皆伝 世界史探求09 BC133年-BC27年
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□□サハラ以南アフリカ
メロエ王国が継続しています。鉄を生産していますが、そのためには、鉄を溶かすために火を燃やす必要があります。その材料として薪が必要になるので、森林を伐採していきます。砂漠化を促しているんです。未解読ですが、メロエ文字というものを使っています。
BC1世紀になると、メロエの外にも製鉄、雑穀が普及していきます。21世紀の人間にとっての主食である大麦、小麦、米を除く穀物を雑穀と言います。燕麦などですね。
BC1世紀末になると、エチオピアにはアクスム王国が成立しています。AD4世紀に建国したと言う学者もいます。
アクスムの人たちはメロエ王国を通じて、地中海やインド洋の交易に参加します。象牙、奴隷、金/GOLDを輸出して、ワイン、織物、香辛料、植物油(オリーブ油など)を輸入していました。
□□ヨーロッパ
□東欧(エストニア、ラトビア、リトアニア、ポーランド、ウクライナ)
BC2世紀にポーランドのヴィスワ川流域のゴート人の多くがヴィスワ川、ドニエプル川を下って、黒海沿岸に移住しています。ゴート人はゲルマン人の一派です。BC375年からをゲルマン人の大移動とローマでは言いますが、ローマに知られる前から、ゲルマン人は移動しています。
□中欧 西欧
ゲルマン人は西ではライン川を超えたあたりまで広がり、南ではドナウ川に接近しつつあるという状況です。
BC1世紀中ごろからローマが侵攻してきて、ケルト人やゲルマン人と戦争をします。これをガリア戦争とローマは言います。ガリアはフランス地域のことです。そして、ゲルマン人の暮らしている地域はローマに奪われ、少しづつガリア属州とされていきます。
ゲルマン人は部族によって狩猟を主にしたり、穀物や果樹栽培などの農耕を主にしたりしていました。ローマと近い部族は交易をしたりもしています。文字はありません。王・貴族・自由民・隷農・奴隷といった身分制のあるキヴィタス(部族国家)を作っていました。自由民、農民は封(ほう)と言われる衣、金、住、食などとの見返りに貴族の子弟に仕えます。これを従士制と言います。これが国家レベルになり、行政も従士/家臣に委託するようになり、封としては土地が一般化すると、封建制と言います。
年に一度集合して、王が出す死罪の案・戦争の開始案・戦争の終結案を奴隷を除く成員で採否します。王の権限は案を出すだけで、強制することはできません。
元々遊牧民は天気を読んだり、どこに牧草地があるかを考えて常に移動する生活なので、王に従って行った先に牧草地がなければ、王は信頼を失います。王は何も強制できないし、従わない人は群れを出て自分の信じる方へ行けばいいだけの話。誰を王にするかも話合い。推薦してもらって王になるから権力は強くない。遊牧民に共通する特徴です。スパルタの王、モンゴルのハーンなどもそうです。
ゲルマン人には、神は古樹に宿るという信仰があって、供犠もあります。特にオーク(樫の木)を重要視していました。
ゲルマン人の暮らす土地は寒いので、マント、皮革、綿織物を着ています。上衣もズボンもぴったりで、乗馬用なのかもしれません。これが背広&ズボンの源流と学者は考えています。
ローマとの接触が増えると影響されて、ローマ風の長衣を着るようになりますが、ズボンは中に着たままにしました。これが下着の一般化の起点と言う学者がいます。やがてズボンは裾が短くなっていったし、寒くない地方に移住すると、生地が薄くなっていきました。
BC58年、BC51年にはガリア総督のユリウス・カエサルが侵攻してきます。ガリア総督と言ってもフランスのあたり/ガリアにはローマの支配は及んでいません。カエサルはゲルマン人やケルト人/ガリア人と戦をしました。ブリタニア(イギリス)にも遠征しています。全ガリアの総指揮官となったウェルキンゲトリクスはたびたびローマ軍を破ったんですが、ついに捕らえられてしまいました。詳しく知りたい人はカエサルの書いた「ガリア戦記」(岩波文庫)を読んでくださいね。のちにタキトゥスが書いた「ゲルマニア」(岩波文庫)はゲルマン人に詳しい本です。
BC52年、ガリアは名実ともにローマの属州となってしまいました。
□□ローマ
ローマ共和政。BC133年ーBC27年は内乱の一世紀と言われます。この皆伝09の区切りと同じです。
BC133年までにカルタゴ、マケドニア、イベリア半島を属州化したことで、奴隷が大量に流入しました。奴隷を使う大土地農業が増え、奴隷を買えない中小の農民は没落し、土地を手放します。土地が大土地農家に集約されていくんです。
対外遠征によって、住民の没落が進行すると、重装歩兵の市民を原理とした政治体制に亀裂が生まれます。
この時代のローマには
⓪元老院/セナートは諮問機関で、法案提出はしないけれど、調整や許可を与える。
①トリブス民会は全ローマ市民を45の選挙区に分けて作られた民会。
②ケントゥリア民会/兵員会は自弁で軍人になれる貴族と富裕者が作る民会で、元々は主に財産で振り分けられた193の軍人単位(百人組/ケントゥリア)ごとに一票の投票をする立法府の一つ。
③プレブス民会は、平民会。
がありました。
護民官の職権は有力者の専横を防ぐ目的で、法案拒否権に主眼が置かれています。法案提出権は主旨に背きます。しかも、③の平民会での法案提出は暴挙でした。 ただ、護民官は任期1年で再任はないので、一年で結果を出す必要があります。ことを急ぐので、グラックスは根回しができずに、平民会に法案を提出した可能性もあります。
BC133年、護民官ティベリウス・グラックス(平民)の改革。
主に貧民対策です。
BC367年のリキニウス・セクスティウス法の再確認をします。125ヘクタール=500ユゲラへの公有地制限でしたね。500-133は367です。
大土地所有の制限をし、重装歩兵の基盤である市民の没落抑止が目的です。制限以上の土地は没収して、貧しい市民/中小農民へ抽選で分配します。その土地は転売禁止で課税対象になります。平民会は提案を可決しましたが、大土地所有者がメンバーである元老院を中心とした保守派は反発して、グラックスを撲殺しました。失敗したことで、民会は分裂します。
中小農民は没落して重装歩兵にもなれず、一方で騎士は富裕化していきますが、元老院議員にはほとんどなっていません。元老院を基盤とする閥族派/オプティマティスと、平民派が激しく対立します。民衆派/貧民派/平民派/ポプラレスとも言って、平民会を基盤にする一派で、騎士などもいます。貧しい民衆の意見を反映するとは限りません。
BC123年、ガイウス・グラックスの改革。弟です。
貧民&騎士対策です。
リキニウスとセクスチウスの大地主抑止、自作農没落抑止はイタリア人だけが対象でした。グラックスはイタリア人だけを対象にしたのではなく、ローマ市民権を持つ人みんなのことを考えていました。
穀物価格の統制法案、軍役年数を制限する法案、元老院議員の不正や横領を告発する法案、騎士階級に法案作成権を持たせる法案、ローマ市民権の同盟市への拡大法案などを提出しました。 これも元老院に拒否され、奴隷と二人で自殺に追い込まれました。
BC120頃、北アフリカでヌミディアとユグルタ戦争をします。ユグルタは王の名前です。
BC107年、ローマでは平民派のマリウスが台頭します。ユグルタ戦争をしているのに、没落した人が多いので、重装歩兵が不足しているんです。元老院は何も手を打てません。そこで、コンスル/執政官のマリウスは傭兵制を採用します。職業軍人制度を採用したんです。行政改革で、職業訓練でもあります。武具も退職金も支給します。失業者にとってはありがたいので、人気者になりますよね。これが功を奏したのか、ユグルタはローマに捕らえられて、BC104年には殺されてしまいます。ユグルタの弟が王位を継ぐので、滅亡したわけではありません。
