日本原価計算基準史⑦物価庁「原価計算要綱」
物価庁「製造工業原価計算要綱」
戦後の混乱の中で,食糧および衣料その他主要な物資の不足に対処して,国民生活を安定させるためには,戦時中の食糧の配給,衣料切符制度等の配給制度の復活が必要となりました。しかし、衣料切符制,配給手帳制等によって,国家的に供給量が制限されている場合,需要量が供給量を超過するならば,闇市が発生するのを防止することは困難でした。戦後,闇取引が横行したことは周知の事実でした。国家的に定められた供給量に対応する物資の公定価格は,原価計算方式に依存するほか,格別の方法はあり得ず,戦後の公定価格制度は,闇市の発生を防止し得なかったという矛盾をはらみながらも,原価計算政策に依存することを余儀なくされました(黒澤1990, 477頁)。
配給制度を実施する前提として,戦時中の物価統制の制度ならびに公定価格制度の施行を必要とすることになり,公定価格制度の基礎として,統一原価計算制度の実施が要求されるに至りました。こうして、終戦後も、国民経済の運営の基礎として、原価計算に基づく価格形成の制度が引き継がれました(黒澤1973~76〈18〉、83頁)。
「国家総動員法」は1946年(昭和21年)9月30日に廃止となり、戦時立法の多くが戦後失効した中、原価計算については戦後も活かされました(昭和21年閣令第78号)。その後、経済安定本部内に設置された物価庁の所管する原価計算委員会が設置されました。
当委員会には中西寅雄、黒澤清等の学者のほか産業界から多くの実務経験者を臨時委員に加え、戦時中の原価計算時代の経験を基礎に、1948年(昭和23年)3月2日をもって、新「原価計算規則」(総理庁令第14号)と「製造工業原価計算要綱」及び「鉱業原価計算要綱」(以下では物価庁「要綱」と略称)が作成され、当時の総理大臣 片山哲に答申されました(黒澤1990、464頁)。新「原価計算規則」は、「物価統制令」(昭和21年勅令第118号)の以下の規定を根拠とするものでした。
「主務大臣必要ありと認むるときは、命令の定むる所に依り価格等の原価に関して計算を為さしむることを得。」(第18条)
「行政官庁必要ありと認むるときは,物価に関し報告を徴し,帳簿の作成を命じ,又は命令の定る所に依り当該官をして必要なる場所に臨検し,業務の状況若くは帳簿書類其の他の物件を検査せしむることを得。」(第30条)
そして新「原価計算規則」の冒頭では以下のように規定していました。
「物価統制令第18条の規定による原価に関する計算及び同令第30条による原価に関する報告については、本令の定めるところによる。」(第1条)
「物価庁長官が指定する物品を生産する者は,別記製造工業原価計算要綱又は鉱業原価計算要綱に基づき,原価計算をしなければならない。」(第2条)
第2条については,公定価格の対象となる物品について選択的に原価計算の実施を要求しており,この点は戦前の閣令・陸軍省令・海軍省令「原価計算規則」別冊「製造工業原価計算要綱」(以下では別冊「要綱」と略称)と大いに異なる点でした(黒澤1990,465頁)。
物価庁「要綱」と,戦前の別冊「要綱」とを比較して一番目につく変更は,片仮名交じりの文章が,平仮名交じりのものとなり,それに合わせて文体が多少変えられている点であり、内容についてはさほど大きな変更はありませんでしたが、計算の方法については戦時中より遙かに業者の創意工夫の余地があり、業者が最も正しいとする方法を適用することができたようです。当時、「原価計算は斯くして先ず解放されたのである。」と評価されています(大倉1950、87頁)。つまり、それはもはや戦前のような強制規定ではなく、拠るべき規準であるにすぎませんでした。
戦後の公定価格は主として実際原価に基づいて決定されるのではなく、原価は公定価格決定の一つの参考資料でした。企業が物価庁に提出する原価は必ずしもその実際原価そのままでないことはかくれもない事実であったといいます(松本雅男1950、40頁)。その後、物価庁「要綱」は、企業の生産力の復旧、国家による供給制限の緩和によって、公定価格制度が主要食糧を除いて漸次撤廃されると共にその使命を終えました。
そして、1950年に企業会計基準審議会の第4部会(部会長 中西寅雄)が12年間の審議を経た後に現在の「原価計算基準」が公表されました。
文献
大倉義雄1950「原価計算の再認識」『會計』第57巻第2号。
黒澤清1979/80「資料:日本の会計制度〈1〉~〈16〉」『企業会計』第31巻
第1号~第32巻第4号。
---1990『日本会計制度発達史』財経詳報社。
松本雅男1950「日本における標準原価計算(二)『産業経理』第10巻第2号。