第48話 『塗る』(BJ・お題 『仕事』)
(今回の話はBJの創作です)
自分は仕事をしていない。それでこんな年になってしまったが、これには理由がある。君だけには告白しよう。
それは、自分が就職面接に行ったときの話だ。これでも大学を出て、大手食品メーカーの面接に挑んだことがある。挑んだだけだけれど。最終面接を辞退したのだから、落とされたわけじゃないかもしれない。でも、最後まで面接を受けていても、やはり落ちたかもしれないけれど。
その会社の新卒採用試験は、寮に泊まって二日がかりで集団で行うというので有名であった。
一日目は、チームに分かれて金魚すくいをするという試験だった。その説明を受け、いよいよ始まるという直前の休み時間、トイレに行く途中のロビーで
「ええ?なんでいるの?」
と言われた。それは中学校でいっしょであった靖子であった。彼女も集団採用試験を受けに来ていたのである。
「あんた、N大に行っていたんでしょ。わざわざこっちに出てきたの?度胸あるー」
靖子の言うことはもっともだ。彼女は東京の一流大学に進学しているから、東京の大手企業の面接に来るのは当然だ。いっぽう地元の大学に通っていた俺はろくに就職活動もしていなかったが、兄貴が先に東京で就職をしていて、食品メーカーの『狩屋』なら大学を問わずに新卒を採用しているから就職できるかもしれない、と教えてくれたので、無謀にも受けることにしたのだ。
「あたし白樺寮だからさ。あとで情報交換しよ」
二人でLINEの連絡先を確認し、互いの健闘を祈った。
トイレで用を足していると、男達が話をしているのが耳に入ってきた。K大の学生らしかった。
「俺、白樺寮なんだけれどさ、なんか壁に節穴があってさ、隣の女子の部屋が覗けそうなんだよ」
「マジかよ」
実は靖子に気があった自分は、その話が聞き捨てならなかった。もしかしてこの男が覗けるというのは、靖子の部屋ではないのか?
一日目の集団採用試験が終わり、自分はすぐに靖子の元に行った。先ほどの話を靖子に伝えたのである。
「ええ?なにそれ。怖い。ちょっと、いっしょに見てくれない?」
自分は二つ返事で寮の彼女の部屋を訪ねることにした。
白樺荘は平屋の木造建築で、壁の木材は古かった。彼女は廊下の先にあるトイレに行くため、」一度部屋を出た。その間に僕は部屋を見回した。
壁の、僕の目の高さより少しだけ高いところに、穴がある。たしかにこの位置から覗けるとすれば、広く部屋を見渡せるかもしれない。
背伸びして穴の中を覗いてみた。
すると深くトンネル状になっていて、その途中になにか栓のようなものがつかえていた。
靖子がトイレから帰ってきた。部屋の入り口近くで手招きをしている。壁際を離れてそちらに行くと、小声で
「ちょうどあたしが今部屋に入ろうとしたとき、慌てて外から隣の男が帰ってきたよ」
と伝えられた。自分も靖子に囁く。「あれ」
壁を指でさす。
二人でそっと近づいてみる。すると、その穴の向こうに明らかに人がいる気配を感じた。
ゴソ。ゴソゴソ。
自分たちは顔を見合わせた。
少し壁から離れて「どうやら、ペットボトルのキャップで塞いであるみたいなんだ。それが動く音だと思う」と耳打ちした。
自分の推理はこうだ。午前中に荷物を部屋に置きに来た隣人は、壁に穴が空いているのを見つけた。だから後で覗こうと考えたが、逆にこちらにいる女性もまた穴を見つけてしまうと、そちらはそちらで穴を塞ごうとしてしまうかもしれない。先んじて塞いでしまえば、覗き穴の存在も知られずに済むかもしれない。タイミングを見計らってキャップを外そうと考えたのではないだろうか。
ここまでを聞いて理解した靖子は、すっくと立ち上がった。それから勢いよく、壁にある穴を叩いたのである。
すると突然にしんとしてしまった。それがあまりに静かで怖くなった。
