「何が分からないかもわからなくてどうしようもなく辛い」という気持ちが分かってなかった
家庭教師を初めて15年位、学習コンサルを10年位やってきた。
勉強が苦手だとか「わからない」人の気持ちも比較的分かるほうだと思ってた。
ちがった。
全然分かってなかった。
という話をしてみる。
趣味でプログラミングをしているのだが、webサーバを立てようとしていて、SSH接続できるようにしようとした。
恥ずかしながら、いや知らないことを恥ずかしがることは失礼なんだけど、
Webサーバという概念がちゃんと分かっている自信すらない。
SSH接続は「リモートでやる安全な接続の何か」くらいしかわからない。
ググっても、
「用語Aを理解できていないのに、
用語Bを調べると説明文に用語Aが使われている」
みたいなかんじ。
用語Aを簡潔に解説したwebサイトはたくさん出てくるけど、それらを総合して感じ取った「こんな感じだろうか」という感覚が合っているのか、確認する方法がない。
だから用語Aを用いて説明されている用語Bのことも、わかっているのか分かっていないのかがわからない。
「今想像している用語Aの意味が大体合っているなら用語Bはこんな感じの意味なんじゃないか、でもそうじゃないなら、全然わかってないのかもしれないし、よくわからん」みたいな感じ。
こうやって「7割くらいしか意味が分かってない用語」を使って定義された語は、7割の0.7がけ位しか理解できないし、
調べれば調べるほど、これを何度も重ねた「0.7×0.7×0.7×0.7くらいしか意味をつかんでいない用語」が視界に増えていく。
人に質問できない状況下においては、「習うより慣れろ」の姿勢も有用だとは思うが、
あまりにも「習うべきもの」が足りない状態だと、いくら頑張っても慣れることもできないのである。
だけど、調べれば調べるほど「こんなに調べても自分に理解できない概念である」という事実が自分を突き刺してくる。
「みんなが一通り説明を聞いて、理解して使いこなしているものを、理解できない自分の方が悪いんじゃないか」「こんなあまりにもわかっていないものを人に聞くのは申し訳ない」みたいな気持ちになる。
ついに、何が分かるのかも分からないのかも漠然としてきて、
いくら調べても「自分が理解できるものが一つも見つからない、増えない」という状態になった。
1時間調べてたのに、1時間前と比べて何も知識が増えていない。「分かった感じ」も全く増えない。
これ、めちゃくちゃつらかった。
ここ5年くらいで感じた最大の絶望だった。
高校3年のときに健康上の都合で、目指していた国立大を受けるのを諦めて推薦を取ったときと、
大学生のときにうつ病で倒れて大好きだった学問が続けられなくなったとき。
この2つが、今までの人生で最大の辛かった出来事だけど、それに次ぐくらいつらかった。
「わかろうとしているのに、わからない」ことが。
こんなにつらいなんて、知らなかった。
知れてよかった。
「分からないのは恥ずかしいことじゃない。」
「自信を持って「わかる」と言えるところから始めよう。」
そう言ってきたけど、これからはそういうとき、今日のことを思い出して、もっと優しく寄り添えたらいいなと思う。
ちなみに、
1年以上連絡を取ってなかった友達とか、手当たり次第声をかけまくった結果、
ちょっと話を聞いてもらえそうです。
理解できるんでしょうかー。どうなんだろね。