この時期、シチリアでは奴隷の反乱もありました。
マリウスは5年連続でコンスルに選ばれた時期もあって、独裁をします。職業軍人制になって、司令官の私兵のようになっていくんですね。マフィアのボス的な感じです。こういう人が何人も登場するようになります。だから内乱が激化するんです。マリウスは敵対する人を容赦なく殺していきましたが、BC86年に70歳で病死します。
BC91年-BC88年には同盟市戦争がありました。グラックスが提出したローマ市民権の同盟市への拡大法案が否決され、同盟市戦争につながったんです。
征服戦争の利益である奴隷や遠隔地の土地獲得がない同盟市は、ローマ市民権を求めていたんです。
BC90年のユリウス法でポー川以南の同盟市にはローマ市民権を与えることにしました。但し、反抗的な都市は除きます。BC90年のカルプニウス法とBC89年のプラウティウス・パピリウス法によって、全イタリアの同盟市住民がローマ市民権を得ることが可能となったので、戦争は終結しました。この意味は、イタリア半島の諸都市は都市国家としての特徴を失って、ローマという領土国家に入ったということです。
BC83年、元老院を支持基盤とする閥族派のスッラが独裁をします。
BC73-71年、スパルタクスの反乱。剣闘士のスパルタクスを中心とした反乱です。勃発した73にこの時代の区切り27を足すと100なので憶えやすいですね。剣闘士は奴隷です。没落した市民が不満をためて暴動などを起こさないように、権力者はパンとサーカス(見世物のこと)と言われますが、食事と娯楽を提供しておくことを考えます。ローマの場合、剣闘士の試合が見世物です。剣闘士同士や、剣闘士とライオン、クマとライオンなどの戦いがあります。基本的には死んだら負けです。勝っても、また戦いがあります。脱走したくもなりますよね。ローマ軍は外征をして、帰国する時にはガリアからなら北方のルビコン川で武装解除をします。職業軍人は外国にいます。イタリア半島には軍勢はいませんし、普段から鍛えている人もいません。だから、技を鍛えた剣闘士に立ち向かえる人はほとんどいません。それで長く続いたんです。ちなみに、クマが負けたことはなく、前足の一撃でライオンの首を折るそうです。怖いですね。
結局、ポンペイウスが鎮圧します。
ポンペイウスの独裁はありませんが、独裁を恐れた元老院が、手勢への土地付与を禁止など、様々な妨害をしていたようですね。
ミトリダテス四世(在位BC120年-BC63年)のポントス王国は、BC88年以降、黒海北岸のボスポラス/ボスポロス王国を支配し、小アジアのサムスン、トラブゾン周辺をも支配していました。ポンペイウスの率いるローマ軍が第一次、第二次のミトリダテス戦争をしてローマが支配を拡大します。パルティアのミトラダテス一世、二世とは国が違うので勘違いしないでくださいね。BC70年-BC63年の第三次ミトリダテス戦争で征服を完了します。
BC64年-BC63年の戦で、セレウコス朝シリアを滅ぼします。カルタゴ滅亡の年146の下二けたを逆さにした64なので憶えやすいですね。その翌年に滅亡です。小アジアを属州化し、ローマがヘレニズム文化を吸収していきます。シリア属州を設置します。
BC63年、ハスモン朝ユダヤ王国を属国化します。
マケドニア、ギリシア、小アジアなどを支配したことで、ローマはギリシア文化を吸収します。ギリシア人もローマにやってきます。思想も宗教も学問も入ります。ギリシア12神のラテン化もあります。ギリシアのゼウスは、ローマのジュピターになります。ヘラはジュノー、アテナはミネルヴァ、ポセイドンはネプチューン、アフロディテはヴィーナスになります。
時期は不明ですが、ギリシア文字を改変して、ローマ字を作ります。ローマの支配域が拡大すると、ローマ人の使うラテン語、ラテン文字が地中海世界に普及していきます。
第一回三頭政治。BC60年に開始。
平民派/ポプラテス/民衆派のユリウス・カエサル(英語ではジュリアス・シーザー)、ポンペイウス、富豪のクラッススが政治同盟を結んで連立政権ともいえる政治をします。それで元老院の保守派(=閥族派/オプティマテス/「最良の」という意味)に対抗するんです。マフィアのボス三人が手を組んだようなものです。
BC46年、ローマはヌミディア(アルジェリア)を属州化します。
ポンペイウスはエジプトで弟と共同統治をしていたクレオパトラ七世を愛人にしています。
エジプト軍も味方につければ、鬼に金棒ですもんね。
パルティアやガリアに遠征をしていたカエサルですが、本土ローマにいるポンペイウスと対立が激しくなってきました。「国家論」で有名なキケロは、独裁者になりうるカエサルを警戒して、共和制とポンペイウスへの支持を表明していました。カエサルはこのころの様子を「内乱記」として著しています。21世紀の日本では、講談社学術文庫から出版されています。
ローマ法では武装したままローマ本土(半島北部のルビコン川が境界)に入ることは禁止されていました。けれど、カエサルは「賽(さい)はなげられた」と言って、ルビコン川を渡河したと伝えられています。サイコロはもう投げられたということは、運命は神に任せるということです。ローマに対する反逆者の汚名を着ても実行するぞと決意して、ファルサロスの戦でポンペイウスを討ったんです。もう一人のクラッススは、BC53年にパルティア遠征中にオロデス二世の軍と戦し、戦死します。
BC45年、残ったカエサルは、本来は6カ月なんですが、任期のない終身のディクタトル(独裁官)に就任します。コンスルのうち、一人が国家存亡の危機の時だけ独裁的な権力を握れる制度ですが、カエサルはこれを利用したんですね。コンスルと護民官も兼ねています。首相、大統領、与党の党首を兼ねているようなものかな。これってヒトラーのことですけど。
エジプトにも遠征したユリウス・カエサルはプトレマイオス朝のクレオパトラ7世を愛人にします。二人の間にはカエサリオンが生まれました。カエサルはエジプト暦に閏年を設定し、新しい暦をローマで採用しました。これはユリウス暦と呼ばれます。カトリックの教皇グレゴリウス13世が1582年に改良するまで続くんです。カトリックと対立する正教のロシアなどでは、ユリウス暦を使い続けました。七月に自分の名前であるユリウス/JULYを入れています。
BC44年、元老院議員のブルートゥスがカエサルを刺殺します。
カエサルは最後に「ブルートゥス、お前もか」と言ったらしいんです。長らく誤解されていたんですが、友人の共和主義者ブルートゥスではなく、同姓の別人のようです。
BC43年、第二回三頭政治の開始。第一回と違い、国家再建三人委員会という正式な組織です。メンバーはオクタヴィアヌス、アントニウス、レピドゥスです。
第一・二回三頭政治は頭文字だけを覚えれば、フルネームは出てくるはずです。受験生は頭文字の「かぽく おあれ」と憶えればいいかも。
オクタヴィアヌスはカエサルの親戚で、養子になった人です。レピドゥスはカエサルの副官でした。
アントニウスの提案で、独裁官は廃止されました。この人はクレオパトラ七世を愛人にします。なぜこんなにクレオパトラ七世に惹かれるんでしょう。美しさだけではなく、ラテン語、ギリシア語なども操り、ファラオなので当然政治などの知識も豊富という、周囲にいなかったタイプということなのかな。
レピドゥスはオクタヴィアヌスの打倒を計画して失敗し、田舎に引っ込んでしまいました。
BC31年、オクタヴィアヌスがアクティウムの海戦でアントニウス・クレオパトラ軍を破り、プトレマイオス朝エジプトは事実上の滅亡。BC30年、ローマの属州になり完全滅亡。これで、ヘレニズム国家は全て滅んだことになります。ローマは地中海世界を統一しました。海は国の外側にあるものですが、ローマは地中海を囲んでしまいました。内海化と言います。
