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バスは走り、映画は運動を続ける/『スピード』
一度動き出したら止まらない。止まった時、それはもはや存在しない。それは生きている間だけ存在し、死を迎えると無となる。それは現実を記録する芸術として、時に死のイメージで語られることもあるが、生き続けるものとして、生の一面をも持つ。ただしその生は、死と表裏一体のものとして現れる。常に死の不安に悩みながら生きる、生きなければならない。不安自体が生なのだ。では、結局死とはその解消に当たるのか。否、生の中にのみ幸福な体験が待ち受ける。そうしたことに改めて気づかせてくれたのがヤン・デ・ボンによる『スピード』(1994)だ。
監視≒監督する観客
デニス・ホッパー演じる爆弾魔は、遠隔で複数のモニターを眺める。テレビ中継と自身が仕掛けた隠しカメラを通して、自ら組んだ計画が実行されているか、人質は法に逆らっていないか、彼は監視する神として観客と共犯関係を結ぶ一方で、モニター内の世界を支配する者として映画監督とも言い得る。観客と映画監督の間に線を引き、共犯関係による三角形を一先ず見出してみる。
法による生存、無法の死
彼の用意した棺桶たるバスは、人質たちを死に追いやるが、しかし、死は未来にあり、その外にある。爆弾魔の法に従う限り未来は遅延し、外に出ない限りその生存は約束されている。
法が支配する生の内側と、死の外。この対立を語る上でジャック・ラカンを呼ぶ必要もないだろう(来たる『ツイスター』評まで保留しておこう)。バスは生きるために─死なないために─走り続けなければならない。それはまさに映画と同じ宿命を帯びている。映画はその存在を肯定する為に動き続けなければならない。
法の侵犯、死への欲望
キアヌ・リーヴス演じる主人公は人質を救うためにバスに乗り込むものの、やはり彼も法に従わざるを得ない。しかし、彼が救済者として人質と異なるのは、神による法を人質に啓発する役割を担うからだ。そして、同様に彼は法の伝達者としてハンドルを握るサンドラ・ブロックに、ただ指示を与え続ける。
一方でリーヴスが爆弾魔の共犯者ではないのは、その法の欠陥を探るからだ。彼はそれを探り、そして人質に指示を出す。神の意思とは別に。リーヴスは小さき神として、映画監督として法の内側で革命を起こそうとしている。
その革命は外への脱出であり、これは死へと飛び込むことを意味するようにも思える。ある意味法の外は人間にとって最高の欲望の領野である。動き続ける生=運動からの解放としての死=停止。これを如何に欺瞞なく果たすことが許されるのか。リーヴスが所属する特殊部隊は爆弾魔が仕掛けた監視カメラの映像を複製しそれをループ再生する。ここで革命家であるリーヴスたちは映画を法=バス=映画の内側で撮影し、法の上に立つ映画監督を騙す。映画対映画。映画監督にとって映像は全て等しい価値を持つため、アメリカの友人であるホッパーはこれに騙される。自ら新しい法を作ることにより、別の方法で外に生を繋ぐ。幸福な脱獄。
主人公達が作った映画=バスは無人になり、作品となり、新たな運動を続ける。そしてそれは止まることなく衝突事故により爆発し死んでいく。それでもこの映画がここで終わらないのは法の上にいる神がそれに気づいていないからだろう。
自由な棺桶、バス
そもそも、バスとは何か。
黒澤明らの企画を経て『新幹線大爆破』(1975)、『暴走機関車』(1985)を継いだ本作で主な舞台となったバス。列車と映画の相性の良さは、兄のオーギュストと弟のルイが彼らの最初のフィルムの俳優に列車を採用したこと以外にも、レールの上を一方向に走るその法への順応度よって表される。対して自動車は方向が疎らで法を適応することが難しい。その自由さは人間の世界に対する自由さと結託し、人間を個体として存在させ続ける。本作の棺桶が列車でも自動車でもなく、バスであるのはまさに自由でありつつ個体となり得ない、集団の動く空間であるからだろう。たとえ乗客が1人であってもバスは常に個人を集団に変えてしまう。映画館もまたバスと同じである。彼らは自由であるからこそ、人間と等しく死なないように、その対象(バス=映画)を動かさなくてはならないのだ。
死んだ映画は生きていた。
爆弾魔がフェイク映像に気づいた時、まだ映画は終わらない。彼はすでにブロックの後方に現れ彼女を捕らえてしまう。映画の神に許された超越した能力だ。そして列車へ。
列車の中でリーヴスはアメリカの友人である爆弾魔と対決する。ただし、その決着は外、列車の天井にて果たされる。死へ接近した場所でのみ相手に死を与えることができる。バスの人質の中の唯一の犠牲者も外に近付きすぎたために吹き飛ばされて死んだことを思い出す。
列車は止まらない。しかし、もう止めてはいけない法は死んだ。だが、止められないのは映画が死んでしまうからだ。リーブスとブロックは映画を殺さないために法を欠いた列車を走らせる。
脱線。列車にそれが許されたのは、列車が法を捨てたからだ。列車はあり得ない領野─現実界─へと姿を現す。そこは線路のない道路であり、かつ映画館(チャイニーズシアター)の前だ。脱線と共に映画は死んでしまうのか。いや、その運動を引き継ぐように映画は続く。
野次馬が列車を囲みリーヴスとブロックに向けるのはカメラ、そして彼らの眼差しだ。彼らはシャッターを切ること・対象を見ることで映画を続ける。それを向けられた2人の恋人たちは恥を感じていない。おそらく、野次馬の向けるカメラと眼差しを、映画のカメラと勘違いしているからだ。ホークス的スクリューボールとしては気が狂いすぎている2人はここでも剥き出しの欲望を語り続ける。その気狂いは、これが映画であることを観客に告げる気狂いであり、これがハリウッド・エンディングのパロディであることを悟らせる。リーヴスとブロックは明らかに演じている。なぜなら、死なないように演じなければならないからだ。
カメラは2人を乗せた死んだ列車から引いていく。そして映画は終わる。なぜなら、映画は動くことをやめたから。逆に、映画は動いていた。ずっと生きていた。それが『スピード』だ。
毎日が月曜日