【地歴日記 #3】 ”出世城”浜松城について 中1部員が解説
こんにちは。
海城中高地理歴史研究同好会の中1の部員です。
受験生の皆さんも後少しで小学生から中学生に進級しますね。皆さんと同じぐらいの年齢ですと、大名は元服を無事に終えたかまだかぐらいの年齢で周囲が大人として認めるようになる年齢です。
進級とは人生における「出世」だと考える事ができます。なので今回は、年間テーマ「城」と絡めて「出世城」について書きたいと思います。
ちなみに僕は去年のテーマが東京だったので、東京にある江戸城が政治の中心だった、江戸時代の賄賂について調べました。
詳しくは下の記事をご確認ください。
出世城としての歴史
浜松城は出世城と呼ばれています。
その理由として、江戸時代(ここでは1600年から1868年とする)に城主(城代も含む)から老中を5人、奏者番を2人、大坂城代、寺社奉行、京都所司代を各1人輩出しているという点があります。(諸説あり)
城主の中には皆さんも一回は耳にした事があると思われる水野忠邦も含まれています。
これだけだと現代の人々が結果から出世城と呼んでいるのでは、と思われるかも知れません。
確かに、浜松城主は幕府の役職ではありません。しかし、水野忠邦が老中となるきっかけは浜松城主になった事でした。
水野忠邦はもともと唐津藩主でした。
しかし、唐津藩は代々長崎の警護をしていたため中央の政治に口出しできなかった。そのため石高は低くなってしまうが、浜松城への国替えを願い出ました。
それが受理されて念願の浜松城主になった後に大坂城代になり、出世を掴みました。そのため、この当時から出世城と呼ばれていたと考えられます。
城郭としての浜松城
浜松城に現代訪れるとしたらおそらく天守閣か天守閣内の資料館目当てでしょう。この美しい天守は1958年にコンクリートで作られた復興天守です。
元の天守と大きさがかなり違います。天守台は作られた当時のままですので、かなり歴史があるようです。石垣は野面積みの布積みです。
本丸への入り口にある天守門は復元ですが、発掘調査の時に発見された礎石の位置に作られたので、位置は正確です。また作り方も当時とかなり近いやり方です。
石の上に柱をピタリとのせる伝統的な方法で復元されています。
また、水がたまらないようにするためか、天守門の門下に排水溝があったようです。
本丸に入るためには必ず通らなくてはいけない門が鉄門(くろがねもん)です。
その名の通り鉄板が貼り付けられて防御力が増加した門です。鉄板だって無尽蔵にあるわけではないので城内の重要な門にだけ使われました。
天守閣内には沢山の貴重な品々がありますが最も見応えがあるものは天守内の井戸だと思います。
また、有力な大名の統治する藩の藩庁がある場所は城下町として発展していきます。
ちなみに、県庁所在地は人口の多い場所が選ばれたりしますが、藩庁所在地は大名の独断で選ばれ、そこに強引に人々を住ませて藩庁としての機能を作る事も可能でした。
このように書きましたが、出世城とされる要因は浜松城のある場所にあると思います。
幕府が始まってすぐの時には江戸方面に進むと大御所徳川家康の隠居地である駿府があり、その先には江戸があるという最重要拠点と言っても過言では無い場所でした。そのため寝返らないと思われた徳川氏(親藩)が治めていました。
その後、譜代大名が治める場所となり領主から老中を輩出しました。
推測ですが、信用に足りると判断された譜代大名しか城主になれないということで、信用に足りる人ならば幕府の中枢を担っても問題ないということで浜松城主ならという事で要職に就きやすかったのではないでしょうか。
受験生の皆さんも大変な受験を乗り切ったという事は大きな経験となると同時に自分に自信をつけられるようになるのではないでしょうか。受験を乗り切った後には楽しい学校生活が待っています。大変でしょうけど頑張ってください。応援しています。
それではまた。
※記事内の写真は2021年3月20日に筆者が撮影した物です。
※見出し画像は「写真AC」のフリー素材を元に作成したものです。
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