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昭和の男が学んだこと|家族の支えがなければ、僕は何もできなかった。
こんにちは。こんばんは。kai2003です。
僕があの時に知っておけばよかったかもと思う事をシェアしたいと思います。
そして今見返した僕が初心に戻れるように感じるままに書いています。
今日は障がい者GH立ち上げについての出来事を書かせてください。
最後にはあなたにとって「そうかもね。」とほっこりした内容になってると思います。
良かったら立ち寄っていただいて皆さんの明日の糧になって欲しいと思います。では。
起業は家族の同意なしにできるのか?
障がい者GHをしようと考えた時、一番の障壁は何でしょうか?
投下資金の目算でしょうか?
僕は家族の同意でした。
家族と言っても"妻"が間違いなく一番の障壁でした。
世間の多くでは独立や起業などギャンブルと一緒と言われて久しいですよね。
妻も同じでした。
でも僕は鍼灸院起業でなんとか現在も継続中です。
実は開業すると言ったその時に"妻"には反対されませんでした。
その時には僕自身に起こった大きな交通事故の影響から何とか仕事をしようと以前に勤めていた整骨院にお願いして何とか短い時間ながらもアルバイトをしていました。
とにかく必死でした。
後で聞くとそんな僕を妻は「私が働かないと子供たちを支えられない。」と考えていたようでした。
交通事故の僕の身体への影響はすさまじく当時は仕事を出来ない身体になる恐れもありました。
そんなわけで妻はどうせなら一生懸命出来る仕事でストレスをコントロールしやすいという事で開業をOKしてくれました。
開業してもバラ色ではない?!
でもいざ仕事を始めると少しずつ患者さんも増えてきました。
収入はそんなにありませんでしたが僕自身は必死でした。
そんな時に僕を横目に妻が選んでした仕事はチラシのポスティングでした。
毎日チラシ配りをする妻は僕になかなかのプレッシャーをかけてきました。
当然ですよね。
子供は二人。まだ小学校3年生と小学校1年生。
食事の世話から何から何まで母親がしないといけない。
ましてや父親は交通事故の影響はあるがようやく仕事らしい仕事にありついた。
私には母親の役目以上の事は出来ないが出来る仕事として融通の利くポスティングしかできない。
こうなれば父親にはつらいかもしれないがしっかり父親の役目をしてもらおうという事らしい。
そこからはケンカをしても最後はお互いに子供の為に仕方がないという事で頑張りました。
端から見ると喧嘩でも結末はわかりきっているプロレスをしている状態でした。
妻は僕が分らないところで子供が不安定な時期にもしっかりと学校行事や先生との対応もしてくれていました。
成長の度合いがやや遅めで癇癪を起しやすい長男は担任の先生に反発し問題行動も起こしていましたがコミュニケーションモンスターの妻は同じような問題を抱えた同級生の親や発達障害の親と一緒に校長先生にかけあっていました。
そのおかげでその後長男もやや周囲となじめて当時取り組み始めていた柔道にも力が入るようになってきました。
後で知ったのですが、担任の先生には問題行動や指導のおかしい部分があったようですぐに退職されたとの事でした。
事業開始当初の絶望
数年後やがて"健康保険での訪問鍼灸を外出できずに苦しむ高齢者へのサービス"というコンセプトで続けてこれた訪問鍼灸事業も高齢者の独特の問題と同意書の取得という切り離せない問題でいずれ継続困難になると思い何か新たな事業を創出する必要がありました。
その頃は何をすればよいかばかり悩んでいてあまり家族と話し合った記憶がありませんでした。
僕も昭和の男なので自分が何とかしないといけない、頑なで独りよがりな僕がいました。
そんな僕を妻は「これだから昭和の男はダメなんだ。」と事あるごとに言われていました。
あるきっかけで「障害福祉サービスで共同生活援助事業」への参画を決めると一心不乱に勉強、実際の現場を体験するのに必死でした。
そんな僕を見て妻は半分期待半分諦めそして頑張りを認めて同意してくれました。
実際に障がい者GHを立ち上げてみるとびっくりするぐらい問題が次々と襲い掛かってきました。
税理士との諍い、職員との葛藤、うまくいかないGHの利用者対応、無くなっていく開業資金、障害福祉サービス以外の会社経営の無知など合わせて訪問鍼灸の継続などで押しつぶされそうになっていました。
おごり高ぶった昭和の男は気付かない?!
見かねた妻は事業にある意味前向きにかかわってきました。
それは、立ち上げから世話人としてではなく妻として「私はやりたくなかった。私はやめる。」という言葉でした。
僕は昭和の男らしく?盛大な言い訳が始まります。
「こんなの想定外だ!俺は悪くない!どうすればよかった?!お前も賛成しただろ!」
最悪です。もちろんそんな事言うつもりもありませんでした。
僕は「でも、俺がしないとダメなんだろ!わかってる。全部俺が悪いと思っているんだろ。」
またしても最悪です。妻のせいにして逃げたい気持ちと逃げられない責任感をどうにかしようとしているのがよくわかります。書いていて僕自身嫌になります。
でも妻はこんな僕の性格を見抜いていたようでした。
ある時に問題ばかりで嫌になりかけていた時に妻の言葉思い出しました。
「昭和の男はこれやから嫌いやねん。自分で出来ないのに引き受けて勝手に悲劇の主人公になってんねん。アポちゃうか。」これまた手厳しい言葉でした。
その時ふっと頭をよぎりました。
「俺は出来ないんじゃなくて誰も頼ろうとしてなかったんじゃないのか?一人で出来る事なんてたかが知れているのに?!」
その瞬間、妻が手助けしていてくれていたのを気付くことが出来ました。
職員のモチベーション維持や利用者さんへの気遣いや対応、関係機関との電話対応などなどです。
なんでもしないといけないと言いながら実は本来しないといけない連携が出来ていませんでした。
妻はそれをわかってもらおうとしていたようでした。
「わかった。お前がそうしたいのならやめたらいい。でも俺もやめる。全部やめてやる。親の責任も家族への責任も全部やめてやる。だけどお前と一緒にやりたい。助けてほしい。」
初めて言ったような気がします。
もう何十年も一緒なのでなんとなくわかってくれたようでした。「独りよがりになっててごめん」と言っているのを。
相も変わらずケンカばかりですが、お互い言いたいことを言っているのでプロレスをしているようです。
でも、仕事の状況は変わりました。
家族の支えがなければ、今の私はいない
僕は妻を管理者として、役員としてかかわってもらうようにして任せられることは任せました。
あまり口出しする事もしないようにすることで僕の時間が取れるようになりゆっくりですが問題にも対処できるようになりました。
かといって状況が良くなっているわけではありませんが前のような雰囲気は少なくなりました。
数年すると鍼灸院の患者さんの健康状態が不調になり入院、コロナ禍もあって開業医への風当たりがきつくなったこともあり同意書の不同意で患者数が激減し始めました。
悪い方に思った通りになりました。
最終的に今現在は妻のおかげで何とかご飯が食べれています。
妻は今でも「昭和の男はこれだから・・・」と口にします。
そんな僕についてきてくれて本当に感謝しています。
あの時僕自身が勝手に思い詰めてストレスを家庭に持ち込み続けていればと思うとゾッとします。
一人で抱え込んではダメ
皆さんはそのような経験はありませんでしたか?
もし未だに自分一人だけで問題解決しなければと思い続けようとすればいずれ破綻への落とし穴も口を開けているかもしれませんよ。
そうならないように周囲を見渡してみませんか?
お互いに頑張っていきましょう。応援してますよ。
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