十七歳の秋 通り過ぎた青春
孤独で辛くて怖いのは、この世で自分だけだと思っていた。
ひとの孤独さ
子供も大人も、本当はみんな孤独で、
辛くて怖いと思う瞬間がある。一方で、
その弱さを誰にも見せたくないというプライドを抱え、
誰にも見せてはいけないという虚勢を張っている。
それを認め、さらけ出せる相手というのは、
人生においてなかなか出会えるものではない。
そしてこの作品からも分かるように、
その相手というのは家族であるとは限らない。
宮田と奥沢は互いをライバル視し、
どこかに相手の弱みを見つけようとしているが、
いざ直面すると、明らかな非難の感情は抱いていない。
自分と似た境遇を見てとり、同情した面もあったろうが、
次第に「同情」という憐れみを含んだ感情よりも、
同じ苦悩と闘う「同志」として認めていく。
閉じられた世界から社会へ
そのきっかけとして合唱コンクールが描かれるのは、
初めは少し違和感があった。
宮田と奥沢はともに論理的で冷静な面があるので、
果たして一学校行事に過ぎない合唱コンクールを
ここまでドラマティックなものとして捉えただろうか。
宮田の場合、コンクールに出場した経験が豊富で、
この程度で大きく揺るがされるとは考えにくい。
ただし彼女の場合、合唱コンクールそのものよりも、
その後のテストや大学入試のプレッシャーが大きく、
過敏になっているのはある。
奥沢は少女漫画趣味があり、ロマンチシズムが強く、
恋慕に近い信頼を寄せる時枝の影響もあって、
合唱コンクールに浮足立つのも分かる気はする。
しかし彼女の場合、それまで隠してきた
「学校用の(完璧な)よそゆきの自分」を
母に見られてしまうことへの焦り・恐れが大きい。
新設の築山学園で初めての開催となる合唱コンクール
=閉じられていた生徒たちの世界が初めて公になる場
もしくは
=それぞれの道を歩み始める前の、最後の共同行事
とも取れる。
それも踏まえると
「合唱コンクールを契機に二人のキョリが縮まった」
とするのは短絡的で、
「社会に投げ出される直前の舞台としての
合唱コンクールにおいて、二人が共に闘っていく同志
として互いを認めあうきっかけがあった」
とするのが正しいだろうか。
奇跡の人
二人は今後、親友になるとは思わないし、
卒業後に連絡を取り合うことも恐らくない。ただ、
「単に通り過ぎていっただけの思い出の人」
以上の存在であることは間違いない。
ふとした瞬間に
(例えば電車に乗ってぼんやり車窓を眺めている時や
フードコートで連れを待っている時など、
本当にどうでもいいようなふとした瞬間に)
ちらっと脳をかすめるくらいの。
ティーンの頃に「親友」
などとプリントシールに書いた知人は、
十数年たってみると意外と疎遠になっていたりする。
SNSの友達申請をためらってしまうくらいに。
トラウマのようにその存在が記憶に刻みつけられ、
ことあるごとに思い出し、触発される人物のことを
何と呼ぶのか私は知らない。しかし、
その彼/彼女と出会えることを「奇跡」の一種だろう。
人が思うよりもずっと、この世で奇跡は起きるから。
奇跡に気づかず通り過ぎてしまったあの日は遠く。