【地歴日記 #26】 蒙古襲来とは? 部員が一から説明します!
こんにちは。海城地歴研の中二部員です。
突然ですがみなさん鎌倉殿の13人は見ていますか?
鎌倉殿の13人の舞台である鎌倉時代は、他の幕府に比べると期間が短くあまり目立たないと思っている人も多いかもしれません。
しかし、鎌倉時代は権力争いや他国との大戦争など大きな出来事が多く起きた期間でもあります。
ということで今回は、鎌倉時代の大きな事件の一つである蒙古襲来について説明していこうと思います。
そもそも蒙古襲来とは、元(今のモンゴル)による2度の日本の侵略(文永の役、弘安の役)を指しています。
当時の元は世界最大の面積を誇っていて、モンゴル帝国を作り上げたチンギス・ハンの孫であるフビライ・ハンが統治していました。
まずは、文永の役です。
この戦争は、元の侵略に日本が巻き込まれた形で始まったのですが、直接の原因は、日本が元から送られてきた使者を無視し続けたからとも言えます。
1度目に日本にやってきた使者(元からは2度目の使者)は、大蒙古国国書元の皇帝であったフビライ・ハンから日本の国王へ当てた国書を持って来たのですが、この国書に書かれた内容はかなり高圧的なもので、簡単に言えば「属国にならないなら軍を送ることになるが、こちらとしても荒療治は避けたいので前向きな検討をするように」というような内容でした。
国書は幕府、朝廷へと届けられ、最終的には返書を出すべきではないということが議決されたのですが、当時(今もですが)は国書には断る場合でも返事を出すのが基本で、返書を出さないという行為は失礼に当たりました。
これにより幕府も元からの侵攻を警戒し、当時18歳であった北条時宗を執権に据えたり1772年頃に異国警固番役という制度を作ったりしました。
その後の使者に対しても返書を出さなかったため、とうとう元軍が攻めてきました。
日本側は初めて見る「てつはう」という武器などによって苦戦を強いられましたが、戦闘の後、10月20日夜に、玄界灘での悪天候によって元軍は大きな被害を受け、日本軍はそれに乗じて元軍を追い払いました。
また文永の役に関しては、元軍が対馬に到着してから博多湾から撤退するまでの戦闘期間が約半月と短く、あくまでも日本を属国にするための「おどし」を目的としていたのではないかという意見も出ています。
続いて弘安の役です。
文永の役後、日本軍はさらなる警戒を強め博多湾沿岸に石塁を造築するなどを行い元の侵攻への対策を行いました。
また、元から使者が2度やってきたのですが、2度とも日本側の手によって処刑されました。
これによって2度目の侵攻である弘安の役が始まりました。この弘安の役は、前回の文永の役とは比べ物にならない程の大規模な戦争で、日本軍も元軍も大きな打撃を受けました。この戦争では、文永の役を受けて造築した石塁が大きな効果を見せ、元軍を最後まで上陸させずに守り切りました。
最後は、台風により多くの犠牲を出し混乱していたところで、日本軍が猛攻撃し元軍を追い払うことに成功しました。
これにより蒙古襲来は終了し、その後も多少の小競り合いはありつつも最終的には日本は属国にならずに終了しました。
これまで蒙古襲来について述べていきましたが興味は湧きましたか?
もし鎌倉時代に興味がない人でも、蒙古襲来前後の歴史は非常に面白いので是非調べてみてください。
また次の記事もお楽しみに!!