特別な理由がない
今日も祖父の手紙を写している。
死因に特別な理由がない場合、その嘆きは穏やかになる、かもしれない。
ただ、祖父が亡くなった2年前は、コロナ禍の初期だった。
どんなに遠くに住んでいても、葬式には駆けつけるのが親族としては当たり前と思っているのだが、それができなかった。
こういう言い方は乱暴だが、コロナのせいで参列を拒否されたのだった。
当時、私は悲しい気持ちのやり場がなくて、同居の家族に対する怒りとしてぶつけてしまっていた。
それに気がついたのは、ずいぶんと後になってからだった。
誰かが亡くなった直後は、その人が残したものや思い出が、すべて愛おしいものである。
何かにつけて死者の面影を感じている。
手紙一つをとっても、文字の間違いやインクの滲みすら、死者の面影を感じるものになる。
つまり、失敗していることをかわいいとか、愛おしいと思い、そこに人間らしさを感じているのだ。
だから、失敗してもよい。
失敗できない現場にいる人や、リカバリが難しい立場にいる人も多い世の中だけど、もう少し、他人や現象におおらかな世の中であれば、もっとよいと思う。
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