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きみは古い建物にフェティッシュがあるね。

古い建物や道具が好きだ。

金属や木でできていて、できれば自分の年齢よりも長くこの世に存在しているものがいい。
物にも神が宿るという話を、文字通りに信じているわけではないけれど言葉としては好きだ。

そして、それを使っていた人たちが居たという痕跡が傷や変形によって記録されていること、そもそも今もそのモノが存在しているということ自体が、それを作った人が存在したという確かな証拠。
モノは作ろうという意思がないと作れない。他人の存在を認識する。他人の努力や思いを感じる。
その人はもうこの世にいないかもしれないけれど。

古い町に降り立った僕はその町が最も賑やかだった時代に思いを馳せながら、木の柱や壁に手を触れる。
アスファルトの隙間から覗く、かつての石畳を見つける。
現代では軽自動車ですら窮屈そうにすれ違うその通りは、パブリカやてんとう虫の時代には充分な広さだったのかもしれない。
こうやって他所から来て勝手に懐かしがっている分にはいいが、今そこで生活している人たちにとっては不便でならないだろう。

雁木の街並みは、雪の侵入を防ぐために板をはめる溝が柱の一本一本に彫られていた。
それが使われていた時代、そこに板をはめた人たちのことを思いながら指をなぞる。

摩耗して角が丸くなっている。



別の日、昔の映画で見た景色を訪ねて古びた温泉街にたどり着いた。
数時間の運転の後、少し離れた駐車場に停める。カメラの露出を確認しながら歩く。

目的地を目指す。地図上ではこの辺りの筈だったが、それらしきものは見当たらない。
シャッタが降りているだけだろうかと何度か通りなおすも、やはり無いように見える。
寺院の前に観光案内所があったので思い切って聞いてみることにした。

「ああ、〇〇屋さん。数年前にお店を閉められてねえ。ご高齢でいらしたからねえ。今はそこ家になっていますよ。
あとその後にこの辺りに火事がありましてね。古いお土産屋さんとかも何件か。
昔の客さんとかもね、たまに来られるんだけど皆さん残念がられてねぇ。景色が変わってしまったって」

ストリートビューには写っているのでほんの数年のあいだの出来事のようだった。ショックではあったが仕方がない。
そこでココアをいただきながら、この辺りの話を聞く。

本棚に飾られていた大正時代あたりからの歴史が綴られた写真集を手に取る。
そこに写っている街並みに比べれば同じものなどもはや目の前のお寺くらいだろう。
そう思えばいくらか気分も和らいだ。


僕が懐かしいと感じるものなど、せいぜい50~100年程度の景色だ。
戦国時代の城跡、千年を数えようという古刹、そして目の前の山河に比べれば人の暮らしに根差したものなど
わざわざ残っているほうがおかしいのかもしれない。

その移ろいもまた、同じように楽しめるようになれればいいのに。

たかだか16年前のレンズで1/125秒づつ景色をお借りして、その街を後にした。


夜、自分の生活圏に戻ってきた。明るく、清潔で、画一的。
この景色は、50年後に酔狂な若者が訪ねてきたときに懐かしいと感じる景色だろうか。

余計なお世話だと思いつつ、ある場所で読んだこの言葉がどうしても頭にこびりついて離れなかった。


「古い建物の無い町は、思い出の無い人間と同じだ」


少し上がったところにあるお寺は、僕らとは違う時間軸を生きながらこれからもこの街を見下ろす。

きっと十年後も、三十年後も。




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