拗らせた文学好きの末路
昔から本を読むのが好きだった。
柏葉幸子の『霧のむこうのふしぎな町』を読んだ時、私の世界は広がった。
石田衣良の『池袋ウエストゲートパーク』を読んだ時、私の世界は歪んでしまった。
そうやって私の世界を広げ、歪ませ、深くしたのはいつだって本だったと思う。
そして時が流れていくにつれて、古代文学にも興味を持つようになり、気付いたら文学部に進学していた。
本棚に並ぶ色とりどりの背表紙を眺めるだけで、自分の人生はそこまで悪くないな、と思えて、その時間があるだけで本を読み続けてきた意味を感じることができた。
大学の文学部の教授や先輩や後輩たちと、感想を言い合って、議論するのは本当に大好きな時間だった。
枕草子は誰に向けて書かれた作品なのか?
源氏物語のラストは本当に紫式部が書いたのか?
伊勢物語のモデルは誰なのか?
そんな話をして、時が経つのが好きだった。愛しかった。
愛しくて、恋しくなればなるほど、私の世界は歪み、捩れ、濁っていった。
文学をきちんと学ぼうと思うと、まず必ず歴史を学習する必要が出てくる。
そして、音楽や絵画などの他の文化も学ぶ必要がある。
更にそれに伴って、季節の花、時代での建造物、生活様式、コミュニケーションについて勉強する。
なぜなら、文学とは人の生活に基づいて成り立つものであり、人の生活を知るには描かれた時代の流行や思想や常識を知る必要があり、
人々のそういったものは政治や経済や文化を基に成り立っているからだ。
しかも大抵の場合、良い文学は社会に何かを問うてる。
だから歪み、捩れ、濁る。
そして私は拗らせてしまった。
何か作品を読んだ後の感想を述べる時に、同じ作者の作品を全く知らないくせに唐突に語る人の意見は耳を傾けたくない。
社会の抱える課題や政治的思想に関心がない人には心を開きたくない。
歴史的な人物や文化的なものを知らない人は、どんなに現代文化に詳しくても軽蔑してしまう。
感想が同じであって欲しいとか、思想が同じであって欲しいとか、そんなことは微塵も思ってない。むしろ違う方が議論が盛り上がるし楽しい。
ただ、教養や常識がない人が、語ってくるのが受け付けられないのである。
具体的に言うと、芥川龍之介や太宰治を読んだことがないのに「年間○冊読んでます」とドヤ顔してくる人が嫌い。
日本の現状における社会課題について聞いた時に「そういう難しい話はさておき、」みたいな顔してる人が嫌い。
徳川将軍を言えなかったり、各時代の権力者を知らないことについて「そんなの知らなくても生きてられるし」と笑ってる人が嫌い。
知らないことは全然いいけど、知らないくせに恥じてないのが見てて恥ずかしい。
そんなことに気付きたくなかった。
だけど、こんなことに気付いてしまったということについて、私は全責任を文学に丸投げしたい。
だって、文学に出会ってなければ。
綺麗な紅葉が川を赤く染めてる様を見て、“ちはやふる”が出てこない人にガッカリすることもなかった。
宮島の厳島神社の話になった時に映えについての話しかされなくてガッカリすることもなかった。
映画の感想が役者の演技と心に残ったセリフの上辺の会話だけでガッカリすることもなかった。
飲食店に行った時、旬の魚や料理について無知でガッカリすることもなかった。
時雨が見える人が良いな、とか
源氏物語の話ができる人が良いな、とか
芥川賞ノミネート作品最低2つは読んでて欲しいな、とか
世界遺産に興味がある人が良いな、とか
そんな特殊な理想を抱くこともなかった。
イケメンで、高身長で、貯金があって、大手企業に勤める男性で満足できる人生で良かったのに、
歴史詳しくて、映画や文学が好きで、政治や社会課題に関心が高くて、四季の移ろいに心が動く人が良くなってしまった。
前者のがいるんだよ、この世には。
合コンに行けば大抵みんなそうだわ。
でもみんな、芥川読んでないんだもん。
在原業平知らないんだもん。
旬の魚や野菜に興味ないんだもん。
そんなの望む方が悪いって頭で分かってる。
でも、話がつまらなくて無理。
こんな風な人の見方は与謝野晶子あたりにめちゃくちゃ怒られそうなのに
きっと森鴎外は分かってくれるんだよね。
同じ学科だった後輩にこの話をしたら、「すごく分かります」と言ってもらえたので、私の拗らせは修正されることもなく、
拗れた自分が醜くて、卑しくて、大嫌いなのに、途方もなく愛しい。
在原業平の生まれ変わりがいたら絶対付き合いたいけど、彼はモテるから、きっと彼だと私は気付けないだろうな。
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