見出し画像

2024年映画ベスト10/死に囲われて幸せそうに生きること。

あっけらかんとした生

 ──その名を初めに挙げることに何の抵抗感もないと言えば嘘になるのだが、蓮實重彦の『ジョン・フォード』論を2年遅れて読んだ夏、『監督小津安二郎』の愉しさに比べれば(比べれば!)素朴で、フォードに対するそれまでとは違った見方を引き出してくれたとは言い難いというのが正直なところであったのだが、第4章「「囚われる」ことの自由」を読んでいた時間は、幸福な時であったと認めざるを得ない。あの『捜索者』(1956)の囚われたジョン・ウェインを、囚われていると著者が書いてくれたことが何より意外で、いやそうでしかないのだが、著者の好むところのあっけらかんとしたそのあっけらかん性に──それこそ同語反復性に──、生を肯定された気分になったことは認めなければならない。
 その生とは、映画の中の生をも指す。いや映画は死であると、まさにその囚われ性であると、2023年の映画(『首』、『フェイブルマンズ』、『アステロイド・シティ』)は告げたはずであるが、死とは生を内包するものであるから、死に向かって運動を続ける途中でその生を肯定しようと2024年の映画は宣言したようである。今年の映画には、蓮實が説いた、常に肯定的な生き方を何度も想起する瞬間があったわけだ。

次点

マイケル・マン『フェラーリ』(2023)

 マイケル・マンの『フェラーリ』こそ死の産物だ。本来マンが力を入れていないであろうレースシーンは本作の美学である。レーサーたちは常に切断という暴力により死に追われているようだ。だから彼等は走る。その順位おろか、プロモーションなど投げ捨て、ただ死から逃げるためにアクセルを踏む。切断は彼等を逃す。しかし、切断がレーサーたちを切り刻むことを諦めた直後に、ショット内の時間は歪み、車を丸っと捕らえてしまうではないか。ショットの完成が果たされたとき、死がやってくる。スローモーションによるパンはその事故の一瞬だが全てを捕らえ、「カメラワークとは何か」という問いに答えてしまう。それまで見えなかった、向けることのなかった彼岸──それは亡き息子がいる領野──にカメラを傾けたとき、カメラはその死を引き延ばしながら捕らえる。そして、カメラは運動することを喜ぶように合計三回、同じ場所で横に動いて見せる。一度目は死を引き延ばし、二度目は硬直した身体という死後を記録し、三度目は死の不在の現場をようやく主人公(アダム・ドライバー)が目にする瞬間に、ここで如何にカメラが動いたかを自身が演じてみせる。

ガイ・リッチー『コヴェナント』(2023)

 過去作『キャッシュトラック』(2020)にて、スコット・イーストウッドに髭を蓄えさせ、彼のクローズアップを撮った辺りからガイ・リッチーの才能は──映画史への敬意という誰にでもできるものではなく──俳優の身体性への興味の点において拡がりを見せつつあったが、『コヴェナント』においては──顔もまた重要であるが──その身体の変形、視覚空間に隠れることに面白さを見出した点が秀逸であった。しかし、ステルスを駆使した戦場アクションを期待していると、土地は段々と斜めに傾き行く手を阻む。傾斜は全てを光に晒そうとする。そうした時、戦争映画というジャンルは西部劇へと転じる。面と向かって銃を構えるとき、また背を向けて坂を下るとき、放たれた銃撃は何を産むのか。ニコラス・レイの『大砂塵』(1954)をリッチーは観てるのかしら。

フェデ・アルバレス『エイリアン:ロムルス』(2024)

 本作に対するそれこそ紋切り型の批判に、シリーズの良い所取りの紋切り型な展開を挙げる声は多く見受けられるが、では、果たしてその型から漏れるものはなかったか。その差異こそ、なぜこの映画が紋切り型な展開を選んだのか理解できるはずだ。冒頭主人公(ケイリー・スピニー)が目にする鳥は籠に囚われている。その境遇が彼女自身の人生を表すのと共に、これからの悲劇をも語るわけだが、重要なのは「囚われている」こと以上に、それが籠の形状をしていることだ。籠は後半、エレベーターの形をして現れる。格子状の網は彼女を捕らえている。いざ、闘いに出る際、彼女はその網をガッと挙げて外に出るが、しかし、再びそこに追い詰められるではないか。追い詰められた末に彼女はシャフトの溝に立ってエレベーターを起動し、現実的なものたるエイリアンを擦り倒す。ここに籠を使った復讐を見出すことができる。最後に対峙する怪物も、彼女は籠状のカーゴ(🤣)に追いやり船から排出する。囚われていた彼女が捕らえ返すまでの物語を展開することで、エイリアンシリーズがそれまで無意識下においてきた映画的方法論を暴きかつ、紋切り型の展開とは我々が熟知している物語に則って悪夢として繰り返されていることを知らせている。そうした悪夢の繰り返しこそ、目覚め眠るまでを描いたシリーズの運命ではないか。

