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人とヒト

私はヒトとヒトで他者と存在していたい。
つまり、動物的に。本来の自分として。
都会に揉まれて10ヶ月。人(人間?)としてしか存在できない社会だと感じる時が多い。
誰かに合わせたり、空気を読んで自分を犠牲にしたり、誰かにとっての最適解を考えまくったり。

ヒトで存在するということは怖いことである。
人として存在することが当たり前の社会において、自分を優先することで他者を不快にしたり、不安にしたり、誰かの当たり前を損ねることもあるのだろう。

だけどもわたしは
ヒトとして存在していることが
「私でアルこと」
その状態で他者と交わることが
「誰かと共にイルこと」
なのかなと今思ってる(明日になったら変わってるかもだけど)
私はヒトとして存在していたいと願いながら
人として存在していることに安心している気もする。
最近わかったことだが、私はどうもこだわりが強いらしい。感受性が強いらしい。大多数が気にならないことの全てが気になっているらしい。私にとってはとても沢山考えて、我慢して、理性を働かせて伝えるかを選んだことも、誰かにとっては無防備に選んだように見えるみたいだ。それを実感する時、私は自分の生き方を疑い始める。きっと隣の誰かより人として生きることに対するハードルが高いのだろう。人と言う社会の枠に入れていないように感じてしまう。だったら人として存在することをやめられる場を作ろうよ。っと。
そんな私を木や水や風のような自然はヒトにしてくれる。ヒトとして存在することを無条件に肯定してくれる。だから私は自然が好きだ。自然に溶け込んで生きていたいと願う。

都会に揉まれ、振り回され、普段人として生きていることに生きづらさを感じている全ての人と、ヒトとして存在することを許す場を作りたい。ヒトとして存在することの豊かさと素晴らしさを感じて欲しい。

コンセプトは「森を都会へ」

時に自分勝手に。時にぶつかり合い。時に思いやり。時に一人で。時に沢山の人と共に。時に自分主体で。時に他者主体に。自由に。自分のペースで。自分の心地よいで。

その上でヒトに対する愛を持って存在すること。それが大切だと感じる。私も含めて嫌われたいと思って行動を選ぶヒトはきっといない。その行動の全てに願いが込められているのだと思う。その願いに目を向けていたいし、目を向けてくれる人の隣にいたい。

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