19世紀にランケが遺した名言に「(ヘレニズムとヘブライズムという)二つの文化の潮流はローマの内海(地中海)に注ぎ、後、再び流れ出でて(ルネサンス)、今日のヨーロッパ文化を形成した」があります。
BC27年、オクタヴィアヌスはアウグストゥス/Augustus の称号を元老院から受け取ります。尊厳あるものという意味です。養父であるユリウスがユリウス暦の七月なので、八月生まれでもある自分はそのあとの八月に名前を付けます。八月/August/オーガストはアウグストゥスに由来するんです。ギリシア語(ラテン語ではない)で八月を意味します。
元老院は存続していて、カエサルのように暗殺されることを避けるために、表向きは皇帝と名乗ってはいません。自分ではローマ市民中のプリンケプス/第一人者と名乗っています。けれど、最高司令官/インペラトールであり、コンスル/執政官であり、トゥリブヌス・プレビス/護民官を兼ね、最高神祇官(ローマ教皇のようなもの)であり、元老院の議長でもあります。実質的に初代のローマ皇帝と言える人で、BC27年はローマ帝政へ入ったと言える年なんです。
当時の市民は帝政に替わったとは思っていないでしょう。けれど、後から考えると、オクタヴィアヌスは初代皇帝だったねという感覚です。歴史学ではローマ帝政を前期と後期に分けて、この前期を元首政/プリンキパトゥスと呼びます。元首は代表者のことで、プリンケプスの同意語と言えると思います。まだ遠慮している時代です。後期は堂々とローマ皇帝を名乗るばかりか、神格化も進みます。
カエサル家の人が皇帝なので、のちにカエサル家と無関係にCAESARを名乗る人が出てきます。ドイツのカイザーや、ロシアのツァーリはカエサルのことで、意味は皇帝です。
文化面で書き残したことをまとめると、共和政主義者でポンペイウス支持のキケロは政治家、散文家、雄弁家として活躍しました。「国家論」「義務論」「友情論」などを著していますが、アントニウスの命令で殺されました。
エピクロス学派-詩人で哲学者のルクレティウスは「事物の本質について」で、エピクロスを解説しています。無神論でもあり、死が苦を払うと主張しています。
□□北アフリカ
BC120頃、北アフリカにあるヌミディアとローマがユグルタ戦争をします。ユグルタは王の名前です。
ユグルタはローマに捕らえられて、BC104年には殺されてしまいます。ユグルタの弟が王位を継ぐので、滅亡したわけではありません。
BC46年、ヌミディア(アルジェリア)はローマの属州とされてしまいます。
プトレマイオス朝エジプト。最後のファラオはクレオパトラ7世(BC69年生まれ)。弟と共同統治をしています。パスカルが「クレオパトラの鼻がもう少し低ければ歴史は変わっていた」と書いていますが、どう変わったんでしょう。あんまり変わらない気がします。
エジプトとしてはローマと敵対するわけにはいきませんから、ローマの有力者と結んで国を維持しようとしました。
ポンペイウスの愛人になる。ポンペイウスはカエサルに討たれる。
カエサルの愛人になる。カエサリウスを生む。
この子は、カエサル亡きあとにオクタヴィアヌスに殺されたようです。
カエサルが討たれる。アントニウスの愛人になる。
アントニウスの前に巻かれた絨毯がおかれて、そこから登場したと言う伝承があります。
シェイクスピアが「アントニーとクレオパトラ」を書いています。
BC31年、アクティウムの海戦でローマに敗れます。
クレオパトラ七世が自殺したとの誤報を受けて、アントニウスは自殺します。それを知ったクレオパトラ七世はコブラの毒で自殺します。蛇の毒を飲んだか噛ませたかは不明ですが、この事情はシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」の最期のシーンに似ています。「シェイクスピアはクレオパトラ七世に興味があったので、それを知っていて作品に盛り込んだのかもしれない」と先生は言っていました。
BC30年、エジプトはローマの属州になります。
アレクサンドロスが生んだギリシアとオリエントの文化の融合であるヘレニズム文化は、既にセレウコス朝シリアは滅んでいるので、プトレマイオス朝の滅亡を持って終焉します。
□□西アジア
セレウコス朝シリアはBC2世紀後半にはセレウキア、スサをパルティアに奪われます。BC64年、ローマに滅ぼされます。この地はシリア属州とされました。
パルティアがインド、オリエント、西域の交通路の要衝を抑えます。西アジアで初めての遊牧騎馬民族国家を建国したと言えます。中国名は安息国。この時代、ローマ、パルティア、漢の大国が出そろったので、東西の交通路は障害なくつながり、文物が往来し安くなったと言われます。盗賊や関税が減ったということなんでしょう。
都はヘカトンピュロス。馬上射のパルティアンショットを得意として、騎馬戦術を組織的なものに洗練させたと言われています。BC2世紀にはヘレニズム文化を離脱して、土着化します。ミトラダテス一世はクテシフォンを建設します。BC124年-BC88年在位のミトラダテス二世はクテシフォンへ遷都します。政治と文化の中心から外れたバビロンは地方都市化していきます。この二人の王が全盛期と言われています。パルティアはアルメニアからイラン高原まで版図を拡大します。そうすると、BC90年代アルメニアを巡って、初めてローマと衝突し、勝利します。
オロデス二世の時代にはローマのクラッススが侵攻してきますが、BC53年に戦死させます。ローマはアントニウスの投げ槍、また重装歩兵による密集突撃戦法を繰り出してきますが、パルティアは騎馬の弓射のヒットアンドアウェイ戦法で破ります。
イスラエルではBC142年にユダヤ人がハスモン朝を建てています。王家は、元は地方の祭祀だったので、大祭司になる血筋ではありません。それを嫌って王家を批判する勢力はいました。この時期にエッセネ派、パリサイ派(ファリサイ派)、サドカイ派といったユダヤ教のグループが作られます。宗派と言っても構いません。イェルサレム神殿の祭司層を占めていたのが出家したサドカイ派で、王家と結んでいました。神殿には宗教的な税金、寄付も集まりますから力を持つんです。在家(出家していない)で庶民に多いパリサイ派は少し規律の解釈が緩いのですが、神殿の独裁的な姿勢を批判していました。エッセネ派は俗世を離れて荒野で修行をするグループです。のちの修道士に近いと思います。
ヨハネ・ヒルカノス2世が王なんですが、弟のアリストブロス2世がクーデタで王位に就きます。BC63年、ローマのポンペイウスがセレウコス朝を滅ぼします。ついでにイェルサレムにも来ます。ローマは操りやすいヨハネ・ヒルカノス2世を支援して再度王位に就けます。この時点で実質的にハスモン朝ユダヤ王国が滅んだと言えます。形式的には属国扱いです。直轄地の属州になったわけではありません。
ローマに取り入ってユダヤの実権を握ったのはヨハネ・ヒルカノス2世に仕える将軍アンティパトロスです。その子がヘロデです。アンティパトロスが死去し、ヨハネ・ヒルカノス2世もアンティゴノス(アリストブロス2世の子)に捕らえられます。ヘロデはローマに逃げて支援を要請しました。ヘロデはユダヤの王という称号を認められ、イェルサレムに戻ると、パルティアの支持を得ていたアンティゴノスをアントニウス軍とともに追い払い、BC37年王位に就きました。こうしてハスモン朝は滅亡しました。この出来事はユダヤのヘブライズムをローマが吸収した意味を持ちます。
ヘロデ朝の始祖になったヘロデは親ローマ路線を取ります。ヘロデは純粋なユダヤ人ではなかったので、ヨハネ・ヒルカノス2世の孫マリアンメ1世を妻にします。また、イェルサレム神殿を大改築します。こうして正統性をアピールする一方で、ハスモン朝の一族を殺していきました。
