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ねばって「仕掛け」のまわりをウロウロしてみる

気づけばクリスマスもお正月もすぎている。
しばらくnoteする時間がなく、間があいてしまった。
ので、
ここまで「仕掛け」について書いてきたところを改めて読み返してみた。

流れとしては、今回は「主題」「テーマ」についてかな…とも思ったが、ねばって「仕掛け」のまわりをウロウロしてみることにしたい。

(ほんとはもっと『喜劇の手法』しゃぶり尽くしたいところなんですけど。そのくらい、今回読み返してみて、「この本は、すばらすぃー!」とあらためて思いました。
この本、それほど古くないんですよ。ニシワキの手元にあるのは第一刷で2006年発行。まあ、それでも十五年経ってますね。
そう、発売時に本屋さんで立ち読みしたとき喜志先生に感謝しましたもん。「これまでの不勉強を改め、まずはこの本に扱われている全作品を読むことから精進します」とお天道さまに誓いましたもん。で、ま、読んでいないんですけど)

さて、ねばってウロウロしながら確認作業をしようと思う。
なにを確認したいかというと、言葉を仕分けておきたい。

どうも「構造」や「仕掛け」といった言葉の扱いを、雑にして書いてきてしまっているなと。勢いで書いているのもあるが、それより頭の中で曖昧なのだろう。
それから「物語」や「話の筋」とか、使い分けているようで実はやはり曖昧だっりしている。

なので、その辺りを整理してみたい。(できるかな…)

 * * *

ゴーゴリの『検察官』を扱ったところで、喜志先生は

《物語の内容はまったく違うが、構造においては二篇の戯曲はほとんど同じだと言っていい。しかし、両者のあいだには重要な違いがある。》

という言い方をしている。
ここでの「構造」とは、話の展開や、登場人物の役割の抽象度を上げることで見えてくる物語上の骨格をさしている。(というのが私の理解。建築でいえば内装や外壁の装飾をする前の構造物の骨組みの部分ですかね)

もう一文引いてみる。

《喜劇と喜劇でない劇との区別は、題材や構造によって生じるのではない。それはひとえに作品と観客との関係によって決まるものだ。二篇の戯曲を比較してみると、このことがよくわかる。》

ということは、「作品と観客との関係」という、とっても演劇的なところも、ここでは「構造」には含まれていない。やはり、それは「物語としての構造」と考えていいだろう。

「作品と観客との関係」をどのように仕込むかというのは「演劇としての構造」であって、井上先生は、それを「仕掛け」と呼んでいる。(前回まで確認してきたのは、そういうことじゃないだろうか)

でも、その二つはただ別物ということではなくて、物語の構造は、演劇の仕掛けとして機能することができる。もちろん、そうでないものもある。たくさんあるかもしれない。
小説や映画のおもしろい作品を、そのままの構成で舞台の上に展開させても、これは原作のようにはおもしろくならないだろう…などと思うのは、小説や映画では有効な物語の構造が、そのまま演劇の仕掛けとして機能するとは限らないということでは。

さて、「構成」が出てきた。
「構造」と字面も近いので、これも曖昧に使いがちなのだ。
いちおうニシワキは、場面やイメージの配置の仕方という意味で、「構成」を使っている。

たとえば、ある人物の一生を描くとする。
その作品は大きく五つの場面で構成される。(と、「構成」を使ってしまっているが)
それは、

① 幼少期(たとえば母との死別があったり)
② 青年期(たとえば人生最大の恋があったり)
③ 中年(めっちゃ富と名声を得ていたり)
④ 晩年(しかし孤独を抱えいたりして)
⑤ 死(葬儀の場面とか)

となっている、とする。

で、映画でよく見かける気がするのが、⑤から描くパターン。
今、ニシワキの頭の中では『市民ケーン』が浮かんでいる。(学生の時、リバイバル上映を観たきりなので、もしかしたらストーリーを勘違いしてるかもしれないです)

新しいところでは『マディソン郡の橋』『父親たちの星条旗』とかとか、…それも古いか。(正直、ニシワキは映画もたいして観ないのでした。この二つの映画は、イーストウッドの作品だから観ています)

そうそう、日本の映画だと『永遠の0』(これも、もう古いか。ダメだな、思いつかん)。映画館のスクリーンに向かいながら、「この題材で、このパターンを使うか…」と用心した記憶がある。

