
30代になったときに襲ってきた「女性として働き続けること」に対する途方もない不安と、見えないムードの圧力【とあるエッセイ #03】
私は次の誕生日で34歳になる。
20代から30代に差し掛かり、30歳を越える頃には、これからの自分の人生に対する不安でいっぱいだった。
仕事、結婚、出産、育児…30歳になる頃には、今まで仲良くしていた友人や、切磋琢磨していた同僚たちが、それぞれ異なる人生の選択をしていく。
否が応でも「ライフステージ」という、ある種の呪いのような言葉が自分にのしかかってくる。
私はデザイナーという手に職があり、一般的な職能と比べたら選択肢も多く、幸運な部類に入るだろう。
この幸運に恵まれたのは、育った環境が大きいと思う。私は小学生の頃から、「女性だけどちゃんと働きたい!」と切に願っていた。
その時代ではおそらく珍しいことだが、両親がフルタイムで共働きして私を育ててくれた影響が大きい。
幼少期は鍵っ子で、一抹の寂しさもあったが、社会の荒波に逞しく生きていく両親の背中を見て、「働く」ということへの使命感と、憧れを強く抱くようになった。
「女性だけど働き続けたい」というのが、私の人生の命題のひとつであり、それが自らの進路の軸のひとつになっおり、その結果、選択肢を多くしてくれているのだと思う。これは育った環境がラッキーだったと言わざるを得ない。
そんなラッキーな私でも、30歳を迎える頃から、ある種の生きづらさを感じている。
20代はがむしゃらに働いていた。
とにかく、仕事ができる人間になりたかった。
それはシンプルな価値基準であり、周囲も同じような価値観を持っていた。
しかし、30歳が近づくにつれ、自分の悩みと周りで語られる悩みにズレを感じることが多くなった。状況やライフステージが多様化する中で、悩みが個別化していったのだ。
日本社会において「働く女性」が受け入れられているとは到底言いがたい状況はあるだろう。
最近読んだ「まとまらない言葉を生きる」という書籍の一説で、ジェンダー差と女性の痛みについて言及されていた。保活がうまくいかず、働くことが困難になった女性の言葉である。
「私が子どもを産んだのって迷惑だったんですかね。そんなに悪いことしたんですかね」
この言葉を聞いたとき、半端なく整理のつかない感情(怒りとかやりきれなさとか)がこみ上げてきたけれど、ご本人はぼく以上のものを抱えていらっしゃったはずだ。
こうした感情は、誰にぶつければいいのだろう。ぶつけるべき相手が多すぎるようにも思うし、大きすぎるようにも思う。宛先を特定できない負の感情は、結局、個々人の中で処理せざるをえなくなる。その処理費用として、多額の自尊心が支払われていく。「社会と闘う」「社会に抗う」ことのむずかしさは、こういったところにある。
〜中略〜
この社会は、どれだけ女性の自尊心を削りだしているのだろう。
まさに、自尊心なのだ。
子育てによってキャリア断絶を余儀なくされた友人の、諦めに近い悩みを聞いた時のやるせなさ。
自分がもし子どもを産むとしたら、と考えたときのキャリアのタイミングや収入、貯金を計算し、会社の規定をくまなくチェックし、転職の際にも一定の条件を考慮せざるを得ない惨めさ。
そして、その人生の変数に頭が痛くなり、さまざまな選択に対して腰が引けていく無力感。
理想と現実のギャップに辟易し、周囲と比べて落胆し、宛先のないやりきれない感情によって、少しずつ「私」という自尊心が削られていく感覚。
「私がやりたいことって、何のためなんだろう?」
そんな言葉が降り積もって、途方もない不安の前に立ち尽くす時間が増えていった。
「まとまらない言葉を生きる」の中には他にも興味深い言葉があった。
そんな立派な彼の口から、次のようなフレーズが出たからだ。
「産休・育休って制度そのものより(取得できる)ムードが大事なんだよね」
〜中略〜
もうひとつは、その場にいた人たちが「制度よりムード」という発想の怖さに無自覚でだった点だ。
もしも制度よりムードの方が大きな力を持つのだとしたら、人はムードに左右されて生きなければならなくなる。
〜中略〜
そうしたムードに頼って生きなければならないというのは、恐怖でしかないだろう。「立場の強い人は、立場の弱い人を、その時々のムードに合わせて処遇できる」ということになるからだ。
そんなことに左右されないために、ムードに左右されないきちんとした制度を整えなければならない。
ムードというのは、マジョリティにとっては空気みたいなものだけれど、マイノリティにとっては檻みたいなもの。決して誇張ではなく、恐ろしいものだ。
私自身、働けなくなるほど状況が困窮していないにしろ、「働いている女性」へのムードによる無自覚な言葉をかけられるシーンは多々あった。特に30歳を過ぎたあたりから増えていった。
そんなムードに当てられて、無意識のうちに自ら透明な膜の中に入り、その空気に息苦しさを感じていく。
無自覚というもの自体への怖さ。私自身への無自覚も、他者への無自覚もあるだろう。
とはいえ、34歳が近づく私は、30歳の自分と比べると、不安は減っているとは思う。正確には、「慣れた」とも言える。
だからこそ、自分自身にも、他者にも、「無自覚」にならないことを肝に銘じたいと思う。
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