ナバテア人はアラブ圏で初の馬を導入した民族と考えられていて、騎馬隊がラクダの隊商の護衛を行っていました。BC2世紀頃になると人口が20万人近くになり、恐らく草不足から遊牧生活をやめ定住するようになります。 BC168年頃建国のナバテア王国はオアシス都市のペトラを中心として隊商交易で栄えました。BC100年頃からハスモン朝と敵対するようになり、共にハスモン朝への内紛へ介入したローマに攻められて、BC63年頃、ローマの属国になります。文字の歴史としてはナバテア文字が重要とされています。
□□インド
BC188/180年、マウリヤ/マウリア朝マガダ王国が滅びます。
ガンジス川流域には シュンガ朝マガダ王国が起こります。
インド北部はマウリヤ朝マガダ王国-シュンガ朝マガダ王国 -クシャーン朝の順に展開していきます。
デカン高原にはサータバーハナ朝/サータバーハナ朝アーンドラ王国があります。ドラヴィダ人のアーンドラ族のサータヴァーハナ/サータバーハナ王家です。王家はバラモン教を信仰していました。ドラヴィダ人にはシュードラが多いのですが、王族なのでクシャトリアなのでしょうか。
インドの北部では王は、諸王の王などの称号を名乗って、南部ではラージャ(王)などの王号を名乗ります。サータヴァーハナ/サータバーハナ朝の王位継承は父系ですが、アーリア系の北部と違って、ドラヴィダ人の母系家族制の影響があります。例えば、ガウタミープトラ(Gautamīputra ガウタマ家の女性の息子)のように、母系の出身家名を王名とするんです。面白いですね。入試には出ませんけど。
南部には前期チョーラ朝があります。
セイロン島には、アーリア系のシンハラ国があって、ドラヴィダ人と争っています。
BC2世紀末になると、インダス川下流にサカ族が勢力を拡大していきます。
BC28年、シュンガ朝マガダ王国が滅亡し、サータヴァーハナ朝/サータバーハナ朝アーンドラ王国が支配地を拡大します。最大版図はガンジス川までです。
この時代、権威の落ちていたバラモンが勢力を拡大させていきます。そのために作ったのが「マヌの法典」です。人類の始祖であるマヌが語る形式で、バラモン教徒(このころから少しずつヒンドゥー教になっていきます)のヴァルナごとの規範を書いたものです。例えば、人は火葬すべし、人は死んだら月の世界に行く。未亡人/寡婦は自死せよ(サティと言われる規定です)。BC2世紀中ごろから記述を開始して、AD2世紀に完成したと言う学者がいます。
仏教のほうもBC2世紀後半、ボーバール(アジャンタ近郊)のサンチー/サーンチーに大仏塔を建てます。これは現存する最古の最大級の仏教建築物です。ドーム型と言っても、上部は平たいので、受験生は「お碗を伏せた形」という記述を目にすることが多いでしょうね。この塔は仏舎利を納める卒塔婆/ストゥーパです。五重塔も卒塔婆です。
BC2世紀末、バクトラ人またはトカラ人に滅ぼされたバクトリア王国の遺民であるギリシア人が、アフガニスタンやパキスタンあたり、歴史的インドの北西部で、仏教へ改宗します。歴史的インドとは、インド共和国と違って、世界史で言うインド地方なので、バングラデシュ、ネパール、ブータン、パキスタンも含む表現です。このギリシア人仏教徒によって、ガンダーラ地方にガンダーラ美術が生まれるんです。主にギリシア風の顔や衣装の仏教美術を言います。つまり、衣は厚くって、100mランナーかラグビー選手のようにムキムキの筋肉質です。
ガンダーラ地方は時代によって範囲が変わりますが、プルシャプラ以北と言う学者がいます。但し、ガンダーラがなまったカンダハルはもっと南にあるんです。カンダハルは、アレクサンドロスがなまった名前だと言う学者もいます。アレクサンドロスはペルシアではイスカンダルと言うので、カンダハルも似ています。むしろ、カンダハルがなまって、ガンダーラと言われているのかなと思ったりもします。よくわからなくなってきました。
□□中央アジア
匈奴、北部にスキタイがあります。スキタイは衰退中で、実質的にはBC4世紀に滅んだと言う学者もいます。
匈奴に追われて西に移動した月氏は、他の4つの部族と協力してアム川流域に大月氏を建てます。その部族の一つはクシャン/クシャーン/貴霜人でした。
BC2世紀半ば、前漢が匈奴を挟撃する企図で、張騫を大月氏へ派遣してきました。張騫は匈奴に捕らえられますが脱走した後で、大月氏へ到着します。けれど、以前に匈奴に追われてソグディアナに逃げてきた大月氏にしてみれば、もう関わりたくないので、この誘いを断ります。そして、月氏はBC2世紀末になると、アムダリヤ(アム川。ラテン語ではオクサス川)を越えてアフガンに侵入していきます。
BC129年、匈奴は前漢の支配地へ侵入しますが、漢の衛青に撃退されて、オルドスを奪回されてしまいます。BC2世紀末には、匈奴は前漢の霍去病に敗れてしまいます。
漢はオアシス地域にも進出し、河西回廊に二つの関所(玉門関.陽関)、四つの郡(敦煌郡.武威郡.張掖郡.酒泉郡)を設置します。河西回廊は蘭州から西寧より北、ハミまでの祁連(ぎれん)山脈沿いの通路のことです。
前漢が匈奴を挟撃する企図で、張騫を烏孫へ派遣します。大宛/フェルガナは前漢に服属します。大宛の有名な特産品は汗血馬です。血が汗になるまで走ると言われる名馬で、東アジアの小型馬よりも大型なので荷物も多く載せられるし、人が乗っても長く走れるんです。漢は軍馬としてもこの馬を欲しかったんですが、大宛が断ったので、属国にしたんです。こうして西域国/オアシス都市国家が続々と前漢に服属していきます。匈奴は交易路を失って衰退していきます。
匈奴の弱体化、西域が漢に服属することで、前漢の支配地が仏教普及地に拡大します。前漢にも仏教が伝来したと言う学者がいます。最初は西域の人が口伝して、経典はまだ伝わっていません。入試では後漢の時代に初めて伝わったというのが主流です。教科書に最新の研究成果が取り入れられるのには10年以上かかるので、受験生はそれを理解しておきましょう。
こうして東西の交通路が確立していきます。”シルクロード/絹の道”とはよく聞きますが、ドイツの地理学者リヒトホーフェンが1911年に出版した本「中国」の中で名付けたものです。オアシスの道、オアシスロードのほうが、歴史学では一般的のようです。東西の交通路には他に、モンゴル高原を突っ切る「ステップロード/草原の道」があります。青銅器、鉄器、馬具などを伝えた道だと思います。のちに中国からマラッカ海峡を通り、インド洋に出て、中東に到る「シーロード/海の道」もできます。
難関大学だと、オアシスの道にあるオアシス都市も出題されます。基本的には4つの道があります。
①天山北路-東の伊吾(21世紀のハミ)・高昌/トゥルファン・西のウルムチへとつながります。
高昌は都市ですが、郡が置かれたり国家になったりもします。のちにモンゴルからやってきた柔然が高昌郡を滅ぼして、漢人の王を立てたのが高昌/トゥルファン国です。
②天山北道/後の天山南路-敦煌・伊吾(21世紀のハミ)・高昌/トゥルファン・亀茲/クチャ・姑墨/アクス・疏勒/カシュガルへとつながります。
③天山中道。-敦煌・楼蘭・亀茲・アクス・カシュガル。
楼蘭近辺のロプノール湖が移動したので、後に絶えた道です。
④天山南道/西域南道-敦煌・鄯善/ミーラン・且末・于闐(うてん)・莎車/ヤルカンド・カシュガル(タリム盆地/タクラマカン砂漠南)へと至る崑崙(こんろん)山脈沿いの道です。
于闐はホータンとも言います。中国で玉(ぎょく)と言えば、ここが産地です。軟玉が崑崙山から川を流れ、平原のオアシス都市付近で川底にたまるので、それを掬うんです。山腹からの採取は難しいそうです。
ややこしいからやめてほしいのですが、②天山南路に、③天山中道、④天山南道を含む学者もいます。受験生はそこまで考えなくていいと思います。受験生でよかった。
ここまでは西域です。
