ぼくの「しんこきゅう展 in la galerie」4
一体何時間カメラを回していただろうか。
個展前日の朝、
一定のリズムで揺れる車は、東名高速道路を走行しながら、大阪府にある個展会場へ向かっていた。
プロデューサー佐野翔平が運転するハイエースの助手席には点描画家hiromi。
二人は他愛もない話を繰り返す。
ぼくは後部座席で、ひたすらに映像を撮っていた。
スマホのカメラに時折映り込む太陽が眩しい。
今回ぼくは、個展の写真集制作と一緒に、映像制作も任されていた。
どの場面を撮ろうか、ある程度は固まっていた。
頭の中にある映像作品を再現するために、車内での画が必要だった。
だからと言って、10秒程度の素材のために、カメラを数時間も回す必要は全くない。
助手席にいる彼女に、話しかける言葉が見つからないだけだった。
会場となる古民家のレンタルスペース「la galerie(ラ・がルリ)」へは、予定より少し遅れて到着した。
会場には既に、搬入をお手伝いするスタッフが待っていた。
搬入スタッフは全員で3名。いずれも彼女とは面識があったようだが、やっぱりぼくには誰一人わからない。
スタッフたちと挨拶を交わす彼女は、いつものように朗らかな空気感を放ちつつも、どこかピリついていた。
表情が少し硬い。
念願の大阪個展だ。緊迫するのも無理はない。
けど、彼女らしくない。
車から「しんこきゅう展」の荷物を運び出す。
空っぽの la galerie(ラ・がルリ) に、着々としんこきゅう展が運ばれる。
設営の準備が整うと、彼女はすぐさま作業にとりかかった。
「飾り方はその紙に書いてあるから」と、誰に向けて言ったかわからない言葉をふわっと放つ。
やっぱりどこか、様子がおかしい。
積まれた荷の上には、A4サイズのメモ用紙。確かに、何をどこに飾るかは書いてある。
彼女はすでに、みんなに背を向け、長押の頭に釘を打ちつけ始めていた。
少し戸惑った様子のスタッフたち。
それとなく、各々作業に取り掛かろうとするも、何をどうしていいかわからない様子。
それはそうだ。彼らは設営のプロ集団ではないのだから。
胸が痛い。
「どうやって飾ればいい?」とぼくが聞くも、「その紙に書いてあるから」とまた放ち、黙々と作業をする。
ヒリヒリとした空気を感じる。
これ以上は踏み込めなかった。
彼女の様子がいつもと違うことは察しつつも、彼女との距離感に戸惑っていたぼくは、うまく接することができずにいた。
普段の様子とはまるで違う。
けれど、彼女は彼女で、いっぱいいっぱいなのだろう。
明日から始まるのは、念願の大阪個展だ。
たくさんの人から応援されて、新聞にも取り上げられて、期待がかかった、前回とは比にならない規模の個展だ。
それにしたって、開始の挨拶くらいはしたほうがいいんじゃないか?
段取りを把握したほうが勧めやすいし、何より、スタッフさん同士の間にある緊張も、少しはほぐれるだろう。
ぼくが一旦この場を仕切ろうか。
いやでも、ここは彼女の場だ。
ぼくが出しゃばる場面じゃない。
こんなとき、スパッと物事を言える人でありたい…。
そんなことを思いながら、これ以上彼女に近づけないぼくは、スタッフお一人お一人に、それとなく話かけて回った。
順調に、「しんこきゅう展」の会場が作られていった。
スタッフさん同士もうまく役割を分担し、作業を進めている。
彼女にも余裕が出てきたのか、場内からは徐々に、朗らかな会話が飛び交うようになっていった。
よかった。
ぼくはホッとしながら、設営の手を離れてカメラを回す、シャッターを切る。
「しんこきゅう展」が段々とつくられていくと、思い出してきた。
懐かしい。
そういえば、去年もこんな感覚だった。
目に映るもの聴こえるもの、全てから彼女を感じる感覚。
渋谷個展のときに味わった、いや、それ以上の、とても繊細で、優しい感覚。
壁からプラグが見えるのが嫌だからと、被せるように飾ったお花のボンボン。
仲間たちのことを想って作ったという、アイコンがたくさんついたお祝いのリース。
作品はもちろん、用意したグッズや小物ももちろん、
今回もまた、作り上げた空間は点描画家hiromiそのものだった。
細部の細部の細部までのこだわり。
想いの込もった装飾。
外から溢れる光があたたかい。緑が揺れる音が心地いい。
古民家独特の古びた匂いが、肺の奥まで入ってくる。
設営が終わり、みんなが外で談笑している隙に、
