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第90話 『雪の下に』(BJ・お題 『冬』)


 その老婆は冬の雪が降る最中に、近所にやる赤い屋根の屋敷の前の通りで鍵を落とした。
 ほんの不注意であった。ポケットをなにかの理由で改めた際に、ハンカチと一緒に入っていた鍵が落ちたのである。
 鍵は凍りついた路面に跳ね返った。そのまま氷上を滑走し、屋敷の軒下にまで行った。すると折り悪く、その上に屋根からの雪が落ちて大量に積もったのである。
 しばらく老婆は雪の降る中、おろおろしていた。あまりの大量の雪は、かきわけようがなかったのである。
 するとそこに若い男が通りがかった。恰幅の良い男であり、雪がちらついているというのに上着を着ずにピンクのセーターを着ただけであった。老婆を見かねて、そのままどこかの家から飛び出してきたようであった。彼はにこやかな笑顔を見せた。
 老婆はすがるように、鍵を落としてしまったことを伝えた。すると男は、
「鍵は春になるまで難しいかもねえ。でも家はどこ?なんとか開けてあげるよ」と言った。
 それから男は一度道具を取りに行くと言い、再びリュックを背負って現れると、老婆とともに家に向かった。
 老婆の家は、そのすぐ近くにある、一軒家であった。
 スペアの鍵などはないということを聞くと男は
「じゃあ裏口から入るよ。窓は少し割れるけれど、応急処置はしておくからね」と言って自分を裏庭に案内させた。
 それから透明のビニールテープを取り出すと窓に手際よく貼り、ガラスを割った。そこから金属の鉤のついた棒を差し込むと、要領よく鍵を回して開けた。
「さあ、これで入れるよ」
 老婆は男に感謝し、家の中に入った。

 ところがその翌日、老婆は空き巣に入られてしまった。スペアキーを持っていなかったので、鍵をかけずに外出せざるを得なかったのである。その間にお金を盗まれてしまったのだ。
 後日、息子たちが家に来て、鍵やら必要なものやらを整えくれることになったが、老婆はひどく落胆した。

 春になった。するとまた老婆の家に空き巣が入った。泥棒は鍵を開けて表から侵入したらしく、今度は家財をごっそりやられた。
 その頃には老婆はすっかり衰弱していた。夜になり、意気消沈して外を歩き、ついにうずくまってしまった。

 奇しくもその場所は、冬に鍵を落とした場所の近くであった。地面を見つめているうちに、老婆は気づいた。鍵を失くした翌日に空き巣に入ったのは、あの親切にしてくれた男だ。さらに彼は、春になってさっさとあの失くした鍵を見つけたのだ。

老婆が認知症になったのは、その瞬間であったという。


*              *              *


 串に刺したものにはけで塗る作業を繰り返す男(彼は人を殺した割り箸をホットドッグに入れてしまった)
 隣できょろきょろ見回し、前を覗き込む女(彼女は万引きをさせられた)
 引かれた手をほどき、その向かいに駆け寄ってしゃがむ女の子(彼女は鍵を雪の中になくした)
 「Cool」と、カメラのシャッターを切る男(彼はパパラッチをしつづけた)


「あっちはあんず飴を売っていて、あっちが焼きそば屋に並んでいて、金魚すくいを覗き込む子と、写真を撮っている外国人。祭りだね」
「しっ、よせよ」


 男の手にはなにもなく、何かを塗るような動きをしているだけ。
 隣の女は宙を見ているだけ。
 しゃがみ込んでいるのは子供ではなく老人でただ地面を見ていて、
 長身の男はカメラも持ってないのにシャッターを切る。
 一時間近く続く広場の光景。


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