カシュガルの先にパミール高原があって、急に上ります。タクラマカン砂漠も終わります。そして、フェルガナ盆地があって、タシケント、サマルカンドがあります。南へ折れるとカブール、ガズニ、カンダハル。バーミヤン、ガンダーラのカイバル/ハイバル峠を越えてインド北西部のパンジャブ地方へ通じています。
タクラマカン砂漠とほぼ重なるタリム盆地から、アムダリヤ、シルダリヤに挟まれた土地/ソグディアナにかけては砂漠ですが、川が流れています。前漢が技術指導した地下水路(イランに多いカーレーズは中国にも見られます)や、井戸水を使えるオアシス都市国家が商売と農業の並立で自立もできます。
馬は元々は食べて、馬乳を呑んで、皮をはいで服にしたんですが、乗馬するようにもなります。ロバ、ラバもいます。ラバはロバと馬の混血で、耳が大きくて、おとなしい性質です。
ヒトコブ駱駝は荷物を載せるのに適しています。フタコブラクダは人が乗るのに適しています。ヒトコブ駱駝は220kgを乗せて、日に30‐40km進み、時速は4―5km/hだそうです。長いまつげ、閉じられる鼻で砂塵に強いし、馬と違って障害物があってもよけて遠回りすることなく、砂丘でもまっすぐ進み乗り越えるので、道に迷いにくい性質があります。鼻もきくので、次のオアシスの人や、食べ物の匂いを嗅いで進むようです。次のオアシスがあまりに遠い場合は、子駱駝を埋めておくと、帰り道にその匂いを辿って戻るそうです。こぶに脂肪をためて、水を飲まなくっても、そこから栄養補給できます。馬と違って、駱駝に慣れていない人でも、こぶの大きさを見ればどのくらい駱駝が消耗しているかわかるし、水を飲めばすぐに復活します。馬の蹄と違って、足裏の表面積が大きいので、砂に足を取られにくいし、バランスも崩しにくく、荷崩れしないのです。「沙漠の船」とはよく言ったものです。荷物満載の行きは人は歩いて、銭と替えたので荷物のない帰りは人が乗れます。荷物があっても行きと比べれば少ないので、幾人かは乗れます。万能です。
オアシスの道を馬、ロバ、ラクダ、ラバの入り混じった隊商が往来します。隊商は、ペルシア語で「巡礼団」「騎兵隊」を意味するキャラバンと言われます。基本的にはオアシスの都市は自給自足できるので、隣の都市まで月に数回、ラクダが二頭くらい往来するのが一般的でした。10頭以上のキャラバンは、漢の軍隊、施設が往来する時だけです。だから実際はオアシスの道と言っても、大規模な交易路とは言えません。
クロライナには14000人が暮らしています。ここには楼蘭(ろうらん)国があります。都はミーランという説が有力です。楼蘭は、BC108年、漢に攻められました。このときは守り抜きましたが、匈奴にも人質を出しています。BC77年、漢が占領して鄯善 (ぜんぜん)と改名させ、印章も与えています。つまり、属国化です。漢に王子を人質に出して、漢の軍が駐屯して、漢の貨幣である五銖銭も出土しています。
中国の王朝から国名(例えば朝鮮)をもらって、印章(例えば日本の「漢委奴国王」金印)も受けることは冊封体制に入ったことを意味します。
BC73年‐BC49年在位の漢の宣帝は、西域都護という役職を設置します。部署名は都護府です。駐在所ですね。
BC54年、匈奴は東西に分裂します。そのうち、東匈奴は前漢に服属します。西匈奴はBC36年に西域都護に滅ぼされます。
BC48年-BC33年、漢の元帝は、王昭君という女性を匈奴の単于のもとへ送ってきました。漢と匈奴は縁戚関係となります。
BC48/47年、東匈奴は南北に分裂します。北匈奴は西方へ移動します。この北匈奴がフン族の元になったとする学者もいます。南匈奴はのちに八王の乱に介入し、劉淵が独立国(のちに前趙と呼ばれます)をつくり、五胡十六国時代へとつながっていきます。
遊牧民は天気を読んだり、どこに牧草地があるかを考えて常に移動する生活なので、王に従って行った先に牧草地がなければ、王は信頼を失います。だから王は何も強制できないし、従わない人は群れを出て自分の信じる方へ行けばいいだけの話です。羊や山羊は子を産むので、また増えますしね。出ていかれた方も一時的に羊や山羊が減るだけです。
誰を王にするかも話合いです。推薦してもらって王になるので、権力は強くありません。他の者が王にふさわしいと思って、決着しなければ分裂するだけです。国民や国家の意識などないし、国境もなく、所有地もないので、自分が選んだ王と共に自由に移動します。国境を持ち所有地のある国家にいる農民はそうはいきません。この王の言っていることはおかしいと思っても、また別の王を選んでも、自分の農地を捨ててはいけないし、新たな土地を農地として開拓するのは手間がかかります。収穫は一年後なので、その前に飢え死にするからです。土地を囲い込んで別の国を建てたら、元の王は所有地が減るので許さないでしょう。戦争になります。だから、農耕国では王の力が強いんです。
□□東南アジア
BC111年、前漢の武帝が北ヴェトナムに遠征してきます。そして、三郡を設置します。九真郡・交趾郡・フエに日南郡です。中国南部にも南海郡.蒼梧郡.合浦郡.鬱林郡.珠崖郡.儋耳郡を設置しているので、これらの九郡を合わせて南越9郡、南海9郡と呼びます。
□□中国
北部から漢を圧迫していた匈奴に対して、従来は公主(こうしゅ。大奥や皇族の女性)を嫁がせるなどして、懐柔していました。
前漢の第7代皇帝の武帝(BC141年-BC87年在位)は北部から漢を圧迫していた匈奴に対して、富の源泉/関税を断つため、オアシス都市に対し使節を派遣し、朝貢を促しました。
BC139年-BC126年に張騫(ちょうけん)が派遣されていますが、途中で匈奴に捕まってしまいます。そのおかげで西域の詳しい情報を持ち帰れたのではありますが、怖いですね。
また、武帝は匈奴に遠征軍を派遣します。
匈奴の侵入に対し車騎将軍と称される衛青が撃退に成功します。BC127年には、衛青が匈奴への反攻を開始します。匈奴を黄河以北に追いやって、オルドスを奪回します。また、BC121年には衛青の甥で、驃騎将軍と称された霍去病(かっきょへい)の攻撃で河西回廊を支配しました。そして、敦煌(とんこう)郡、武威郡、張掖(ちょうえき)郡、 酒泉郡、など河西四郡を設置します。これで、オアシスロードが中国からパミール高原まで組織的、公的、大規模につながったので、交易が増えます。以降は、西域(パミール高原よりも東のオアシスロード)経由でザクロ、うまごやし、葡萄が入ってきます。また、思想や宗教なども伝来します。東西の交易が増えると、互いの情報も入ります。当時、中国はヨーロッパから"セリカ"と称されたそうです。CHINAは秦/CHING/シンに由来するんですけどね。セリカ、由来は何なんでしょう。
因みに秦、新、金、清とった歴代王朝もCHINGです。アイシンカグラ・ヌルハチさんがアイシンという国を建てますね。漢字にすると金(歴史学では後金と言います)/CHINGです。これを清/CHINGと改称したのも、漢字の発音は同じだからだと思います。愛新覚羅(あいしんかぐら)は万葉仮名のように、音が同じ漢字で書いたものです。清を満州語では何と発音するのかは知りません。
BC115年 再び張騫が派遣されます。西に移動した烏孫には河西に戻ってほしいと頼み、匈奴を挟み撃ちしようと頼むために大月氏に使節として派遣されたんです。結局、説得できませんでした。大月氏からすれば、すでに西のほうで安定した勢力を築いているので、敢えてそんな冒険はしたくなかったのかもしれません。
BC112年、武帝は中国の南部に勢力を持っていた南越を攻め、都の広州市を落とします。BC111年、南海郡を再設置します。秦の時代にもありましたね。他にも、あわせて六郡を設置します。南海郡のほかには、出題されることがたぶんない蒼梧郡・鬱林郡・合浦郡・珠厓郡・儋耳郡があります。
