『夜明けのすべて』と線
終盤に関する言及あり。
東京の地平線はどこ?
スティーヴン・スピルバーグの『フェイブルマンズ』(2022)を観てから、映画の地平線の位置を注視するようになった映画ファンは多いと思われるが、その有無についてはどうだろうか。日本映画、延いては東京映画とは戦後からその地平線を見せないことを特徴としてきた。小津安二郎の『東京物語』(1953)は尾道、東京、熱海を舞台とするが、いくら高い建物に登ろうと東京の地平線の見えなさは尾道、熱海の地平線との差異によって強調される。そうした差異は三宅唱の『夜明けのすべて』(2024)においても、主人公藤沢(上白石萌音)が帰郷する初めのショットにより生じることとなる。朝、海沿いの田舎にて画面を横切る電車をおさめたこのショットは、本編で二度繰り返される夜、都会にて画面を横切る電車のショットと対比されているが、前者にて水平線が見える瞬間は、観客にとって主人公たちと共有してきた息苦しさからの解放でもある。都会と田舎、その対比はこうした地平線の有無から生じる。島国であり海に面する都市である東京でなぜ映画監督たちはその地平線をうつすことを避けたのか──黒沢清のみ東京の地平線を不自然な形で引いて見せているが──ここでは考察しない。ただ、地平線という境界の有無から『夜明けのすべて』における感動があることを本稿でみていくこととする。
人の境界線はどこ?
都会と田舎の対比の他に、東京と対比される空間はどこだろうか。宇宙とは地平線なき空間である。東京の夜景は一つ一つの灯りが星のようである。しかし、東京と宇宙は別個のものであるのは、東京において地平線は厳密に無いわけではなく隠されているからである。夜の東京は地平線を隠すことで宇宙と混ざり合い、広大な世界のフリをするのとともに外側を打ち消す。作られたユートピアの中で搾取される個人とは藤沢であり山添(松村北斗)である。東京の夜景は残業によって作られるというよくあるジョークは、山添と元上司辻本(渋川清彦)との会話の中でその真実味を得る。まさしく東京は美しいフリをした都市である。
境界線なき世界とはやはり理想郷なのだろうか。他者から完全に理解してもらえる社会なら筆者は喜んで参入するだろう。しかし、それはひとつの理想であり、叶わない夢だ。その理想を偽ること、暗闇の中で光る蛍のその光のみ価値を付与することは許し難い。
他者理解の実現不可能性に藤沢も山添も気づいている。文字通り他人の家に入り込んでいきすぎな藤沢を配布物の受領により許した後、山添は以下の様に語る。「男女間であろうとも、苦手な人であろうとも助けられることはある」。重要なのは前半の「苦手な人」を苦手なままの関係の人として設定していることだ。その克服を目指すことはせず、自分と他者の間に線を引いたまま干渉することが目指される。
宇宙に境界線はないと言ったが、線はある。星座とは点と点を線で結んだ図であり、宇宙という地を舞台に星座はそこに現れる。しかし、その線を引いたのは我々人間であった。線を引くことで星座は生きる。人間だってそうだ。混ざり合うことが重要ではない。時には線を引くことで、自分と他者とを定めることではじめて他者への干渉は開かれるのではないだろうか。
線がないフリをする東京と線があるフリをさせられる宇宙の対比、そこから生じる差異とは人と人の間に引かれるべき線なのだ。
主人公たちが勤務する栗田科学は多くの窓によって区切られている。その窓枠は線のまま、登場人物たちはその間を通過していく。大切なのは線を残すこと。藤沢が山添の四角い枠(彼の家の手前にあるトンネルや玄関)にずかずかと入って行くのも、その線を壊さなければ彼を「助けられる」。
宇宙はどこ?
『夜明けのすべて』で台詞でのみ言及されるが決してうつらないものとは何だろうか。それは宇宙である。主人公たちが宇宙を見上げるシーンや背景にうつることはあっても、それは決して被写体となることはない。もちろんプラネタリウムも再現された宇宙である。宇宙はこの映画の外に設定されているが、映画の外とは我々観客がいる映画館である。そこは暗闇で包まれた空間だ。先に星と人とを対比したが、この映画もそのことを自覚的なようだ。
東京がそれを隠すので忘れがちだが宇宙とは無限に広がる世界であり、一つの理想郷なのだが、映画の登場人物たちは常に宇宙を目指してきた。ウェス・アンダーソンの『アステロイド・シティ』(2023)における宇宙とは、目指されるべき場所であるのとともに、主人公(ジェイソン・シュワルツマン)の死んだ妻がいる彼岸であり、演劇の外であり、演じられなかったシーンと重ねられる。彼は何度も窓の外を眺めそこから脱しようともがく。一方で自殺願望のある俳優(スカーレット・ヨハンソン)は有限な世界を認め常に窓の奥に収まったままだ。
『夜明けのすべて』において外は象徴的に関わることしかできない。しかし、死者の声はある。プラネタリウムを完成に導いた栗田社長の弟が残した音声テープを通して藤沢と山添は宇宙に線を再度引くことに成功する。その声とは象徴的なものなのだろうか──映画という記録芸術もそれに通ずる。これを通して「死にたい」二人は自らの線を確保して未来に向かい始める。藤沢は境界線のある田舎へ、山添はその差異がはっきりとする青空の下、自転車を漕ぐ。
映画のスクリーンはどこ?
映画と映画館が対比されたが、それを区分する線はスクリーンの線である。スクリーンだって一つの窓であるが、『夜明けのすべて』でその窓を飛び越えようとして来るものがある。それは最後のショットにおいて示される。エンドロール中行われるキャッチボールは、スクリーンの中でのみ演じられる。山添はそれに参加することなく自転車を漕ぎスクリーン左側から退場するが、彼はやはりその線を自覚し通過していくだけだ。しかし、物語の主人公の一人である彼がその窓からいなくなった直後に、投げられたボールがバウンドして栗田製作所の敷地を出て、手前の畑に入って行くのだ。勿論、我々観客が観ている映画館にボールは来ることはない。しかし、白い光はたしかに我々に投げられたのだ。こうした奇跡、それも演出の意図を超越した偶然によって本論は破綻する可能性はある。しかし、そうした奇跡こそが映画の不完全さとして崇高さを顕示するのだろう。
文:毎日が月曜日