ま、とにかく、そういった構成のパターンがある。
まず⑤の葬儀などの場面があり、主人公の家族や知人が集まり故人を偲ぶ。あるいは故人の関係者がその死に疑問を持つ。その会話から、過去の場面へ飛んで…といった具合に。
で、またよくあるのが、ラストに、また冒頭の葬儀の場面に接続される構成で、番号順では ⑤→①②③④→⑤となるパターン。

そういった実際の作品の中で場面をどのように配置するか、その仕方や工夫に対して、ニシワキは「構成」を使っている。
(確認しやすいので映画を例にしましたが、このパターンはそれこそ映画向きなのかもしれない。で、演劇は、この「構成」の自由度が他のジャンルに比べて高いかもしれない? と今思った。うーん、どうでしょう?)

一度「構造」に話を戻す。

「構造」は、物語上の骨格というだけではなくて、物語を動かすエンジンになる。
そこには出来事の前後関係があり、時間軸がある。一つひとつの出来事が物語を展開するための機能としてある。

たとえば、②での恋の相手は、①で死に別れた母の面影があるとか。
それを確認してしまったがために人生最大の恋は終わり、彼の人生観は大きく方向転換し、仕事まっしぐらで突き進み成り上がって、③の富と名声を得る…みたいな。

すごくザックリした「あらすじ」だが、それでもこのくらいの説明でも「話の筋」と呼ぶことができる。文字通り粗い筋だが。

「話の筋」にも、時間軸が必要だ。また、状況や人物の属性について具体性があり、因果関係、人物の行動やその目的も明確な方が望ましい。「筋が通る」という言い方があるように、「筋」といった場合は、目的に向かう合理的な展開が期待されている。

「あの作品には、筋というほどの話の筋はない」といった場合、たいていは「目的」や「目的のために動く中心人物=主人公」が明確にない場合を指摘している、はず。

それに比べて「構造」は、より抽象度を高くして物語を捉えようとする。

主人公には欠けているもの(母の存在)があり、それを回復しようとしているが、彼自身はそれに気づいていない。恋人はそのことに気づいてしまい、なにかのキッカケで彼に確認することになる。しかし彼はそれを否定し、彼女とも別れ、今いる場所や集団を離れる(故郷を出る)……とかとか。

(と、ここまできて、『ゴドーを待ちながら』が頭に浮かぶ)

では、たとえば、筋がないといわれる『ゴドーを待ちながら』の構造はどうなっているのだろうか。よくわからない場所で、よくわからない誰かを待っているだけのあの話に、構造はあるだろうか。

(ある、と考えてみます)

それは、やはり「待つ」ことか。
「待つ」こと、それ自体が物語の構造として機能している…。(それがおもしろいかどうかを問うてはいないです)

しかし「待つ」ことだけで、物語のエンジンになるのか? うーん…。

…そうか。
【《「待つ」ことだけで、物語のエンジンとなる》ことが演劇の仕掛け】としてある、と考えるべきか。
物語のエンジンとして、馬力があるようにはあまり思えないが、物語を発動するスターターでは確かにある。

「待つ」ことは、「足りない」ことで。「欠けている」ことで。
それは、たとえば母の喪失と同じように物語を駆動させる。回復を望む対象が、かけがえのないものであればあるほど、物語内部の熱量は増す。「欠乏」や「不足」を燃料に、物語の内燃機関は駆動する。「ゴドー」が誰なのか、明確には示されなくても。

それは、私たちが明確な「だれ」や「なに」がなくとも、目的が明らかではない「待つ」ことだけでも、生きてしまっていけるからなのかもしれない。

それが、ベケットの発見なのかもしれない。

というわけで、「仕掛け」「構造」「構成」「話の筋」について、いちおう線引きしたことにして、改めて『喜劇の手法』の目次をながめてみたい。

その前に、ここまでくると「物語」についても、確認が必要か。
物語については、いろいろ深堀できるし、しなきゃいけない気がする。
けど、
ひとまず、物語は、所謂「お話」や「ストーリー」といった意味で使っている場合と、「世界」を理解する仕方や枠組みといった意味で「物語」と使っている場合があることだけ確認して、先に進む。

でも、今日はここまでにしよう。
また長くなりそうだ。

そして、ウロウロはまだ続く…。


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