南越は、中国から見れば南の越(異民族のこと)で、南越と呼んでいるです。南越国の自称が南越なわけではありません。越はヴェトナムをさすこともありますが、南越は南ヴェトナムにあったわけではありません。南海郡は21世紀の中国の領土内にあって、日南郡は、21世紀のヴェトナム領土にあります。
BC111年、ヴェトナムの北部に侵攻します。そして三郡を設置します。交趾郡・日南郡・九真郡です。)この合わせて九郡を南海九郡、南越九郡と言います。
BC108/107年、衛氏朝鮮を滅ぼして、四つの郡を設置します。楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡です。楽浪郡の中心都市は平壌です。
BC104/102年、李広利の遠征でフェルガナ盆地にあった大宛が漢に服属します。入試では、大宛の代表的な特産物出題されます。汗血馬です。サラブレッドのように大きくはありませんが、日本、中国、モンゴルにいるやや大きめのポニーともいえる馬と比べれば、大きかったようです。大きい馬なら武具をつけて乗っても長く走れますもんね。
郡の設置は郡県制の拡大です。皇帝の直轄地が増えることを意味します。西域では四つの郡を設置したほかは、オアシスの都市国家が漢に服属するので、封建制の拡大です。周辺の勢力に対して中国皇帝に仕える王として認めた=冊封体制(さっぷう/さっぽう/さくほう)が次第に拡大してきたと言えます。
内政では、武帝が呉楚七国の乱を鎮定します。反乱を起こさないためには、やはり中央集権化して厳しく統制したほうがいいと考えました。武帝は諸侯の力を削ぐ目的で、徐々に郡国制をやめ実質的に郡県制にしていきます。これは廃藩置県と同じ意味を持ちます。
日本の幕藩体制≒前漢の郡国制は、幕府/漢王朝の直轄地と、大名/諸侯の持つ国が並立していました。郡県制は国(藩)をやめることです。王家/政府が直轄地を持ち、他は県にします。具体的には二つの方法を取りました。
①中央から各国に丞相を派遣して、その権限を強くします。各王の権限を縮小します。ニュージーランドやカナダの首相の上に、英国の総督がいる制度に似ています。もちろんニュージーランドやカナダは独立国ですけど。
②推恩の令(すいおんのれい)。令は命令のことです。諸侯の力を削ぐ目的で、長子相続制の禁止を命じました。たぶん子供が4人いたら25%ずつの分割相続にさせたんだと思います。相続のたびに土地、人員が分割されて減りますし、相続争いが起きれば、内乱で衰退したり、それを口実に領地を取り上げることもできます。
各国の王である諸侯ほどではありませんが、地方には力を持つ豪族もいます。彼らの力も削ぎたいので、
①吏制(りせい。官吏の登用制度。役人の採用制度)として郷挙里選(きょうきょりせん)を行います。この制度は地方の豪族が、中央の役人になる者を地元から推薦するものです。地元の優秀な人を豪族ならわかっているだろうと言うことです。けれど、実際には地方の豪族と中央の官僚が結託して、示し合わせて都合の良い人物を推薦しました。また、採用/登用されて役人になった人は、自分は地方の代表者だという意識が強いので、地方への恩返しに熱心になってしまいました。日本の小選挙区制と同じで、国の代表という意識が薄いんですね。地元という言葉をよく使います。地方の人からワイロを受けて、中央の政策をその地方にとって都合のよいものに替えるから役人が腐敗しやすいんです。例えば、21世紀なら地元に鉄道、駅、道路、橋を作ります。国益にはならないのに地元を優先する、視野の狭い私利私欲の政治になりがちです。地方の代弁者による名前だけの国政ですね。
これを解決するために、魏はこの制度をやめて、九品中正(きゅうひんちゅうせい)法/九品官人法を考え出しました。地方の豪族と切り離すために、中央の役人が中正(地方への偏りのない)の人物を指名するようにしたんです。これはうまくいきませんでしたけど。それで隋の選挙制、唐(高宗)の科挙(1905年まで続きました)へと変化していくんです。中国の役人採用制度の歴史は、東アジアでは模範になるので大切です。もちろん入試でも出題されています。
②漢を除く王国を封土を付与したので封国と言います。封国を含めて全土を13州に分けて、刺史を置いて、官吏と豪族の癒着を監視しました。
③武帝は董仲舒の献策(けんさく。アイディアを申し上げること)で、限田策を採用します。これは奴隷禁止、土地所有の規模制限です。大土地所有者の豪族化を抑制して、自作農を維持します。税金の歳入を維持する目的もありますが、武帝は実施はしなかったと言われています。哀帝はBC7年に発布しましたが、反対されて実施はしませんでした。
紀元前のアテネにおける土地所有制限にはリキニウス・セクスチウス法がありました。奴隷禁止は西洋では19世紀です。こうした比較も難関大学の論述で出題されます。
その後の、西晋の占田法・課田法、北魏の均田制は土地を公有としました。隋・唐の前期までは、どうにか豪族が大規模所有地を拡大することを抑制しようと、様々な策が盛んに考えられたんです。大土地所有者が高級官僚になって世襲していくことで貴族になっていきます。唐の後半に私有地を容認することで終わりましたけどね。こういう歴史も出題されます。
中央統制として、武帝はBC115年頃、自分が即位したBC141年の一年前までさかのぼって、BC140年を建元元年と定めました。建元は、元号を建てると言う意味で、これが中国初/世界初の元号です。中国では一般には年号と言うそうです。元号を替えることを改元と言います。元号と言う制度は、皇帝が時間を支配する意味合いを持つんです。時間は朝、夜などと太陽が決めています。太陽に従って、人は一日を24時間に区切ったりもします。こうした区切りをすることも人が時間を支配することです。地位の高い人にしかできないことですね。庶民が「私の朝8時はあんたの朝10時だね」と言ってばらばらの時間に待ち合わせをすることはできませんよね。皇帝や王が決めた時間を、庶民は守らねばならないのです。明の時代に一世一元の制を定めるまでは、一人の皇帝の在位中にいくつもの元号がありました。不吉なことが起きたり、起きそうなときに気分を一新するために改元するからです。中国の冊封体制下にあった各国は中国の元号を教えてもらい、同じ元号を使っていました。これをやめて、その国だけの元号を作ることは独立ですし、皇帝/天子を持つ国だから対等だという意識になります。のちの時代には朝鮮やヴェトナムや渤海、オアシスのトルファンなども独自の元号を用いていました。日本は645年/大化元年からはじめました。21世紀に元号を使用している国は日本だけです。
①数がどんどん増えていく西暦、②60年周期で元に戻る干支(えと)、③任意の時にぱったり終わり新しいのが始まる元号、こういう人間が決定する年の記録法を「紀年法」と言います。それに対して、「暦法」は太陽を基準にして一年を数える方法です。
董仲舒(とうちゅうじょ)は儒学者です。彼の献策(アイディアを出すこと)で儒学を官学化します。官吏になるならば、必修の学問ということです。のちに官吏になりたい人が、科挙で儒学を学ぶことにつながっていきます。儒学の官学は清の末期まで約2000年間続くので、諸子百家のうちで儒家が勝利したことを意味します。儒家以外に法家、縦横家などが競った諸子百家時代の終わりです。漢は国営の学問所をつくり、「詩経」「書経」「易経」「春秋」「礼記」の儒教の五つの経/経典を教材として、一人一経を専門に指導する五経博士(ごきょうはかせ)という役職を設置し、知識人がその役に就きました。博士という役職は秦の時代からありました。秦では法家が官学でした。儒学の有名な9つの経典を四書五経と言いますが、漢代には、まだ四書というくくりでは経典として選ばれていません。
儒教の経典(この時代は五経)の文字の意味を研究して解釈する学問を訓詁学(くんこがく)と言います。その成果を解説書(注釈書)、辞書などの形で残します。
