第1回:決意表明のようなもの
はじめてnoteで文章を書く。
というより、不特定多数の人に向けてある程度の長文を公開すること自体がはじめてである。
第1回は、私の自己紹介と文章を書きたいと思った背景について述べてみることにする。
自己紹介
私のプロフィールは以下の通りだ。
名前:会長
職業:アラサーのサラリーマン
一児の父
趣味
読書:人文系の本が多い
将棋:四間飛車党、好きな棋士は藤井猛先生
カレー:マトンカレーが大好き
「人文系の本」についてもう少し深堀すると、興味関心がある分野は幅広く、
西洋思想
インド思想
仏教思想
批評
社会学
死生学
などの本を広く浅く読んでいる。
より踏み込んだ自己紹介は、今後機会があればしていこうと思う。
文章を書きたいと思った背景
なぜ不特定多数の人に向けた文章を書こうと思ったか。
それは「人生の中で立ち止まって考える時間」を皆さんに提供したいからだ。
「何を大それたことを言っているだ」と思う人が大半だろう。
私自身もそう思っている。
ただ、「お前が本当にやりたいことは、これなんじゃないか?」と何かが私を突き動かしているのだ。
「本当にやりたいことって何だろう?」
私はこの問いにずっと苦しめられてきた気がする。
社会人になってから仕事でも色々なことを経験したし、結婚や父親になることも経験した。
しかし、自分が心底やりたいことに打ち込めている感覚をずっと持てないで来た。
上司や同僚に仕事の上で感謝されても、妻や子どもと過ごす時間が楽しくても、「これじゃない」感が拭えないのだ。
「この状況を乗り越えるにはどうすればいいか?」
ヒントを得るために、私は過去に自分に大きな影響を与えてきた人/出来事を洗い出す作業をしてみた。
その結果、見えてきたのが「既存の物の見方や価値観をひっくり返すこと」に非常に惹かれるという傾向である。
例えば、私は藤井猛という将棋棋士のファンである。
藤井猛先生の魅力は数えきれないほどあるが(気になる方は調べてみて欲しい)、最も尊敬しているのは「それまでの常識を覆す戦法を編み出し、将棋の歴史を変えた」点である。
また、私が最初に読み通した哲学書はショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』であった。
難解なこの本に私を向かわせたのは、目次やまえがきに書いてあった(文言は正確ではないが)「世界の本質は意志であり、全ての生は限界を知らない苦悩である」「生きんとする意志を否定することが倫理である」という、常識破りな価値観であった。
この思想を理解したい、理解すれば今の自分とは別の視点が得られる気がする、というワクワク感であった。
加えて、そうしたオルタナティブな考え方に触れ、普段の生活の中で感じている違和感について「立ち止まって考える時間」に幸福を感じることも分かった。
妻や子どもが寝た夜に、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読みながら、あり得たかもしれない資本主義の別の形を夢想する時間。
駅前のカフェでコーヒーを飲みながら『バガヴァッド・ギーター』を読み、アルジュナの苦悩と自分の苦悩を重ねて考える時間。
世の中の濁流から少し外れた時間過ごすことが人生の幸福度を上げると感じるし、そんな風に感じる人が増えて欲しい。
そんなことを考えるようになった。
すると、自ずと自分がやりたいことの方向性が見えて来た。
「今の生活や世界に対して違和感を持っている人たちに対して、立ち止まってオルタナティブを考える場所/時間を提供したい」
このnoteはその1つの実践として、読者の方に「立ち止まって考える材料」を提供するような文章を書いていこうと思う。
直近ではインド哲学/文学やサンスクリット語に関心があるため、それらに関連する話題が多くなる想定だ。
最終的には、様々な人文学の知見を駆使して「既存の価値観に対するオルタナティブ」を考えるきっかけを与え続ける存在になりたいと思っている。
(そのためには、私自身の勉強がもっと必要だし、同じ志を持つ仲間との繋がりも広げる必要もある)
最後に
私の無謀な挑戦は始まったばかりだ。
そして、その無謀な挑戦を支えているのは「やりたいこともなくただ過ごす日々を終わらせなければ」という焦燥感と「自分なら世の中にインパクトを与えられる」という根拠なき自信である。
この名もなきアラサーサラリーマンの決意表明が、「よく分からないけど、面白そうなことを考えているやつがいる」と思ってくれる誰かに届いてくれたら幸いである。