【地歴日記 #2】 しられざる東京の名城 『深大寺城』
こんにちは。
海城中高の地理歴史研究同好会の中1部員です。
一つ前の記事に近いのですが、城についての話をしたいと思います。
今年の年間テーマが城であるように、去年の年間テーマが「東京」でした。実は自分は去年文化祭で東京都の城について調べた模造紙を掲載しました!
noteにてその模造紙原稿を見ることができます。
詳しくは下の記事をご覧下さい。
その中で自分がすっかり好きになってしまった城がこの深大寺城!住宅地の中に一ついかにも強そうな城があるようすはまさに絶景でした。
せっかくなので今回は深大寺城について軽く紹介したいと思います。(ぜひみなさんも好きになってください!)
深大寺城に自分が行ったのは去年の8月中旬でした。
その日の朝いつもの通り起きて朝ごはんを食べて…というようにしていたら深大寺城に行くことに!(どんな流れで???)
しかし午後には塾があったため行ける時間は3時間!片道1時間なので周れる時間はなんと1時間だけ!
そんな短時間で城見切れるの?と思ったのでは。
もちろん出来ませんでした。
そのような中でも感じることができた深大寺城の魅力をお伝えします!
深大寺城の地形について
城を考えるにあたって第一に重要なのが城の目的です。
深大寺城は「天文六年四月に再興した」という内容が『川越記』『相模兵乱記』
『北条記』などに書かれています。
つまり再興される前の状態は分かりませんがとにかく、北条氏に対抗する為に扇ヶ谷上杉朝定が築城を命じたという説が有力です。
そう考えると、城の防衛の仕組みが分かりやすくなると思います。
敵の北条氏がいるのは南と東、そのため南と東の守りが特に硬くなっています。一番スゴイのが東側です。
河岸段丘の武蔵野段丘の崖上に位置していて多摩川までは低い低地だけで当時は高い建物が無く、
15メートルほどの崖上に位置する深大寺城は、南方の多摩川方面への視界を遮るものが存在しないので、南から攻められても敵を迎え撃つにはとても好都合だと断言できます。
しかも南の直下には多摩川の支流である野川が流れているためさらに南側を守るには好都合!
また、近くの深大寺周辺では湧水が豊富であり東側と北側(特に東側)には湿地が存在し東からの侵攻はとても難しい!
なんて言っても守りが硬すぎて北条氏を迎え撃つには絶好の地!
結局北条氏は守りの硬い深大寺城を攻めずに扇ヶ谷上杉朝定の住んでいる城(居城)の川越城を攻めて、深大寺城は戦一つすらなく北条氏のものに…頭がいいと言うしかない。
実際に川越城ではなく深大寺城を攻めていたらどうなっていたのでしょうか?
もしかしたら守りきっていたかもしれません。
結局北条氏のものになってから廃城になってしまいました。自分的には強敵は北と西にいるので北と西の守りが薄い深大寺城は使うには適さない城であったからだと思います。
皆さんはこれを見て深大寺城が好きになれましたか?もっと魅力は沢山ありますが今回はここまでです。
この記事を見て深大寺城に行きたいと思ってくれたら嬉しいです。
では次の活動報告でお会いしましょう。
それではまた。
以下資料写真(筆者撮影)
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