国学は、国民みんなが学ぶ学問です。官学は官吏(官僚)になるための教養です。官学は科挙などの試験と結びついていきます。20世紀初頭の中華民国では孫文の「三民主義」が官学と言えます。中華人民共和国では「マルクス・レーニン主義」、中ソ対立以降は「毛沢東思想」へ移ります。形式的で実体がないとは言え、2017年以降の「習思想」はこの末端にあると学者は考えています。
訓詁学(くんこがく)の分野からは、漢代に公羊学(くようがく)が生まれます。講師が編纂したと言われる「春秋」の三大注釈書「春秋左氏伝」「春秋穀梁伝」「春秋公羊学」のうち、「春秋公羊学」が一番重視されたんですね。つまり、漢王朝にとって最も都合の良い解釈が書いてある本を選んだということです。
注釈書は解説書、参考書のことです。戦国時代の各国の王が、自分が周王朝に替わって中国の統一王になるために、「春秋」に自分にとって都合のいいことが書いてあると主張するために、家臣に書かせたようです。孔子は巫女の血筋を持つから、孔子の書いたことは預言になります。孔子が「渭水の流域に都する王が統一王になる」と書けば、実現したときに、「ほらやっぱりね、孔子が書いた通りだ」と受け入れられやすいですもんね。儒学を官学化しているので、その始祖が予言したことでもあるので、王家の正統性も認められそうです。
公羊学は、今文(きんぶん)派と古典派に分かれています。
秦の焚書で、儒学の経典は全て燃やされたと人々は考えました。秦は15年で滅んだので、漢が成立して、まだ経典を覚えている人はたくさんいます。その人たちから口伝、筆写で、経典を復活させました。今の時代の新版の経典だから今文と言います。つまり今文は、前漢以降の儒学の経典のことを言います。古典派は焚書されずに残っていた経典が発見されたので、形成されました。後漢の時代に、馬融の弟子となった鄭玄が経典を集成します。これが訓詁学の大成(その時代の完成)と言われる出来事です。後漢では、王充(おういん)が「論衡」という本を書いて、儒教の非合理性を批判もしています。官学を批判するなんて勇気がありますね。
儒教と儒学の違い。
孔子の創始した儒教の概念を信じて、実践すると儒教です。これを学問として扱うなら儒学です。キリスト教徒でなくても、キリスト教神学として研究することはできますよね。それに近いと思います。
論述で出題されるのは、漢とローマという同時代の強国の比較です。漢の思想面での中央統制が儒学の官学化です。比較として共和制ローマでは神々はいても思想、宗教の統一はありません。帝政ローマになると皇帝崇拝を強要して、それを拒否するキリスト教を弾圧します。漢は支配域への市民権の拡大はありません。ローマは市民権の拡大があるので、参政権を持ちます。漢のトップは皇帝で、独裁的な専制政治です。共和制ローマは市民の代表ともいえる民会、元老院がある共和制です。漢とローマの共通点は多民族国家で、農業が基盤ということです。ローマは天水、漢は灌漑が主ですけどね。
もっと知りたい人は「比較国制史研究序説」(鈴木正幸他編)という本を読むといいと先生が言っていました。ローマの人口は約6000万人で官僚が約300人、前漢末の人口が約6000万人で官僚は約13万人。 宦官を中心としてですが、官僚制が発達していたと分かります。ローマは皇帝、形骸化していく元老院などが政治を担っているので、即断即決ができますが、庶民生活を緻密に調査することはできません。漢は官僚が多いので、かなり細かく庶民の生活を調査できたと思います。
金属製の物を作ることを鋳造と言いますが、武帝の命令で、BC118年に桑弘羊(そうこうよう)が五銖銭(ごしゅせん)を鋳造します。人工的な貨幣です。重さは変わりますが隋の時代まで、中国の貨幣は五銖銭と呼ばれることになります。受験生は、隋までの貨幣の名称の標準になったのは何かと出題されたら、五銖銭と即答できるようにしましょう。貨幣の統一も中央集権の証です。秦が鋳造した半両銭を廃止したのも武帝です。貨幣で暮らしていない農民は、五銖銭での納税を命じられても簡単に手に入れることはできません。土地を売って小作人になります。そうすれば納税しなくていいからです。こうして大土地所有者と小作人という格差が拡大していきます。それを抑制するための限田策なんですが、反対が強くて実施できませんでした。
戦争の多い武帝の時代にあっては、お金がいくらあっても足りません。だから、貨幣をいくらでも作れるということは必要だったんです。
また、武帝は売位売官を実施しました。つまり、お金で地位・職を得ることができるんです。能力のない人が職に就くことになりますが、大金を積まないと高い地位にはなれないということは、高位の者はお金持ちということです。つまり、賄賂を得たり、お金のために政治を行うことは避けられるかもしれません。世界史上、資産のある人だけが政治家になれる/被選挙権を持つことはよくあることです。お金がない政治家は給与/歳費をさらに出世するための私利私欲のために使いがちで、それを避けるためもあります。
戦費を賄うために貨幣の鋳造をしたり、売位売官をしたりもしましたが、財源確保のためにしたことは他にもあります。
商人への課税強化。資産税である算緡銭(さんびんせん)は店舗などの財産に課税したもので、通行税である算車銭/算車緡銭は所有する車に課税したもので、没収目的の告緡令は脱税者の財産没収と辺境での兵役です。
塩・鉄・酒の専売。塩は全て国家が買い上げてから販売し、鉄は国営工場で生産し販売します。その収益は国庫に入ります。塩も鉄も必需品なので、みんなが買います。だから税金が入るというわけです。
酒の専売に関しては反対派が多くいました。桓寛は「塩鉄論」で、その様子を記録しています。武帝は専売賛成派と反対派を呼び寄せて論争をさせました。専売反対の民間業者や儒家に対して、桑弘羊や孔僅などの中央官僚は賛成を主張して、後者が勝利しました。結局、官僚は恨みを買い殺されてしまいました。そして酒の専売だけは廃止されました。のちに米国の禁酒法もすぐ廃止されますが、お酒は簡単にやめられないし、恨みが深いというのが歴史の教えるところです。
均輸法は物価調整が目的で、安いところから政府が買って、それを高いところに運んで、安く売る政策です。平準法は物価安定が目的で、安く買っておいて、高値の時に安く売ることで物価を下げる政策です。どちらも税金の安定化策でもあります。
宋の時代に王安石が均輸法を実施します。入試では、王安石は平準法(誤文)、均輸法を(正文)実施したなどと出題されます。平準法は武帝の時代だけです。先生は教えてくれますが、参考書にもこういうことが書いてあればいいなあと思います。
専売制と重税は次第に農民の生活を圧迫していくので、農民の反発も強まって社会不安が増大していきます。武帝亡き後の時代には、カリスマ的な皇帝は出ないので、宦官と、外戚(皇帝の妻一族)が権力争いをするようになります。腐敗が蔓延して、農民は没落して小作人になって、彼らを抱え込んだ豪族は発展して、流浪民が増えて、盗賊が跋扈する世になっていくんです。
通史は全時代を通じた歴史です。21世紀に書くのなら、700万年前から21世紀までを書くのが通史ですね。他に文字の歴史などのテーマ史、日本史などの地域史、神聖ローマ帝国史などの断代史などがあります。
中国の歴史書には伝統的に三種類があります。
①紀伝体
本「紀」と列「伝」を合わせたものです。時代が下ると、「世家(せいか)」、年「表」・人物表や、諸制度を記した「志」が付録するようになりました。つまり4つのテーマ史からできています。教科書体と同じとも言えますね。通史でなく、一つの時代だけを書いたものでも紀伝体と言います。皇帝の事績を記した年代記を「本紀」と言い、重要な人物(臣下、外国の事情)の伝記を「列伝」と言います。諸侯の歴史を「世家」と言います。世襲の家なので、諸侯を世家とも言うからです。