おそるおそる自分が背伸びをして穴を除くと、栓をしていたキャップはなくなっていた。隣の部屋の向こう側の壁には鏡があって、それに反射して室内が見渡せた。
「男が、倒れている」
靖子も穴を覗こうとしたが、彼女にはちょっと高すぎた。
「行ってみよう」
「え」
いいから、と手を引かれた。
男は急いで部屋に入って覗こうとしたからか、隣の部屋に鍵はかかっていなかった。廊下にだれもいないのを確認し、二人は中に入った。
床の上には、昼間見たK大生が横たわっていた。やはりペットボトルのキャップが転がっていた。
「ねえ、それ拾ってくれる」
靖子が僕に拾わせたのは、もうひとつ床に落ちていたものーー割り箸であった。
「これでキャップをひっかけて手前に引き出そうとしていたわけか」
靖子は黙っていた。そのとき気づいた。彼女は勢いよく穴を叩いたせいで風圧がかかったのだろう。穴をぴったりとキャップが塞いでいた場合、空気鉄砲の原理で勢いよく飛んだはずだ。それで…
彼は驚いて倒れたか?怪我をした様子はない。頭のうちどころが悪かっただろうか。なんとなく、死んでいるような気がした。
「あたし、お風呂に入りに行くから。昼間もこいつに覗かれたかもしれないし、なんかこんなところにいて、ケガれたような気がするから。ケガれって、落とさないと気がすまないから」
靖子はひどく不機嫌そうな顔でそう言った。
「あと、その拾ったやつ、持って行って処分して。頼んだよ」
翌日、男は会場に現れなかった。やがて、彼が亡くなったということを知った。なんでも心臓が悪かったらしい。やはり、驚かせたショックで死んだのだろう、と思った。
後日、集団面接の一次試験の合格の通知が届いた。次は二次面接だ。だが、自分はそのハガキをしばらく見つめた後、ゴミ箱に捨てた。
ある日インターネットで、人間の体のことについていろいろ調べてみた。心臓の病気の中には脈が乱れる不整脈というものがあり、その中でも徐脈生の不整脈というものは、心臓が遅く動くタイプの不整脈なのだという。
もうひとつ知ったことは、アシュナー反射というものがあるということであった。目を強く抑えると、心臓がゆっくりしたり、止まったりするというのだ。
じゃあ例の男は、キャップといっしょに飛んできた割り箸が目に当たり、反射を起こして心臓が止まってしまったのではないだろうか?
その後、自分は地元のお祭りの出店のアルバイトをした。そんな仕事をしたことはなく、慣れなかった。でもやったのには目的があった。
出店はホットドッグ屋であった。そう言えば分かるだろうか?
そう。自分はあのとき靖子に持たされた割り箸を、ずっと持っていたのだ。
それを処分してしまいたかったが、なんだか怖かった。ありえないような妄想を抱いてしまったのだ。その割り箸が自分の手を離れてしまったら、それがある日証拠として警察に見つかってしまう、という。そんなことはないと分かっていても怖かった。だからとんでもないことを考えたのだ。
まだ分からない?ああ、そうそう。そのまさかだ。
ホットドッグに使う割り箸の中に、彼の目をついて殺すことになってしまった凶器である割り箸を混ぜたのだ。実は出店のアルバイトをする前に、そのホットドッグの仕込みの仕事もし、そこの割り箸の中に混ぜてしまっていた。
一度割り箸の束の中に混ぜてしまうと、今度はそれが気になってしまい、出店の仕事にも出てしまったというわけだ。客がホットドッグを食べる反応を見ては、バレてはいないということを確認しつづけた。もう例の割り箸はどこにあるか分からないのにね。
そのうち、濃い味付けをすれば異質な割り箸が混じっていてもバレにくいんじゃないか、などと考えて、ひたすらケチャップをつけてしまい、クビになった。
そのときのケガレの感覚がずっとぬぐえないんだよ。だから割り箸に刺さったものを見ると、こんなふうに、調味料をひたすら塗りまくってしまうんだ。