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第56話 『罪』(BJ・お題 『罪』)




 深夜の雷のせいで、気分が妙に高まっていた。ベッドサイドで流行りの戯曲などを手にしてみたが屋根を撃つ雨のノイズのせいで一向に集中ができず、うろうろと歩き回り始めたところで電話が鳴った。
親友のマイクからであった。二十三時を過ぎている。彼からこんな遅くに電話をもらうことはこれまでになかった。胸騒ぎがした。
 電話を取ると、その向こうに気配があるのは感じた。
「どう……したんだ」
 私はとっさの判断で、大きな声を出すのをやめた。マイクが、なんらかの危機に陥っているように思えたからである。すると「エェイィ」と人ならぬ獣が喉を鳴らすような音が聞こえた。だが伸ばした音は、明らかに彼の声だと思われたのである。耳を澄ませたが、雨の音がうるさすぎた。
 私は急いでレインコートを着込んだ。車に乗り込んで彼の家に向かった。
 悪い考えばかりが頭に浮かぶ。マイクは病気でうなされているのだろうか。ならばそれをたしかめた上で、すぐに救急車を呼ぼう。それとも、犯罪にでも巻き込まれているのか。ならばなんとしても助けなければならない。いずれにしても一刻を争うかもしれなかった。

 やがて私は彼の家の少し手前で車を止めた。彼を襲う何者かが家の中にいた場合を想定して、密かに行動することにしたのである。
 風雨の中、走って門をくぐる。部屋に明かりはついていなかった。暗くてよく見えなかったが、庭でなにか猫ほどの大きさのなにかが蠢いているような気がした。だが気のせいかもしれない。それより私は玄関の扉をそっと開いた。鍵はかかっていなかった。身をかがめ、そおっと中に忍び入る。
 友人の家であるが、電気をつけるスイッチがすぐに判らなかった。私は手近にあったランタンにライターで火を灯した。暗いリビングを炎の明かりが染めた。
 黒い大型犬でもいるのかと思った。すぐそこでうずくまっている者がいたのだ。
「マイク!」
だが彼は顔を挙げなかった。こちらに向けている背中が動いているので、息をしているのは判った。
彼は片腕をゆっくりと上げた。まるで錆びた金属製のかかしが機械油を切らして音を立てながらまっすぐな手を動かしているかのようであった。彼は机の上を指していた。
「どういうことだ。ああ、これを読めばよいのか」
 そのとき、薄暗い室内を、ネズミのような小動物がリズミカルに駆け回るような音がした。その正体を見極めたくもあったが、私は用心するだけにとどめた。彼が指し示した手紙を読むことが先決であった。

『親愛なるヘンリーへ。
 僕にはもう時間がない。これを書けるうちに書いておきたい。
 僕の体が、次々と私から離れていってしまっている。信じられないだろうが事実なのだ。君に先ほど電話したときには、すでに舌が私の口から飛び出してしまった。肝臓もーー肝臓というのは本当に肝臓型をしているのだねーー体から出て、庭を駆け回っている。もうすでに右手の親指も抜けていってしまった。手があるうちに書いておかなければならない。
 僕はこうなる理由を知っている。罪を犯してたからだ。どんな罪を犯してしまったかは君には言えない。ただ、ひとつお願いがあるのだ。
 僕はいずれ、体のあらゆる部分を失ってしまう。そのとき最後に残るのは心臓だ。その心臓は、僕そのものだと言っていい。それを君に持ち帰ってもらいたいのだ。親友としてお願いしたい。
 君の親友 マイク』

 そういうことであったか。さきほど庭で気配を感じたのは、彼の体の部分たちであったのだ。
 私はマイクに近寄ろうとした。そのときだ。
 キシキシキシ、という音がした。マイクの体が小刻みに震え、私は後ずさりした。
 彼の首の後ろに亀裂が広がった。そこから、長い背骨が、まるで脱皮をするかのごとく、踏ん張って飛び出そうとしていたのだ。気味が悪いのに目が離せなかった。
ついにそれが体から抜け切ると、サーっという音を立てて床を滑走した。
 マイクが立ち上がりそうなそぶりを見せたが、背骨を失った彼は、空気の抜けたゴム風船のように、地面に崩れて行った。そのとき、漆黒の闇が広がる口から「エェイィ」という、電話で聞いたあの声が再び響いた。
 そこまでが精一杯であった。私は庭に飛び出した。
 すると雨の中で、肝臓や胃袋といった臓器が、ケタケタと笑い声を立てて列を作って踊っていた。

*             *             *

 あの晩のことが忘れられない。
 私はマイクを見捨てたのだ。
 嵐の夜は雨の音とともに「エェイィ」というマイクの声を思い出す。あれは、「ヘンリー」と僕の名を呼んでいたのかもしれない。

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