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競馬に興味を持った話(Vol.1 美浦)

私はREALITYという配信アプリで配信をしている。
配信にいつも来てくれるリスナーさんに、競馬に携わる仕事をしている方がいる。その方の影響で私は競馬に興味をもった。もちろん競走馬やレースの結果、血統や系譜などについても興味はある。馬の名前も少しづつ覚えようとしているし、過去の名馬についても調べてみたりしている。
ふと気になったことを調べ始めた。それについてここに記すことにする。

先日、仕事で茨城県に行ったため美浦トレーニングセンターに寄ってみた。言わずもがな、競走馬の鍛練・調教を目的に設置されているトレーニングセンターで日本国内で最大の規模の施設である。広大な敷地、整った環境、日本屈指の競馬競技の施設であるこの美浦トレーニングセンターがどうしてこの地に設置されたのだろうか。調べよう。私は歴史が好きなのである。

成り立ちには、日本社会の大きなうねりと時代の流れが大きく関与しており、まさに経済成長をする日本と共に施設が形成された背景が垣間見える。昭和36年にトレーニングセンター構想が具体化すると、昭和42年には最終候補地として①茨城県稲敷郡美浦村、②神奈川県横浜市港北区長津田地区
、③神奈川県厚木市棚沢地区の3ヵ所が選定された。
このうち美浦村では、前年に新東京国際空港(現・成田国際空港)の建設地誘致を逃しており、村長であった糸賀喜一がトレーニングセンター誘致に乗り出し大口地権者の協力を得るなど、積極的な働きがけを行った。村からは誘致陳述書が提出され、地元選出 衆議院議員の赤城宗徳の尽力もあって、昭和43年4月、正式に美浦村が関東地区のトレーニングセンター候補地として選出された。

一方で、このような大規模な施設が計画・建設された背景にはもうひとつ理由がある。当時、先述した新東京国際空港(現・成田国際空港)の建設に対して大規模な反対運動が生じていた。土地の買収・収容において多数の死傷者が出るような状況まで発展した世相であった。中山競馬場においても、地権者会とJRAの間で深刻なトラブルが生じていたことから、「万が一の事態」が生じたときには美浦で競馬を開催することを企図していたことがあると言われている。中山競馬場は、その土地の多くが賃借契約を行っている借地であり、時代背景的に土地の租借問題、訴訟などが最も激化していた時期で、土地に絡んでの売買、賠償金、賃貸料の値上げなどで交渉はかなり難航していたと推測できる。中山競馬場の地主もその影響を受けて契約更新しない可能性があった。そういった事態を考慮して、美浦トレーニングセンター計画は進んでいったと考えられる。万が一の事態に備えた施設の充実、また「美浦でも競馬はできる」という事実が、中山競馬場の地主側にアピールする材料となったことは言うまでもない。(美浦に2コース造って、緊急時には北で競馬を開催し、南で調教を行う計画があったという)
美浦トレーニングセンターは、昭和43年4月 調印が行われ、用地買収が開始された。しかし、多くの地主から退去に伴う代替地の要求が発生したこともあり、用地買収の完了には約4年を要し、昭和47年9月にようやく敷地の造成工事に着手した。その後も、第一次オイルショックの影響などを受けて工事は難航したが昭和52年12月に全ての建設工事が完了し、昭和53年4月10日に開場を迎えることとなった。

こうした背景から、美浦トレーニングセンターは時代のうねりと共に生まれ、今や屈指の競馬競技施設となった。栗東トレーニングセンターと比較して、西高東低とされているが美浦トレーニングセンターが脚光を浴びる日を期待している。2018年2月、JRAは美浦トレセンの大規模改造に着手しているとのことで、ますますの進化を期待せざるを得ない。今回は競馬界にとって重要な施設である美浦トレーニングセンターの歴史的背景について考察してみました。
最後まで読んでくださってありがとうございました。
次回は、「中山競馬場と白井分場(競馬学校)」を予定しています。

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