ベスト10

10位 菅原塁翔『パパママ卒業』(2024)

 2024年1月から3月に、何を思い立ったのか22歳にして「パパママ」呼びはまずいだろうと思った監督がカメラを持ち「運び」、「パパママ」に宿る社会構造を再考し、そこで得たものを実家に運んでいくだけでも今年最もスリリングな一作であったが、なぜ思い立ったのか、その理由を中盤に位置付ける構成がいちばんのセンスではないか。どこか「やらせ」感のあるこの映画が、その編集による「やらせ」により真実味を帯びることに、ドキュメンタリー映画の醍醐味がある。

9位 アンゲラ・シャーネレク『ミュージック』(2023)

 この映画のどこから『オイディプス王』を感じれば良いのかと言われれば、その題にもなっている「足」だろう。手ほどできることのない足にカメラを向けてしまうのはアホかと思うが、ブレッソンさえ想起させれば「歩く」ことさえ「見る」に値する運動にしてしまうこの監督は、手とは異なり足は全て「歩く」ことを起点に、あらゆる動作(「落ちる」「転ぶ」「抱きしめる」「歌う」もまたそうかもしれない)を始めることを知っていたというわけか。そして最後、落ち、転び、抱きしめ、歌うための「歩く」足は、最後に「歩く」ために歩き出す。手段と目的の一致によりコロノスにてオイディプスは死す。

8位 アディル・エル・アルビ&ビラル・ファラー『バッドボーイズ RIDE OR DIE』(2024)

 俳優が、演じる役と彼等の私生活とを重ねるとき、必然的に過去作の主体的な身体的記憶と、客観的な視覚的記憶が付随することを我々はクリント・イーストウッドの映画を観るときに学ぶように、トニー・スコットとマイケル・マンの映画──共にたった一作の出演を通してウィル・スミスはその系譜に連なる「一者」となったわけだが、そうした印象を拭うための近年のオスカー受賞に至る活躍の気休めか、それとも授賞式での一件が彼をそうさせたのかは定かではないが、久々にウィル・スミスらしいウィル・スミスが見れただけでも喜ばしいのに、まさか『エネミー・オブ・アメリカ』(1998)でモニター越しに追われていた彼が、遂にモニターの前で海兵による殺人を俯瞰するシークエンスがあるではないか──この状況を指して政治的であると指摘さえしたくなる。マイケル・ベイを意識せずトニー・スコット的演出で奏でる『バッドボーイズ』の新作として、もう一点優れた演出を挙げるとすれば、ドローンショットの活用の仕方であり、マイケル・ベイも山戸結希も口を噤んだ「ドローンで一体何を撮るべきなのか」という問いに対し、ドローンを撮るのだと述べるドローンショットは本作最大の白眉。

7位 石井岳龍『箱男』(2024)

 「見る」ことを通して「書く」ことを説いた安部公房の『箱男』を映画化する際に行われた、「書かれた」物語を「見る」ことを通して「見る」とは何か、「見たい」という欲望とは何かを追求する脚色が見事。ラストに現れるアレは普通にブチ切れでもおかしくないが、安部公房でさえ原作でアレの正体を追い続けたが、文学では表象できなかったからこそ、映画の表象可能性に賭けて石井岳龍がそちらにカメラを向けてみたわけだ。そうしたドラマがそれぞれ佐藤浩市演じる軍医殿と浅野忠信演じる贋箱男との間で演じられるのは非常にメタ的であり、しかし、こちらを「見返す」の権利を物語の主人公である「箱男」に与えたこと、これらが上手く収まったことに何より安堵している。こんなに気持ちの良い鑑賞体験もない。この体験こそ私自信が映画に求め、箱の中の彼等が応えたものに過ぎないわけだが。

6位 リー・アイザック・チョン『ツイスターズ』(2024)

