同じ人間として絶対に知っておかなければならない事件のこと −「生きる」大川小学校 津波裁判を闘った人たち−
東日本大震災を経験しておきながら、この件を知らなかった自分を恥じた。
大川小学校の津波被害で、児童74名、教員10名が命を落とした(行方不明者4名を含む)。
宮城県石巻市にある小学校で唯一、大川小学校だけが多数の犠牲者を出してしまった。
なぜ、大川小学校だけがそのような事態を招いてしまったのか。
映画「生きる」大川小学校 津波裁判を闘った人たち に綴られていたのは、ご遺族の方々の悲痛の叫びだった。
同じ地球で生きる人間として、この件は知っておかなければならないと感じる。
「なぜ我が子は死ななければならなかったのか」
ご遺族の方々の問いに対して、責任の所在をはぐらかし続ける石巻市教育委員会。
「仕方のないことだった」「そうなるのが宿命だった」
そんな言葉を平氣で発する行政と、ご遺族の方々は最後の最後まで闘った。
行く末は裁判へ。
宮城県を相手に、ご遺族の方々は判決を勝ち取った。
映画「生きる」大川小学校 津波裁判を闘った人たち は、
津波で我が子を亡くしたご遺族の方々が、学校、教育委員会、石巻市、そして宮城県まで責任の所在を追及し続け、
記録として回し続けたカメラの映像をつなぎ合わせて編集した、ドキュメンタリー映画である。
教育委員会が業務上の過失を認めるまで、10年もの年月がかかった。
この件はあまりにも胸が痛く、悲しく、そして、何よりも人間らしい事件だと、ぼくは感じる。
結果論にはなるが、津波で亡くなった方々は、学校の裏山へ向かって1分弱小走りしていれば助かっていた。
地震が発生してから津波が到達するまで51分。
揺れがおさまってからすぐに、目先の高いところへ逃げていれば全員が助かっていた。
けれど学校側は、揺れがおさまってから、生徒たちを校庭に30分以上も待機させ、山ではなく川の方へ、生徒を引率して向かっていった。
その間、防災行政無線から大津波警報が2度も届いているし、高台への避難を呼びかけた消防車も小学校前を通過している。
それなのに、
それなのに起きてしまった事態だから、
ご遺族の方々も、納得できる返答が出るまで引き下がれなかっただろう。
2011年4月、石巻市教育委員会はご遺族の方々へ向けて説明会を開いた。
けれども、その説明は、ご遺族の方々が納得できるものでは到底なかった。
原因や責任の所在をあやふやにし、「仕方のなかったこと」と押し付ける。
何度説明を求めてもその態度は変わらない。
それどころか、答弁には嘘や誤魔化し、隠蔽の匂いすら感じ取られる。
この説明会は2014年3月までに10回開催され、ご遺族の方々は記録を撮ろうと、その全てにカメラを回し続けていた。
寺田和弘監督は、説明会を含む、ご遺族の方々が撮影した映像をまとめ上げ、一本の映画にした。
映画のために撮られたシーンはほんのわずか。ほとんどが、ご遺族の方々が撮影した映像だ。
この映画はまさに、人間社会そのものだと、ぼくは感じる。
いい映画ではない。
というのは、いい氣持ちになる、感動できる映画ではないということ。
ご遺族の方々の想いが報われてよかった。
頑張った。お疲れさま。よかったね。
そういうふうに見る映画ではない。
どちらかというと、観ていて心地の悪い、胸が痛くなる映画だ。
けれど、この世になくてはならない映画だと感じる。
同じ人間として、絶対に観なくてはならない映画だと強く感じる。
この映画は、誰しもに共通する「生きる」ということを、心の奥の奥まで伝えてくれる映画だからだ。
津波被害に遭った教員で唯一の生き残り、遠藤純二先生。
映画が始まって少し経つと、遠藤先生を責め立てるご遺族の方々の映像が流れる。
事件後間もなく、教育委員会がご遺族のために開いた説明会で、遠藤先生は前に立った。
「自分の口から当時の状況を説明したい」と、まだ精神が安定していないにも関わらず、ご遺族の方々へ誠意を示した。
そんな遠藤先生を、数人のご遺族が責め立てる。罵声を投げ飛ばす。
胸が痛かった。
遠藤先生を責めたご遺族を、ぼくは決して正義だとは思わない。
遠藤先生は、津波に飲まれた当事者だ。
どれほど怖い思いをしたことか。
ぼくは大津波に飲まれた経験がないから、わからない。
けど、とんでもない恐怖を感じたろうという想像くらいは容易にできる。
