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26、光

生きているということは
誰かに知ってもらって覚えていてもらうことだ

葬送のフリーレンより

お誕生日おめでとうの言葉へ抱く感情は毎年少しづつ変化している。

今年の誕生日は、私今ちゃんと生きてるんだなぁ、という感覚がしっくりきた。

お祝いを口実に会おうねという約束が嬉しい。
今年もたくさん話して思い出を作ろう、というのは、大人になればなるほど、難しい約束なのだと実感する。

みんな限られたキャパシティの中で、優先順位をつけざるを得ない。何をしていてもどんな自分でも、いつでも簡単に会える、それが当たり前だった学生の毎日ではもうないのだ。
そんなこと、ずっと前から分かっていたのに。

だからこそ私の誕生日を、私という人のことを想ってもらえるというのは、とてもありがたいことだと思う。

付き合う人間関係って大事だよね
だんだん合う人が変わってきたんだよね
限られた人で、もう十分なんだよね

そんな話をよく聞くし、自分でもそう思うし、そんな節目の年代なんだろう。

時折感じる寂しさとは、今まで当たり前だった存在がこぼれ落ちていくようなものだったのかもしれない。

だからこそ、おめでとうの知らせが嬉しいのだ。その人の中で、私はまだ生きている。
生きているだけの何かを残せている。

"覚えていてもらうためには ほんの少しでいい。誰かの人生を変えてあげればいい。きっとそれだけで十分なんだよ"

葬送のフリーレンより

以前、誕生日のお祝いは1年の人間関係の通知簿だと思っていた時もあった。
そこまで堅苦しいものさしで、日々をはかろうとしなくても良いかもしれない。

ほんのすこし。ふとした瞬間でいい。
相手にとって、なにか柔らかな光になれていたら。

ろうそくのような心に灯す温かな光
木漏れ日のような穏やかな光
花が開くような目覚めの光
暗闇の先に見える道標のような光

光は色々な色を重ねれば重ねるほど、白に近づく。混ざって濁るのではなくて、どんどん明るくなっていく。

周りの人に影響を受けることはごく自然なこと。その影響が重なるほど、美しくきらめいたものとなる。ならば、誰かをまた照らせるような存在にもなれるだろうか。

私を覚えていてくれる優しい人たちが
どうか優しい光に満ち溢れますように
穏やかな春が訪れますように

印象派のような人に、なりたい

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