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ロブ・マーシャルの無頓着さ/水泳映画としての『リトル・マーメイド』(2023)

 カメラは暴力的に世界に四つの線を引き、線で囲われた枠の中へと無垢な身体を投獄する。ある囚人は、錯乱状態に陥ったように檻の中で動く術しか持たず、ある囚人はそこから脱獄してみせるが、看守たる「目」は、再び彼を投獄する。初期の映画の醍醐味はこうした幽閉空間における身体の自由の制限と彼の自由意志の間に生じる葛藤の運動を観察するブルジョア的窃視にあったわけだが、國民による創生を創生した者によって花が散った頃、囚人は自由を代償にその檻ごと切り刻まれることとなった。今や囚人たちは喜んでその身体を差し出し寸断され、観客は不動の遺体の連続を眺めることを余儀なくされている。
 さて3D映画とは一つの錯覚を用いて、四方向の線からなる牢獄に広さを追加したと言い得るかもしれない。キュアロンによる『ゼロ・グラヴィティ』(2013)やキャメロンによる『アバター:ウェイ・オブ・ウォーター』(2022)が画期的なのは、その檻の広さを最大限に活かすため、檻の上の線に囚人が近づきやすいよう、重力から世界を解放した点にある。前者は無重力空間において、後者は水中において──まさに後者が顕著であるが──スクリーンはプールと化し囚人の水泳を可能にする。ただし、3D効果を狙いたいがため、看守の誘導により手前への歩み寄る囚人たちは結局死に至る運命にある。要するに無重力空間における縦軸への移動が解除された状態を付与された時、素直にその縦軸を享受することを筆者は推奨しているわけだが、見事にそれをやってのけたのがロブ・マーシャルによる『リトル・マーメイド』(2023)であったわけだ。
 マーシャルは演劇人として映画に接する際、演劇と映画の差異にばかり気を遣うことにより両者を相殺する天才である。また映画史の冒涜の天才でもあり、彼の裁判の参考人には少なくともボブ・フォッシーとフェリーニ、ロバート・スティーヴソンが召喚される予定だ。その天才であり犯罪者であるマーシャルが、アニメーションの実写化を前に、演劇という対象を捨てることで気を遣うことをやめ、映画史と離れることによって反対に映画史に気を遣う傑作となったのが『リトル・マーメイド』だ。
 ただし、やはりマーシャルである。縦軸は主に無重力空間に限定されず、地上と海で進行する物語の導き手として機能する。気が早い。急ぎ過ぎなのだ。王子(ジョナ・ハウアー=キング)が船から落とした望遠鏡をカメラは追いかけて、深海へと至り、その深海で地上への想いを綴る歌を歌いながら人魚アリエル(ハリー・ベイリー)は水面へと手を伸ばすがカメラは彼女の想いを乗せて再度王子の元へ至る。この視点の誘導がマーシャルの無頓着さから来ていることに感動せざるを得ない。西谷弘の『昼顔』(2017)の蛍ほど演出されていない、その意図せず成立した無頓着さに可愛げを感じるべきなのだ。
 それでは、水泳はどうなのか。やはりマーシャルである。我々が期待する四方向への移動など鼻から興味がない。しかし、ここで呪いの演劇人ロブ・マーシャルは呪われた映画人ジャン・ヴィゴと出会う。縦軸の押し付けまたの名を重力から逃れた身体を横に流して見せたのだ。局所的欲望から回帰し、我々は一つの身体と対峙することとなるが、その横に伸びる身体にカメラは、上下の線が横よりも長いこの牢獄において、より近づくことができる。巨人劇としての映画の浪漫がここにある。映画がセックスを見せるのはまさに巨人たちの裸を堪能するためという倒錯性があるのであれば、セックスを抜きにした運動の浪漫がここにあるのではないか。一方で檻に捕らわれたまま泳ぎ、他方で檻の中を通過する巨大な人魚たちの水泳は、ジャン・ヴィゴが眼差したジャン・タリスの水泳と重なるのだ。
 さて、魔女との契約により脚を手に入れたアリエルは陸に上がるわけだが、縦軸から解放された傑作『リトル・マーメイド』が面白くなるわけがなかろう。ただ、またマーシャルの無頓着さに寄り添いたくなるのは、その無頓着によりアリエルの縦に長い身体がカメラにより寸断される所にある。モンタージュが追加されるのは、脚の代償として声を失ったからであり、まさしくサイレント映画と化したかのように見えるようで見えないこの無頓着なミュージカル映画は、ロブ・マーシャルの無頓着さによって存在することとなる。

文:毎日が月曜日

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