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2025/1/13 人を励ましたいと心から思った日
長くクリスチャンとして生きていると、誰かを励ます機会が多くある。
しかし励ましというのは、私たちが思っている以上に伝わらないものだと思う。
本当に相手のために放った言葉が相手に刺さらない、はたまた余計に苦しめたり、なんなら自己満足になってしまう時がある。
今週は励ましを与える機会がいつも以上にあったが、私は本当に彼女らの心を救えたのだろうか。
無駄なことばかり言ってしまったような気もする。
木曜日、教会のリーダーから励まし方についてアドバイスを貰った。
誰かを励ます時、何か良い言葉をかける必要はなくて、その人のために一言”祈っているよ”と、それだけで良いのだと言う。
今までの私は、何か良い言葉をかけようと必死だった。自分をよく見せようと、時に厨二病っぽい言葉を言ったこともあったと思う。
黒歴史である。自分にとっても相手にとっても最低だ。あり得ない。
私は話が上手ではないし、意見をまとめることも苦手だ。だから、リーダーからのこのアドバイスは、私にとって大きな励ましとなった。
励ましについて考えている時、嫌な記憶が少し蘇った。
中学生の頃、私は吹奏楽部に所属していた。
田舎の中学校の吹奏楽部、それはもう大荒れで、
初めは10人以上いた同級生メンバーは半年後には6人にまで減った。
意味のない上下関係に耐え兼ねた同級生が次々に退部し、中には先輩からのいじめが原因で不登校になってしまった子もいた。
その子をMちゃんと呼ぼう。
残った同級生メンバーでどうにかMちゃんを学校に連れてこようと、LINEでMちゃんに励ましの言葉を送ったり、励ますためのお菓子パーティーをしたこともあった。
だけど中学生の私たちは気づけなかった。
励ましの言葉がMちゃんを余計に苦しめた。
私たちが良かれとやったことは全て、
Mちゃんからの偽善者という言葉で片付けられ、
私たちはその後Mちゃんに会うことはなかった。
あの時、私が既にクリスチャンだったら、
”祈っているよ”とそう一言声をかけたかもしれない。
彼女は今何をしているのだろうか。どうかMちゃんの人生が祝福されるように。
金曜日、先週の日記に登場した奇跡的もしくは必然的に?同時に失恋した友人に会った。
お互い失恋した割には落ち着いていて、
ちょっとの笑い話も交えながら恋愛について話し合った。
クリスチャンの友人以外と深い話をすることはあまりなかったため、すごく新鮮で純粋に楽しかった。
そして店のチョイスが大正解だった。素敵な店長さんありがとう。
会話の中で、私は励ましの言葉をつい沢山言ってしまったが、”祈っているよ”の一言で事足りたのかもなと少し後悔した。
無駄なアドバイスしちゃったかもなと反省した。
もしかしたら、私がした無駄なアドバイスは忘れますようにと、それさえ神様に祈ってしまえば良いかもしれない。
彼女が元カレを吹っ切れますように。
良い将来を用意してください。もっともっと良い人が現れますように。
そして月曜日、同じ教会に通うクリスチャンの友人2人と会った。
私は先週、何とも幸先の良い2025年のスタートを切った訳だが、やはり年の初めに環境や心境の変化があるのは皆同じようである。
2人も新しい仕事が始まったり、引っ越しや転職を考えていたりと、変化に不安があるようだった。
ここでも私は無駄なアドバイスをしてしまったかもしれない。
私が無駄なことを言っていたら、2人の記憶から抹消してください。
意外と”祈ってるよ”の一言で終わらせるのは難しい。まだまだ修行が必要である。
ただ、失恋をきっかけに成長をかなり感じている。
神様からの祝福も今週は沢山あったように思えるし、やはり2025の幸先は良さそうである。
今週もどうか私の人生に喜びを与えてください。
そして、これから関わる人全て正しく励ませるように。
先週私が励ました人たちの人生に祝福を与えてください。
私に話してくれた相談事がすぐにでも解消しますように。
イエスの名によって祈ります。アーメン。