大災害のいちばん近くで恐怖を味わった張本人、まだ精神が不安定な中、それでもご遺族のためにと、矢面にたった遠藤先生に、ぼくは罵声を浴びせられない。
かといって、ぼくは自分の子どもを、回避できた津波で亡くした経験などない。
ご遺族の方々の氣持ちは、ぼくには測ることができない。
けれど、ぼくはこの世でぼくだけが辛い思いをしているなんて到底思えない。
ぼくは自分だけが辛い世界で生きていない。
遠藤先生には遠藤先生の立場がある。
組織の一員である以上、誰かの下についている以上、郷には従わざるを得ないだろう。
つかなきゃいけない嘘もあっただろう。
それでも誠意を示そうと前に出た遠藤先生を、ぼくは責めることができない。
しかし、お子さんに命の値段をつけなければならなかったご遺族の方々に対しては、かける言葉が見つからない。
日本の裁判は、判決の落とし所として賠償金を提示しなければ裁判はできないらしい。
つまり、亡くなったお子さんに値段をつけなければ、裁判で戦うことができないのだ。
我が子の命に値段をつける、いったいどれほど残酷なことか。
人の命はお金では買えない。
お子さんの未来も、この先一緒に過ごしたであろう時間も、いくらお金を出しても返ってはこない。
例え賠償金が何十億と出たとしても、安いと感じてしまうだろう。
命とお金は比べられない。
命って、そういうことじゃない。
でも、命に値段をつけなければ戦うことができない。
納得のいく答えを求めることができない。
一生の心の蟠りをわずかでもほぐすことが叶わない。
裁判をやるとなったとき、「金が欲しいのか」と言ってくる人もいたそうだ。
悲しかった。
そんなわけない。
そんなわけがない。
そんな言葉を投げかける人物は、本当に同じ人間なのだろうか。
そんなことすら思ってしまう。
そんなことくらい、同じ人間としてわかりきっていてほしい。
ご遺族の方々はただ、教育委員会へ、責任の所在を明らかにしてほしかっただけだ。
我が子が亡くならなければならなかった理由を、心ある人間として、納得のいくカタチで示してほしかっただけなのだ。
明らかな過失が伺える教育委員会へ、
嘘やごまかしの対応ばかりする教育委員会へ、
我々の責任です
と、
申し訳ございません
と、
同じ人間として頭を下げてほしかっただけなのだ。
けれど、教育委員会だって大きな組織。
抱えているものが大きいことも、過失を認めてしまえば多くを失ってしまうことも、二十数年も人間をやっていれば想像することができるだろう。
なんと悲しく、人間らしいことか。
もっと素直にいかないものか。
これが人間なのだと、つくづく思う。
規模の大小はあれど、似たようなことはどの集団の間でも起きていることだろう。
これが現代の人間社会。
「生きる」は、生々しく痛々しい、人間社会の縮図である。
ぼくらはこういう世界で生きていて、これからも生きていかなればならなくて、そうやって生きていくことしかできなくて…、
戦いたくなんかなくても戦わなければいけないときもあって、自分の正義を貫けば必ず別の正義とぶつかって、矢面に立てば攻撃されて、言いたくないことを言わなきゃいけないときもあって、誰かを守ることで別の誰かを傷つけてしまって、誰も理解してくれなくて、いつまでも心の傷は癒えなくて、
そういう世界で生きていること、生きていかねばならないこと、生きていくことしかできないこと、
そんな現実を、ひたすらに見せられた映画だった。
ぼくらはもっと優しくなれるはずだと、ぼくは信じている。
人間を知り、人間を理解し、人間を受け入れることができれば、争わずに済むはずなのだ。
目の前の相手は、自分と同じ人間であることを、もっと多くの人に知ってほしい。
そのためにも、「生きる」大川小学校 津波裁判を闘った人たち を観てほしい。
ぼくの数あるうちの、願い事の一つである。
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最後まで読んでくださってありがとうございました。
本件を部外者であるぼくが語ることは勇氣が要りましたが、1人でも多くの人にこの映画をご覧になっていただきたい想いで、胸の内を綴らせていただきました。
興味があれば是非、「生きる」大川小学校 津波裁判を闘った人たち を観に行ってみてください。
下記サイトに上映される映画館と期間が載っています。
『生きる』の公式サイトはこちら▼