【地歴日記 #25】 「悪」ではない海賊 村上海賊
こんにちは、地歴研の中二部員です。
皆さんは村上海賊を知っていますか?
“海賊”というと、船を襲撃して金品を奪い取るようなものをイメージする方も多いでしょう。
しかし、村上海賊はそのような海賊ではありません。
村上海賊は、戦国時代に主に瀬戸内海で活動していた海賊であります。
戦国時代、『日本史』を記した宣教師ルイス・フロイスは“日本最大の海賊”と言いました。
では、村上海賊はどのような活動をしていたのでしょう。
主な活動は、瀬戸内海を通る船の航海の安全を保障し、交易や流通の秩序を守る役目を担うということでした。
村上海賊が主に活動していた瀬戸内海は、島々が密集しているため、海峡が狭く、潮の干満による激しい潮流が容赦なく船を襲います。
なので、瀬戸内海を通る船乗りたちは村上海賊に通行料を払う代わりに、安全性を確保してもらったのであります。
毛利元就が陶晴賢を破った厳島の戦いにおいて、村上海賊は活躍しました。
毛利軍は、天文24年9月30日夜間に厳島へ船で向かいました。
闇夜と大潮を利用した上に、豪雨にも見舞われたことで、視界が悪くなり、陶軍は毛利軍を見にくかった上、流石に渡ってこないだろうと思い、見張りを怠りました。
厳島へ渡るのが非常に困難な中、毛利軍は村上海賊の助けによって、上陸に成功し、見事合戦に勝利しました。
また、村上水軍は、第一次木津川口の戦いでも活躍しています。
第一次木津川口の戦いとは、織田信長と現在の大阪城にあった、大阪本願寺が戦った石山合戦の際に、毛利水軍が兵糧を本願寺に入れようとして、それを織田水軍が妨害しようとして、毛利水軍との間で勃発した戦いのことであります。
この戦いでは、村上海賊が使ったほうろく玉によって、織田水軍の船が燃え、織田方は多くの戦死者を出し、毛利方は、本願寺に兵糧を入れることに成功しました。
上の写真を見ていただくと、ほうろく玉の効果は絶大であったことがわかるでしょう。
これに対抗するために信長が九鬼義隆に作らせたのが、鉄甲船です。
この鉄甲船は、ほうろく玉の攻撃の効果をなくすような設計がされていました。
厚さ3ミリの鉄甲で船の外板を覆いました。
これによって、仮にほうろく玉を投げたとしても、ダメージはあまり受けないようになりました。
この鉄甲船によって、もう一度兵糧を運びにきた毛利水軍との第二次木津川口の戦いでは織田軍が圧勝しました。
村上水軍は、信長に最新鋭の船を作らせるような戦い方をしていたのです。
ここまで、村上海賊について調べてきましたが、村上海賊について興味が湧いたでしょうか?
村上海賊を調べると非常に面白いので、興味のある方は、是非調べてみてください。
それではまた。