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底なしのネガティヴを自覚する


人から「すごいね」と褒められたとき

自分がいかにできないかを知っているからこそ、受けとることができる。


「可愛いね」と言われたとき

自分がいかに不細工かを知っているからこそ、受けとることができる。


「賢いね」と言われたとき

自分がいかに馬鹿なのかを知っているからこそ、受けとることができる。


「きれいだね」と言われたとき

自分がいかに醜いかを知っているからこそ、受けとることができる。


「優しいね」と言われたとき

自分がいかに人に興味がないかを知っているからこそ、受けとることができる。


「真面目だね」と言われたとき

自分がいかにだらしないかを自覚してるからこそ、受けとることができる。



自分のネガティヴを受けとった量と同じだけのポジティブを受けとれる。

私がそれらを受け取っても、天狗になる怖れも、調子にのる心配もしていないのは

「すごい」「可愛い」「賢い」などのポジティブな言葉の裏に、自分がどれだけのネガティヴな闇を抱えているのかを、なんとなく感じているから。

いくら褒めてもらったところで、私のコンプレックスは消えない。

だから、いくらでも褒めてもらって大丈夫。

いくらでも光を浴びて大丈夫。

いくらでも自分を好きになって大丈夫。

永遠に、私の一部は私を嫌いだから。




「この人好き!」と思ったとき

本気で人を愛せる勇気など自分にはないと知っているからこそ、躊躇なく好きと言うことができる。


「この人すごい!」と思ったとき

自分の方がもっとすごいと思っている傲慢さを自覚するからこそ、正直にすごいと言うことができる。


誰とも仲良くなりたいと思っていないからこそ、誰とでも仲良くなれる。


拍手喝采を浴びるとき

自分がそれにふさわしくないことを知っているからこそ、一喜一憂せず淡々とお辞儀ができる。


自分がいかに女性らしくないか知っているからこそ、思いっきりフェミニンな格好ができる。




人間はどこかで偏ることを怖れていると思う。

でも、自分のネガティヴなところを嫌というほど受けいれると

もう、ポジティブをいくら受けとっても、そちらに偏る心配はないんだと

ネガティヴは永遠に存在し続けるから大丈夫だと、安心して受けとることができる。



安心すると、言葉はもはや意味をなさなくなり

ただの、気持ちのいい音となる。


だから、私は素直に「ありがとう」という。

私に、心地のいい響きをくれて、ありがとう。













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