 ヤン・デ・ボンによる前作がエディプス・コンプレックスの三角関係を無理やりねじ込んでまで竜巻を欲望の対象として見せたかったのに対し、観測するに過ぎなかったその欲動の対象を、続編である本作は倒そうとする。如何にしてか。同じものを用いてという方法は、『スピード』(1994)にて、映像を通して死の箱に人質を閉じ込めていた監視者に向けて、箱の中の人質がフェイク映像を作ることにより脱出を図る展開を思い出させる。箱とはもちろん映画を意図しているに違いないデ・ボンの考えを汲み取るように、本作の竜巻も最後にその正体が映画であることを明かしてしまうのだ。

5位 ジャウム・コレット=セラ『セキュリティ・チェック』(2024)

 映像によって撮られ、見られ、囚われていた客体が、それを見返し、捕えるまでのサスペンスとして、要は『エイリアン:ロムルス』と同じであるが、こちらの方が優っているのは最初見られる主人公の職業が「見る」ことに特化したものだからかもしれない。だからこそ彼は敵が見誤る術を知っていたし、彼等映像世界の住人達が自身の目で見た光景よりもモニターに写った映像の方が真実味を感じかつ疑い深く凝視できることを知っているため勝つことができたわけだ。我々もまた「たかが映画じゃないか」といいながらスクリーン(orモニター)に写る光景を手に汗握りながら観ている光景が思い出される。

4位 リチャード・リンクレイター『ヒットマン』(2023)

 ノワールとコメディの調合が『チャップリンの殺人狂時代』(1947)の倫理観へと到達してしまったことに恐怖すら覚える。思い返すのはフリッツ・ラングの『死刑執行人もまた死す』(1943)と、ジャン・ルノワールの一連の愉しい悲劇と哀しい喜劇の数々。それらが一応二項対立のどちらかに落ち着こうとしていたことを考えれば、もはやその境界さえ不在のこのアメリカ映画に虚無すら感じる。

3位 クリント・イーストウッド『陪審員2番』(2024)

 真夜中のサバナにて何かを轢いた主人公(ニコラス・ホルト)が車を出て橋の下を覗いたとき、そこには何も「見えない」わけだが、イーストウッドはそこにこそ真実を配置する点一貫している。イーストウッドの身体こそ、いや彼だけがソ連やメキシコにて闇の中に消え、再び別の闇から現れることのできる牧師を演じたことを思い出す。イーストウッド以外には暗闇に入ることもそれを見ることも叶わず、「見えないもの」は見えないまま、見えるものだけを信じたい者が溢れかえる。しかし、ホルトもまた「見えないもの」を見えないものとしてしまう人物でありながら、この映画のファーストカットは他人の「見えるもの」と「見えないもの」を支配する彼の役割を示唆している。その両義性は、犯人にして善人であるという性格から、「見る」監督でありながら「見られる」俳優であるというイーストウッドの主体の分裂まであらゆる両義性が見出される。そうしたテーマを巡った文章は現在執筆中のため、暫しお待ちを…。

2位 三宅唱『夜明けのすべて』(2024)

 残業によって作られた光により、宇宙と同化することでそのフレームの存在、囚われ性を隠してしまう東京で如何に生きて行くのか。そうした境界線を消すことは他者理解の助けには全くならず、星と星の間に線を引くように他者との間の線を確保すること。そうすることではじめて他者と出会うことができるという当たり前のことを、映画の内側と外側に在る線を通してテーマと関連させる手腕にやはり圧倒されてしまった。ただ、光、眼差しだけがその線を超えてしまうところを描いてしまうのも実にチャーミング。唱ちゃんエグイテェ⤴︎

1位 五十嵐耕平『SUPER HAPPY FOREVER』(2024)

 山田宏一が言ったとされる「映画には幸福な映画とそうではない映画がある」という定説に従うのであれば、ホークスに並ぶ幸福がこの映画にはある。この映画においてはV字こそが幸福を意味し、ショットの中の運動だけでなく、物語も過去へのVターンであるし、二つの視線が一つを見る出会いから、二人の背中を我々観客の視線が見る幸福な時間まで、ありとあらゆる三角形を生む生成の映画。ただ、男女が出会ったことが幸福なわけではなく、V字に身体が、意識が、視線が動いたことこそ幸福なのだ。映画は常に生成を描く。その生が幸福ならそれでいいんじゃないかしら。

鑑賞本数67本

文:毎日が月曜日

いいなと思ったら応援しよう!