櫻の園』
16【沈黙と間】 『昔の日々』
17【機智合戦】 『空騒ぎ』『世の習い』
18【スラップスティック】 『薔薇と棺桶』『略奪』

Ⅴ 考える―喜劇についての喜劇
19【バーレスク】 『乞食のオペラ』『三文オペラ』『ミカド』サヴォイ・オペラ
20【パスティーシュ】 『博愛主義者』『人間嫌い』
21【劇中劇】 『舞台稽古』『女中たち』
22【夢】 『真夏の夜の夢』
23【ハッピー・エンディング】 『あらし』

…ふぅ、けっこう疲れた。
それに、思いの外時間がかかった。

ん? なぜこのくらいの書き写しに時間がかかるかって?
それは、面白くて読み返してしまうからさ! わっはっはっはっはっ…。

今回は、もうこれでいいか。
ダメか、もう少しメモしておこう。

不勉強なニシワキは、そのタイトルをこの本ではじめて知った作品も多い。それでも、いくつか自分が扱ったことのある作品を読んでみる。

たとえば10の【誤解】で扱われるゴーゴリ『検察官』。

《図式的にいうなら、『検察官』が喜劇になっているのは、観客の視点がすべての登場人物の視点に対して絶対的優位を保っているからなのである。

具体的に言うと、こういう絶対的な優位は次のような経過で成立する。まず第一幕で、検察官来訪の噂におびえている町の有力者たちのありさまが示され…(略)》P98

と、町の人々の【誤解】が、喜劇としてどのように仕組まれているのか(観客の視点の優位性)を丁寧に解説し、同じく【誤解】が構造として仕組まれている『警部来訪』を紹介したのちに、こう続く。

《物語の内容はまったく違うが、構造においては二篇の戯曲はほとんど同じだと言っていい。しかし、両者のあいだには重要な違いがある。まず、『検察官』はフレスタコーフは自ら検察官と称するのではなくて、町の人々によって検察官に仕立てられるのだ。(略)これに対して『警部来訪』のグール警部は、自ら進んで身分を詐称する。次に、フレスタコーフが本当は検察官ではないとこを、ゴーゴリは観客に対して最初から明らかにしている。観客はすべてを知っているのだ。だが、プリーストリーの作品の警部が実は警部ではないことは、ほとんど最後まで観客にも知らせれない。劇中人物たちが真実を知るときになって、ようやく観客も真実を知るのである。

『検察官』は紛う方なき喜劇である。『警部来訪』はスリラー劇ともメロドラマとも呼べるであろう。とにかく、喜劇でないことは確かである。喜劇と喜劇でない劇との区別は、題材や構造によって生じるのではない。それはひとえに作品と観客との関係によって決まるものだ。二篇の戯曲を比較してみると、このことがよくわかる。》P102

この本自体の仕掛けとしては、このように喜劇、あるいは戯曲を成立させる仕掛け(この章では【誤解】)を一つずつ取上げ、同じ仕掛けを用いている他の作品と比較して、その構造に対して意識的になるよう構成されている。

特にここでは、構造としては同じでも、作品と観客の関係によって喜劇にもなればスリラーにもなるという話。
チャップリンの名言「人生はクローズアップで見れば悲劇、ロングショットで見れば喜劇」にも通じる話ですなぁ。

一つ確認。
構造は、物語の筋とは、ちょっと違うということ。
物語の筋ももちろん絡んでくるけれど、ここでいっているのは、観客の視点をどこに置くか、どのように物語の過程を認知させていくかということだ。
それから井上先生が言っているのは、それだけはなく、たとえば音楽の使い方、歴史や時間の切り取り方、劇場空間としての効果といったことも含めての演劇体験の構造、仕掛けと言っているのだとニシワキは考えている。

はい。
この『喜劇の手法』から、もう少し続けます。

急がないぞぉ。

よろしければサポートをお願いいたします!