ぼくは、静かな la galerie で、まだ始まる前のしんこきゅう展を、ひとり感じていた。
そうだった。
ぼくはこれに魅了されたのだ。
前年の11月、渋谷個展で感じていた。
この落ち着いた空間に、優しい空間に、
たくさん傷ついてきたであろう、心あたたかい人たちが集まって、誰も傷つくことのない言葉だけが飛び交って、
どうしようもなく込み上げてくるあの、
寂しくもあたたかい感情に、
どうしようもなく包み込まれたのだ。
渋谷個展のお手伝い4日目、突然涙が止まらなくなったのは、「しんこきゅう展」が、ぼくの探し求めていた場所だったからだと氣づく。
ぼくは多分、無意識にずっと探していた。
ゲームは好きなのにゲームセンターが嫌いで、本を読まないのに本屋が好き。
そんなこと、今までの人生で、これっぽっちも氣にかけたことはなかったけど、ただの、ちょっとした好みの問題だと思っていたけど、
おそらくずっと、心の内側で探していた。
幼い頃、父が母を怒鳴りつける姿に胸を痛めたあの時から、きっと、ずっと、
波風が立たない、平穏な、
誰かを罵倒するようなうるさい人も、それによって傷つく人もいない、
ひたすらに心落ち着く、
そんな空間を。
「しんこきゅう展」は、幼い頃にぼくが求めた“やすらぎ”そのものだったのだ。
渋谷個展で、とめどない涙を流し続けていたのは、幼い頃のぼくだった。
やっぱりぼくは、点描画家hiromiが大好きだ。
彼女の思いやり溢れる心と、彼女の作り出すあたたかい世界が大好きだ。
離れようとしていたぼくが間違ってた。
辛いとか苦しいとか、そんなことは重要じゃなかった。
大切なのは、“彼女がぼくに何を与えてくれたか”だった。
彼女はぼくに、あたたかい感情をたくさんくれた。
心の内にいる自分に氣づかせてくれた。
こぼれないよう、必死に抱えていた孤独をほどいてくれた。
ちゃんと傷ついていいということを教えてくれた。
自分に素直でいいことに、氣づかせてくれた。
人生を変えてくれた。
辛いけど、辛いをまるごと包み込むほどの、幼少期から受けてきた傷をまるごと包み込むほどの、大きくあたたかいものを与えてくれた。
これだけのものを与えてくれる存在に、ぼくの短い生涯のうちで、他に出逢うことができるだろうか。
翌朝、ぼくの心は晴れやかだった。
あれだけ距離感に戸惑っていた自分が嘘のように、彼女に氣軽に挨拶を交わした。
もう大丈夫。
改めて「しんこきゅう展」が好きだと認識したぼくに、迷いはなかった。
初日から夢中でカメラを回した。シャッターを切った。
心動く瞬間を捕まえようと、慣れない手で追い求めた。
やっぱりそうだ。
渋谷個展のときと同じか、それ以上に、
ほんの些細なことで心が動く。
彼女の元に集まる人はいつだって優しい。
彼女の作り出す空間が彼女自身なら、そこに集まる人たちもまた彼女自身。
静寂な空間に訪れるあたたかい瞬間に、涙が溢れそうになる。
足の悪そうなお客様にすかさず椅子を持っていくスタッフに、
苦しかった過去を語るお客様に、
点描画家としての活動を始めた経緯を、涙ながらに話す彼女に。
外から差し込むあたたかい光、
木造の床が軋む音、
作品をじっくりと見つめるお客様の目、
品物を受け渡すスタッフの手、受け取るお客様の手、
場内で交わされるあたたかい言葉の数々、
ぼくは終始、涙を堪えていた。
だって、渋谷個展さながら、全てがあたたかいのだもの。
けれど、今回は泣くわけにはいかなかった。
ぼくの手にはカメラがある。映像を撮ってる。
個展の様子をまとめた動画を作ることを、彼女から任されている。
ぼくの泣き声が入って、せっかくの素敵な映像が使えなくなったら台無しだ。
そう思っていたのだけれど、
どうしても涙を堪えられない瞬間があった。
お客様のお誕生日をお祝いしたとき。
花束を持ってきてくださった女性は、その日がお誕生日だった。
女性がそのことを口にするや否や、彼女は「みんなでお祝いしましょう」と、会場にいる人に呼びかけた。
一切の迷いもなく、あたかもそうすることが、世間一般の常識であるかのように。
会場いる人たちも、彼女の提案を素直に飲み込んでくれる。
すぐさまその場にいる全員で、女性のためのバースデーソングの合唱が始まった。
こんなにあたたかい世界が、この世にあるのか。
そう思ってしまったら、ぼくはもうダメだった。
映像を撮っている最中なのに、思ってしまったがために、堪えていたものが溢れ出す。
なんでそう躊躇なく、他人の心に入っていける?
