【地歴日記 #23】 「最果ての監獄」 網走監獄
こんにちは。中2部員です。
夏休みも終わってしまいました。
今回は私が夏休みの間に行った網走監獄博物館について書きます。
まず基本情報です。
蝦夷地こと北海道の開拓を進めていた明治政府は明治集治監を設置し、労働力として囚人を使役し、北海道の防衛と開拓を進ませました。
人口希薄な北海道に彼らが刑を終えたのち住み着いてくれたら一挙両得であるという苦役本分論のもと、明治14年月形町に樺戸集治監、明治18年標茶町に釧路集治監、そして明治23年網走囚徒外役所が北の地の果て小さな漁村の網走に造られました。
網走囚徒外役所(のちの網走監獄)は囚人(政治犯が大半)に開拓を進めさせるべく造られました。
囚人は使い捨てという考えが当時はありその実態はひどいものでした。中でも1200人もの囚人による中央道路開削工事は酷いものです。
食料が少ない中で寒さと熊に怯えながら、道を木開くという重労働に次々と脱走者や死亡者が増えていきました。
死んだ囚人達は現場に埋葬され目印に鎖を墓標のそばに置いたと言い伝えられ、囚人たちの墓を「鎖塚」と呼ぶようになりました。
昭和30年頃から郷土史を研究する人々や住民を中心にこれらの遺骨を発掘する作業が熱心に進められ今では追悼碑やお墓が建てられるまでになりました。
中央道路開削工事には犠牲者が多く出たため、囚人道路と呼ばれています。
ちなみに囚人道路は怪談が今でも語られホラーが苦手な私はいきませんでした。
さてほとんど囚人道路の話になってしまいましたが次はいよいよ網走監獄の中を見ていきましょう。
まずは正門です。(右の守衛さんっぽいのはマネキンです。)
通称「赤レンガ門」と呼ばれ「最果ての監獄」と恐れられた時代の威厳が感じられます。左右にある部屋は看守の受付と面会に来た家族の待合室です。
次に庁舎です。
庁舎は刑務所管理部門の主軸となる建物で監獄の最高責任者の典獄室をはじめ会議室や総務課、作業課などがあります。西洋風の建物で明治期の官庁建築の典型となっています。
次は網走監獄のメインとも言える五翼放射状房です。
これだと分かりにくいので網走監獄博物館の公式サイトの写真の載っけておきます。
網走監獄の舎房は中央見張署を中心に渡り廊下で五つの舎房と繋がっているため五翼放射状舎房と呼ばれています。
上下の写真からもわかるように中央見張署から五つの舎房の廊下はまっすぐ続いているので独居房、雑居房の出入りは丸見え。
とても脱獄などできません。
こういう工夫が網走監獄において脱獄は不可能である言われるきっかけになったのですね。
しかし!脱獄をした猛者がいます。
下の写真の男、白鳥由栄です!(肖像画がなくてすみません…)
白鳥は鉄枠の隙間に味噌汁の塩汁を垂らすことで、時間をかけて松材を腐らせ、鉄枠を錆びさせて鉄枠を外したのちに両肩の骨を外し独房から出て写真のように登って天井から逃走しました。(人間業じゃない…)
独居房の様子(マネキンが怖い)。よく見るとドアの横の格子は斜めになっていて廊下側からしか見ることはできなくなっている。
最後に教誨堂にです。
教誨とは収容者対して行う精神的、倫理的、宗教的な強化指導のことです。
僧侶や牧師さんが受刑者に人の道を説き、更生へと導くように尽くした場所でもあります。
以上で網走監獄の説明を終わります。
博物館には中央道路開削工事の様子を上映していたり白鳥由栄の肉声が残っていたりするなど見所が多いです。
ちなみに私は夏に行きましたが冬の方がおすすめです。冬ならではの雪の懲罰房などがあるからです。