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吉備津神社と吉備津彦神社と溫羅【岡山県】 その1

九州神社巡りは今なら別の神社を巡っていただろうなという感想とともに、九州は神様というよりは、場所に凄いパワーを感じました。
ただ、九州も神話は凄いですが、近くの岡山も色々な伝説が残る土地です。今回は岡山の神社に参拝して来ました。


吉備津神社

この日は、岡山にある、日本一の駄菓子屋さんへ行こうと、子ども達も連れて家を出ました。目的地は先に駄菓子屋、その後は神社、[吉備津神社]と[吉備津彦神社]です。駄菓子屋は日本一と謳うだけ有って本当に大きかったです。子ども達も満足したので、いよいよ吉備津神社です、この神社は桃太郎の話しの元になったと言われる鬼の溫羅と吉備津彦の伝説が残る神社です。主祭神は吉備津彦大神で、鳴釜神事や矢立て神事という珍しい神事が今も行われています。本殿も「比翼入母屋造」と呼ばれる特殊な様式です。入母屋造の屋根を前後に二つ並べた屋根の形状で、「吉備津造」とも呼ばれる、吉備津神社特有の様式です。
駐車場に車を駐めて降りた時から、ここは重い空気だなと感じました。何か暗い気持ちなるような感覚です。薄暗い坂道、階段を登ると重要文化財に指定されている、北随身門が見えてきます。暗い雰囲気は益々加速していきます。門をくぐると荘厳な拝殿、本殿がそびえ立ちます。建物はもの凄く立派ですが、やはり気持ちが上がらないというか、暗い気持ちが深くなっていくというか、何か早く帰りたい気持ちになりました。
参拝が終わり、嫌な気持ちのまま、この神社でいくつかある有名な場所、回廊を通って、鳴釜神事が行われる、御竃殿に行く事に。
回廊は山の地形そのままに、回廊が建てられているので、御竃殿に行くのに坂を下っていきます。下って行くうちに、左側にえびすの宮が見えてきました。打って変わって明るい感じのイメージになりました、ここは良い感じだと思ってえびすの宮の方に向かっていくと、あれ?やっぱりここじゃ無いなと感じ、どこがいいばしょなんだとキョロキョロしていると、鳥居が見えます。鳥居まで行ってみると見えにくいですが、若山宮と書いてあるのかな?境内図で確認すると若山宮のようです、ただ、凄い上りの階段なので、御竃殿に行った後に行こうということになりました。

御竃殿は鳴釜神事を行う場所で、ここでは、毎年その年が良い年か、悪い年かを占います。以下は神社HPからの抜粋です。
〔この神事は吉備津彦命に祈願したことが叶えられるかどうかを釜の鳴る音で占う神事です。多聞院日記にみられるのが文献的には一番古いとされ、永禄十一年(1568)五月十六日に「備中の吉備津宮に鳴釜あり、神楽料廿疋を納めて奏すれば釜が鳴り、志が叶うほど高く鳴るという、稀代のことで天下無比である」ということが記されていますので、少なくとも室町時代末期には都の人々にも聞こえるほど有名であったと思われます。江戸時代上田秋成の雨月物語のなかにも『吉備津の釜』として一遍の怪異小説が載せられていることは有名です。
この神事の起源はご祭神の温羅退治のお話に由来します。命は捕らえた温羅の首をはねて曝しましたが、不思議なことに温羅は大声をあげ唸り響いて止むことがありませんでした。そこで困った命は家来に命じて犬に喰わせて髑髏にしても唸り声は止まず、ついには当社の御竈殿の釜の下に埋めてしまいましたが、それでも唸り声は止むことなく近郊の村々に鳴り響きました。命は困り果てていた時、夢枕に温羅の霊が現れて、
『吾が妻、阿曽郷の祝の娘阿曽媛をしてミコトの竈殿の御饌を炊がめよ。もし世の中に事あれば竃の前に参り給はば幸有れば裕に鳴り禍有れば荒らかに鳴ろう。ミコトは世を捨てて後は霊神と現れ給え。われは一の使者となって四民に賞罰を加えん』とお告げになりました。命はそのお告げの通りにすると、唸り声も治まり平和が訪れました。これが鳴釜神事の起源であり、現在も随時ご奉仕しております。〕
個人でも鳴釜神事は行ってもらえますので、ご興味がお有りの方は是非お試しください。

若山宮

御竃殿を見学し終わり、若山宮に行こうと回廊を戻りました。
先ほど見た鳥居をくぐり、先の見えない階段を登り始めました。6月とかだと紫陽花が綺麗に咲いているようです。「どこまで登るの?」と子どもに言われながらも、どうしても若山宮に行きたい思いで必死に登ります。
小さな木造の祠が見えてきました。若山宮と書かれた看板があります。
ここか!何とも言えない優しい空気が流れています。この若山宮の御祭神は建日方別神で、古事記では吉備児島(現児島半島)のこととされています。
この小さな祠の前に立つと、ビンビン感じます。ここには、どなたかは分かりませんが、確実にいらっしゃいます。
ここだけが禍々しい感じの吉備津神社で唯一ホッと落ち着いている場所でした。

溫羅(うら)

では、この吉備津神社にはどなたが祀られているのでしょうか?社伝通りなら、吉備津彦命ですが、勝った側が祀られているのに、こんなに暗い感じになるのでしょうか?神社が出来る経緯には色々有るとは思いますが、出雲大社、天満宮、御霊神社のように、怨霊を鎮めるための神社も珍しくは有りません。この吉備津神社もそうなのでは無いでしょうか?神社で行われる神事もどちらも溫羅に関わるもので、溫羅は製鉄技術も持っており、百済からの移住民族とも言われています。ただ、溫羅一族はかなり強力な一族だったらしく、孝霊天皇の兄は大吉備諸進命(おおきびのもろすすみのみこと)、息子は吉備津彦命と2人とも吉備の字が当てられており、吉備の国とは激しい戦争があったと思われます。吉備の国討伐には若日子建吉備津彦命(わかひこたけきびつひこのみこと)も参加しており、溫羅一族の討伐にはもの凄い時間と労力がかかったのでしょう。
桃太郎の物語では、犬、雉、猿が仲間になって鬼退治に行きますが、吉備津彦が溫羅一族と戦った氏族は、[犬養氏][猿女氏][鳥取氏]となっています、特に[猿女氏]は溫羅一族側だったのが裏切って吉備津彦側に付いたと言われています。きび団子に目がくらんだのでしょう、では、きび団子とは何だったのでしょうか?吉備の国を分けて与えると言われたのでは無いでしょうか。真偽は分かりませんが溫羅は強力だったこと、退治(戦争に負けた)されたこと、技術的に優れていたこと、大和政権側にとっては紛れもなく大きな敵だったということです。考えれば考えるほど、吉備津神社の禍々しさは溫羅を祀っているとしか思えないですね。

では、中山(吉備津神社がある山)の反対側(鬼門)にある吉備津彦神社への期待が高まってきますよね、では次のお話しは吉備津彦神社です。




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