こっちはしきりに、相手との距離を氣にしているのに。
彼女はいつだってそうだ。
こっちの戸惑いなんか氣にもせず、素直に氣持ちを表してくる。
壁を作ってる自分が阿呆らしい。
ぼくが氣にしすぎてるだけなのか。
人間もっと、単純でいいのだろうか。
孤独と幼ななじみのぼくのような人間には、彼女は少し眩しすぎる。
お祝いが終わり、涙する女性のお客様に、そっとハグする彼女。
ぼくはカメラを回しながら、溢れる涙は仕方なしに、音を漏らすまいと必死だった。
3日間の個展が終わり、4日目の深夜に帰宅した。
真っ暗な部屋の明かりをつけ、荷物を軽く整理する。
氣づけてよかったと思う。
彼女が、自分に辛さを与えるだけの存在でないことに。
近づくと痛いぶん、とてもあたたかいことに。
自分を傷つける存在が、必ずしも危険なわけじゃない。
むしろ、そんな人が自分にとってかけがえのない存在、なんてこともある。
辛さのあまり目を背けた相手は、探し求めていたものを届けてくれた相手だった。
いちばん離れたいと思った人は、いちばん居たい場所をつくってくれる人だった。
氣づけて、本当によかった。
人間社会は騒がしい。
いつだって、誰かが誰かを傷つけてる。
どうしてこうも、人は騒がしいものか。
もっと平和でいられないものか。
なんて綺麗ごと、ぼくに言う資格はないのだけれど。
ぼくだって、誰かを傷つけてきたのだから。
それでもやっぱり、ほんの少し、わずかな時間でも、心穏やかに過ごしたい。
あの頃のぼくが、心の内側でそう言ってる。
もう、彼女から目を背けたりしない。
「しんこきゅう展」は、やっぱりぼくに必要だ。
幼い頃のぼくが癒される、唯一の場所。
ぼくだって、それなりに傷を受けてきた人間だもの。
求めたい場所くらいある。
どうなろうと、点描画家hiromiの活動を支えていこう。
翌朝、壁にかけられた「新緑と花たち」を、布団の上から見つめながら、
そう固く心に誓った。
読んでくださってありがとうございます。
当記事は、ぼくが兼ねてより活動をサポートさせていただいている点描画家hiromiの、個展の感想記事の第四部になります。
一部はこちら。
本記事で、『ぼくの「しんこきゅう展 in la galerie」』完結です。
恥ずかしいです(笑)。
この投稿は、ひろみさんにお願いされて書きました。
大阪個展を通して、いろいろ感じてはいましたが、こんな感情、無論どこにも出す予定はなく(笑)。
けど、お願いされたし、書くからには出し切りたいと思い、振り絞って書きました。
アホみたいに恥ずかしいです(笑)。
ぼくは自分のことをよく語りません。受けたこと、感じたことは、基本胸にしまったまま。
傷つけられても、反抗することもなく、かと言って、誰に愚痴を吐くわけでもなく。
ずっと、溜め込んで生きてきました。
時間が経てば忘れるだろう。
そう思っていたのですが、
今回、ひろみさんに触れて思ったのは、“受けた傷はしっかり残っている”ということでした。
忘れたつもりでも、忘れてない。
一度心についた傷は残っていて、どんなに時間が経っても消えないのだなと、
流した涙が教えてくれました。
大阪個展を終えてからまた、突然涙を流すことが増えました。
過去に通ずるものに触れたとき、記憶が突然湧き上がってきて、思わず…、なんてことが。
幼少の頃だけじゃない、その後もたくさん傷ついてきたことを自覚します。
そして、ぼくはそれをずっと我慢してきたことに氣づきます。
決して、平氣だったわけじゃないのだなと。
どうもぼくは、自分を大切にしない癖があって、周りを優先してしまいます。
誰かが傷つくことになるから、自分が受ければいいと思ってしまいます。
父に苦しめられる母の顔を見るのが、よっぽど辛かったのでしょう。
あの頃は、母が世界でいちばん好きだったので。
認めてあげてもいいのだと思いました。
傷ついてきたことを、しっかりと。
感情を抑えないことで、自分が求めているものに氣付くことができるから。
自分の氣持ちに素直になって、自分にとって心地のいい場所を、求めればいいのだなと思いました。
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
いよいよ今週末、点描画家hiromi三度目の個展が開催されます。
4/28〜4/30、静岡県富士宮市にある pace Wazo さんで、「しんこきゅう展 in Wazo」が開催されます。
お近くの方、お時間のある方、よかったら足を運んでみてください。
ぼくみたいに、それなりに傷ついてきた人なら、彼女の作り出すあたたかさに、きっと感じるものがあるはずです。
よろしくお願いします。
【しんこきゅう展 in Wazo】
会期:4/28〜4/30
時間:11時〜17時
会場:space Wazo
住所:静岡県富士宮市野中855-1
(JR富士宮駅より徒歩18分)
点描画家hiromi
0.3ミリのハイテックのペンで、そのときの感情をイメージした点描画を制作。幼い頃から、感情をイメージして絵を描いてきた。複雑な家庭環境の元で育ち、幾多の苦しみを経験。絵を描くことで苦しみから逃れたり、時には癒されたりもしてきた。
2021年に、自身初となる個展「しんこきゅう展 in zakura」を渋谷で開催。
2022年には大阪で、二度目の個展「しんこきゅう展 in la galerie」を開催。過去を曝け出した内容のクラウドファンディングが話題となり、朝日新聞に記事が掲載。個展では200人以上の方が来場し、大盛況に終わる。
「しんこきゅう展」に来てくださった方が笑顔になってくれたらという想いで、点描画家として活動中。