中国初の紀伝体の正史は「史記」です。正史は、皇帝が命じたり、皇帝や王朝、政府によって認められたものを言います。公式の歴史書です。つまり、時の権力者にとって都合よく書かれているものです。
「史記」は、前漢の時代に司馬遷(しばせん)が儒学的立場から書いたもので、テーマ史を全時代分寄せ集めたものです。「史記」は三皇五帝のうちの黄帝から武帝のBC122年までの通史で、その中には「殷本紀(いんほんぎ)」などを含みます。紂王など、殷の皇帝の事績ですね。日本の元号である「平成」の由来は、「書経」の他に、この「史記」にある内平外平の文言にあります。
因みに司馬遷は李陵将軍を弁護したことで、宦官にされたことでも有名です。つまり生殖器を切り取られ、女性でも男性でもない官吏にされたんです。これで皇帝の妻や妾に手を出さず、自分の子孫を皇帝に付けようなどと企むこともないから信用できるわけです。実際は恨みもあるでしょうし、気に入った人物を皇帝に付けようという考えもあるでしょうけれど、実は皇太子は皇帝の子ではなかったということは避けられます。秀頼は秀吉の子ではなく、石田三成の子だという噂が出るのも宦官なら避けられるんです。
②編年体は、漢代ではありませんが、例えば司馬光の「資治通鑑(しじつがん)」が有名です。年表風の歴史です。
③断代史は、例えば後漢の時代に班固が書いた「漢書(かんじょ)」があります。一つの王朝/時代に絞ったテーマ史です。但し受験生は「漢書」は紀伝体の完成と憶えましょう。紀伝に加えて、表も志も揃っているからです。つまり紀伝体であり、断代史なんです。
王族の劉安は、道教を中心に、儒家、法家、天文、政治、人生訓を集めた思想の百科事典で、神話で、処世術の「淮南子」(えなんじ)を著しました。始祖劉邦(高祖)の孫の淮南王である劉安です。名字が同じなら皇帝の一族と考えて、受験生は差し支えありません。
「淮南子」(講談社学術文庫)、「淮南子の思想」(講談社学術文庫)などの本があります。
BC73年‐BC49年在位の宣帝は、西域都護という役職を設置します。部署名は都護府です。駐在所ですね。
BC54年、匈奴は東西に分裂します。そのうち、東匈奴は前漢に服属します。
BC48年-BC33年、漢の元帝は、王昭君という女性を匈奴の単于のもとへ送り、縁戚関係となります。
□□朝鮮半島
衛氏朝鮮は、冊封体制に入っています。つまり、中国皇帝に仕える王として認められた周辺国です。
BC108/107年、理由を知りませんが、武帝の時代に漢(前漢)が侵攻し、衛氏朝鮮を滅ぼします。そして、四つの郡を設置します。楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟(げんと)郡。
らくろうしんぱんりんとんげんと、と呪文のように一つながりで憶えましょう。楽浪郡が一番大事です。だから最初。楽浪郡の中心都市は平壌です。反時計回りのほうが語呂がいいと思います。徐々に廃止されていきますが、最終的に楽浪郡だけが残って、ミラノ勅令と同じAD313年に高句麗に滅ぼされます。
BC37年、満洲に高句麗が建国されたと言われています。史実として確認されてはいないのですが、ツングース系の扶餘/扶余から分かれた貊/貊人を率いた朱蒙が建国したと記録にはあります。五つの部族の連合国家だったようです。歴史学では一つの記録だけに書いてあっても史実とは言えません。これを裏付けるために、その時代の地層から遺跡、遺物が発見されるなどの考古学的な証拠か、信用できるもう一つの記録が必要です。
□□日本列島
農耕の始まった弥生文化圏でも、そうではない縄文文化圏でもシカやイノシシなどの狩猟、川魚、イルカ、クジラなどの漁労、木の実などの採集で十分に暮らしていける豊かな環境がこの列島にはありました。
21世紀の世界につながるもの、文字、都市国家、鉄器、街道、民主主義を先んじて生み出したところは、初例、典型例として書かれます。その必要がなかったところは書かれません。皆伝02で書いたように、生きるのに必要なものがなかったところではそうしたものを生み出しました。生きるのに必要なものがある地域、日本列島や古代のゲルマン人、南アフリカや太平洋に暮らす人は、同じ時代のローマや漢と違って、人工的な物をほとんど必要としない環境でした。そんな必要がなかったんですね。世界史の教科書や参考書にページが割かれない地域は自然の中で自給自足できることがほとんどなので、国家の形成などもゆっくりです。税金もないので文字もなく、法律もなく、明らかな身分制度もなく、大きな戦争もなく、革命もクーデタもなく生きていけました。人口が集中する都市もないので、感染症が大きく広がったり、変異することもほとんどなかったと思います。医者もいないので、大けがをすると死去する可能性はありました。気候が大きく変わるときには、飢えたり、移動を強いられます。けれど、社会的ストレスはほとんどなかったと思います。自然と共生していた時代と言えます。
なぜ人は人工物に魅力を感じてしまうんでしょうね。便利だからかな。便利な物を得るために先史時代の人よりも長く活動しなければいけないなんて、文化って何の意味があるんだろうって思います。
先生は「ライオンは週に二、三回少し走るだけで生きている。寿命は長いかもしれないが、都市部の人間は週に五日、8時間も活動してようやく生きている。人間は文化の奴隷みたいなものだ」と言っていました。
□□アメリカ大陸□□中米
繰り返しますが、アメリカ大陸の文明には金銀はあり、鉄はなく、移動用の車輪もないんです。出題されます。
早い時期に馬がいなくなったので、帝国ではなく都市国家が隣接地のみ統治します。
オアハカ盆地にサポテカ文明が継続しています。用水路もあります。金物は輸入しています。先生が「オアッ墓 サボってるか?」と憶えましょうと言っていました。
中米高地にテオティワカン文明が継続しています。
BC50年の火山噴火で、クィクィルコなどから人が去ります。21世紀のメキシコシティーあたりから移動した人々によって、テオティワカンが繁栄します。
テオティワカン文明には生贄、殉死の制度があります。マヤ人も居住していたようです。
テオティワカン文明ではケツァルコルトル、水神トラロック、チェルチウトリケ、植物の再生と関係がある(オシリスのような)シペ・トテックを信仰していました。軍神はいないのが特徴です。
グアテマラ太平洋岸では、イサパ文化の最盛期で、89の石碑のうち38に彫刻されています。土製の神殿ピラミッドの正面広場に配置されていて、こういうものを石碑祭壇複合と言うそうです。イサパ文化は石への浅い浮彫様式が特徴で神話的、歴史的な絵が入り組んだ図、空や点、大地や地下世界、神の仮面をかぶる人、放血儀礼、ワニやジャガー、ガムの原料チクルが採取できるサポジラの樹、格闘する人、首を切る人、香をたく人などが描かれています。
□□南米
この時代、宗教とは別に俗的権力が登場し、戦争も顕著になります。
ペルーの北海岸ではモチェ文化/モチカ文化が形作られます。
ビクス文化は、二つの壺がつながる双胴壺が特徴ですが、モチェ起源説もあります。エクアドルからは貝を輸入していました。ペルー地域の金属加工の技術、鉱山の交易を仲介していたとも考えられています。
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今回はBC133年-BC27年の世界を書きました。
次回はBC27年-AD184年の世界を書きます。
帝政ローマ、キリスト教の原始教会、クシャーン、後漢などの時代ですね。
次の皆伝10はこちらです。
https://note.com/kaiden_juken/n/n600d35847baa
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